三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

石人血泪山

2014年05月16日 | 個人史・地域史・世界史
 4月18日夕刻長春に着き、午後10時過ぎにハルビンに着きました。
 4月19日から25日まで、山邉悠喜子さんらとともに、ハルビン、長春、遼源を歩き、26日から5月1日まで、1人で、白山、集安、長春を歩き、5月2日に長春から日本に発ちました。
 4月19日から21日まで、ハルビンの侵华日军七三一部队罪证陈列馆,黒龙江省博物馆,安重根义士纪念馆,东北烈士纪念馆,黒龙江省社会科学院などを訪ね、22日から23日まで,長春の東北陥落史陳列館,伪满皇宫博物院,南大営旧址陳列館,侵华日军100部队(“关东军军马防疫给水部”)遗址などを訪ね、24日から25日まで遼源鉱工墓陳列館,日偽統治時期遼源炭鉱死難鉱工墓記念碑,方家墳万人坑,遼源高级战俘营旧址,遼源煤矿坑口などを訪ね、26日から5月1まで、白山市石人鎮第石人村の血泪山,通化县集安市の好太王碑、太王陵、丸都山城、国内城、集安博物館、鴨緑江にかかる二つの橋などを訪ね、長春を再訪しました。
 
 4月26日朝、6時10分遼源発白山行きのバスに乗り、東豊、梅花口、輝南などを経由して、10時20分にバスの終点に着きました。
 そこは、バスターミナルではなく、街の一角の路上だったので、バスの運転手に石人の万人坑に行きたいのだがどうしたらいいか、尋ねました。
 行き方をくわしく説明してもらっているところにいた人が、「自分がこれから行く途中に石人行のバス乗り場がある」と言って、車で案内してくれました。
 途中、その人は、「安倍をはじめ日本政府は日本が中国でどんなことをしたのか知らないはずはないのに知らないふりをしている」と話しました。
 その人のおかげで、10時35分に石人経由江源行のバスに飛び乗ることができました。
 バスの運転手に「万人坑の近くで降ろしてほしい」というと、どこからいつなんのために来たのか…などいろいろ訊ねられました。
 かれは、「大石人の万人坑の碑は、いまは崩れそうになっている。しかし、日本人が必ず行くべきところだ」と話しました。
 山腹を切り開いた曲がりくねった山道を通ってバスが小石人村への分かれ道を左折してまもなく、バスが止まり、運転手が左側を指さすので見ると、30メートルほど先に、「血泪山」と書かれた石碑がたっていました。11時10分でした。
 そこでバスを降り、すぐ近くの小さな食堂で遅い朝食を食べました。その店で、村の名を訊ねました。大石人村でした。
 それから3時半まで、「血泪山」とその周辺を歩きました。
 食堂をでて、「血泪山」と書かれた高さ3メーそばにトルほどの自然石の石碑の前を過ぎて20メートルほど緩やかな坂の道を登っていくと、1984年3月25日に渾江市人民政府と通化砿務局が建てた「石人血泪山」という石碑と、2011年6月16日に白山市人民政府が建てた「石人血泪山」という石碑が並んで建っていました。白山市人民政府が建てた碑のそばには、
   「石人血泪山,原名“浴淋塔山”,面积约50万平方米。1983年11月24日由吉林省人民政府公布为
   重点文物保护单位。1937年,日本帝国主义强行在石人开矿,被奴役含恨死去了1万余人劳苦矿
   工,均被日寇埋葬于此,故称“血泪山”。1963年在此建阶级教育展览馆一处,并建参观纪念址8处,
   总中有高15米的纪念碑一座,上书“日伪统治时期死难矿工纪念碑”。向下有百级台阶,入口处有三
   个跪伏的罪魁生铁铸像」
という説明版がおかれており、そのななめ前に、後ろ手に縛られた3人の銅像が置かれていました。その1人の右膝には「罪魁 刘棠齢」、1人の右膝には「罪魁 杨秀坤」と刻まれていました。もう1人の名は摩滅していました。
 3人の銅像の正面に「血泪山」の頂上に至る長い石段があり、山頂に「日伪统治时期 死难矿工纪念碑 一九六四年五月十日建立」と刻まれた高さ10メートルほどの碑が建てられていました。「死难矿工纪念碑」の土台の表面のコンクリートがかなり剥落しており、碑の本体を包んでいるコンクリートの壁に亀裂が入っていました。碑の下部に、赤いペンキで「危险! 请勿靠近!」と書かれてあり、たしかに上部から飾り石が崩れ落ちてきそうになっていました。1964年に建立されてから50年間、あまり補修されてこなかったようです。
 「日伪统治时期」に、碑の後ろに広がる谷間に、多くの死者が埋められたようです。遺体は、いまも埋められているのだと思います。

 夕刻、白山市内に戻り、翌日、“日伪统治时期七道沟铁矿死难矿工纪念碑”のある通化县七道沟か通化县兴林镇(白家堡子惨案纪念地)に行くために、七道沟か兴林镇までの交通手段を探したのですが、タクシー以外はみつからなかったので、方針を変えて集安に行くことにしました。と
 白山駅発午後9時19分発通化行きの火車に乗り、10時22分に着きました。定員130人ほどの客車に乗っているのは16~17人ほどでした。
 乗車券ははじめ聞き違いかと思ったのですが、3元(52円ほど)でした。
 この日は、通化の駅前で誘われた人の旅館で泊まりました。20元でした。家族経営の部屋数が10部屋の小さな旅館でした。
 翌朝7時32分発の火車で集安に向かいました。あとで知ったのですが、通化・集安間の火車は、一日一往復でした。

                                           佐藤正人
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 7(最終回)

2014年05月15日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(九)歴史・社会・法

 本訴においては、土地所有における「特別の事情」と、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地の公共性・公益性および「その他の事由」が歴史的・法律的に十分検討されなければならない。
 そのためには、本訴を担当している裁判官は、実際に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建立されている場に行って土地の使用状況を「現場検証」すべきである。
 本訴においては、行政犯罪・企業犯罪である紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働の実態が解明されなければならない。
 そのことによって紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地の公共性・公益性が明確になるとともに、朝鮮人を追悼する碑の敷地への課税行為が社会正義に反していることが鮮明になるであろう。
 また、実質的な原告である紀州鉱山の真実を明らかにする会が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するにいたった歴史的・社会的意味が法廷で検討されなければならない。
 そうすれば、熊野市は「地方税法」6条・367条と「熊野市税条例」71条にもとづいて、固定資産税の課税を放棄しなければならないことが明白になるであろう。
 被告熊野市が訴訟代理人倉田厳圓弁護士と5人の被告指定代理人の名で、2013年6月3日付けで、津地方裁判所民事部合議1係に提出した「答弁書」は、空疎なコトバで埋められている文書であるが、熊野市が日本の行政機関として、紀州鉱山での行政犯罪の歴史的責任をとろうとしないで、紀州鉱山での犠牲者を追悼する場への課税しようとしていることの社会的悪質さを鮮明に示している。
 原告は、被告熊野市が、紀州鉱山で働かされた朝鮮人の歴史について「知らない」と言い、日本への朝鮮人強制連行にかんして虚言を述べている本訴においては、このことにかかわる「証人尋問」が不可欠であることをあらためて強く主張する。
 本準備書面(2)の「(二)「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」にかかわる非科学的虚言」で述べたように、被告は、「国民徴用令」による「徴用」を「強制連行」と同義であるかのような偽言を述べている。しかも、このとき被告は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行が問題になっているにもかかわらず、個別紀州鉱山への朝鮮人強制連行についてはまったく触れることができないで、「国民徴用令」による朝鮮人「徴用」について不確かな資料であいまいなことを語っているのである。
 したがって、ここで原告は、2013年6月20日付け「証拠申出書」で申請した日本近現代史研究者竹内康人さんの「証人尋問」を、ここで再度、裁判官に要請する。
 証人竹内康人さんが立証する事実は、つぎのとおりである。いずれも、被告の「答弁書」等での発言が虚言であることを示すものである。
  (1) 熊野市の、朝鮮人強制連行(戦時の朝鮮人労務動員)の認識が誤りである事実。
  (2)熊野市の、紀州鉱山への朝鮮人強制連行数の認識が誤りである事実。
  (3)熊野市が「徴用されてきたものが245人しかいない」とする誤りの事実(外務省調査資料の原資料の分析による)。
  (4)熊野市には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行を史実として市民に示す歴史的責任があるという事実。
  (5)熊野市が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑に課税することは、強制連行の歴史を究明することなく、過去の植民地
    支配を正当化することであるという事実。
  (6)熊野市が、紀州鉱山朝鮮人追悼碑のある土地に固定資産税を課することが不当であるという事実。

 熊野市にたいし、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人について死亡原因も死亡者の名前も究明しようとしていないことが行政機関としてどれほど深刻な行政犯罪であるかを自覚するように、あらためて原告は促す。
 「朝鮮人強制連行はなかった」、「紀州鉱山の朝鮮人の強制労働とその死者については知らない」、と言い張る被告熊野市の態度は、朝鮮人の紀州鉱山への強制連行の事実と紀州鉱山での死者について究明し、その究明を根拠にして追悼碑の土地にたいする固定資産税への課税の不当性を訴えた原告らの提訴に正面から向き合うことを放棄し、法廷で真実を争うという裁判制度の本質を否定する態度である。
 熊野市は、みずからが紀州鉱山における朝鮮人の強制労働とその死者について調査し、その実態を明らかにするならば、おのずから紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地に課税することが、法的にも社会的にもできなくなるだろう。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 6

2014年05月14日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(六)「熊野市紀和鉱山資料館」問題・「英国人墓地」問題

 被告熊野市が設置した熊野市紀和鉱山資料館には、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられた英国人兵捕虜については、「戦時下で徴兵によって減少した労働力を補うため英国人兵捕虜を働かせた」ことを人形などをつかって説明されており、紀州鉱山で死亡した16人の英国人兵捕虜の名前が刻まれた碑の写真パネルなどが展示されている。
「熊野市紀和鉱山資料館条例」の第1条には、つぎのように書かれている。
   「本市における鉱山の歴史及び民俗に関する伝統文化を永く後世に伝えるため、貴重な資料を収集し、収蔵し、保存し、及び
   展示し地域文化の発展に寄与することを目的として、熊野市紀和鉱山資料館を設置する」。
 つまり、被告熊野市は英国人捕虜の強制労働にかんする資料の保存を、みずからの行政責任において、熊野市の「地域文化の発展に寄与する」資料として「収集し、収蔵し、保存し、及び展示」しているのである。その熊野市が紀州鉱山の朝鮮人の強制労働とその死者について、どうして「知らない」などと言えるのか。
 被告熊野市は、紀州鉱山で死亡した16人の英国人兵捕虜にかかわる「英国人墓地」を熊野市の文化財に指定し、郷土の歴史的な資料として保存している。
 だが、紀州鉱山に強制連行され強制労働で死亡した朝鮮人犠牲者については、なにもしてこなかった。
 熊野市が「英国人墓地」を市の文化財に指定しているのは、いまは熊野市に併合されている紀和町が1965年にこれを文化財に指定したのを踏襲したからだと言うが、熊野市は、これが文化財に指定された理由を、「わからない」と言う。熊野市指定文化財の指定の経緯も、文化財に指定をした主旨も、当の熊野市が説明できない、というのは異常なことである。
 文化財保護法では文化財を「学術上歴史上価値が高いもの」と定めている。熊野市は、「英国人墓地」がどのような意味で「学術上歴史上価値が高いもの」と判断したのかを説明できないまま、文化財に指定しつづけ、保護しているのである。
 それだけでなく、被告熊野市は「英国人墓地」に固定資産税を課税しない理由を、あたかも文化財指定とはまったく関係のないかのように言い、この土地は石原産業から寄贈を受け、被告に帰属したものだから、固定資産税が課せられていないのだ、と主張している。
 だが、熊野市が「英国人墓地」を文化財に指定したことは、「英国人墓地」が文化財という公共の財産であることを承認したからではないのか。石原産業から寄贈を受けたのも、「英国人墓地」を文化財として指定しているからではないのか。
 1965年に「外国人墓地」を文化財に指定したのも、1978年にその敷地の石原産業からの寄贈を受け入れたのも、ともに旧紀和町がみずからの意思と判断においてやったことであり、熊野市は旧紀和町のこの意思と判断を踏襲し、2005年に「外人墓地」を「英国人墓地」と改称して熊野市の指定文化財をしているのではないか。
 英国人墓地に「学術的歴史的な価値」があると判断した被告熊野市は、紀州鉱山における英国人捕虜の「墓地」に公的な意味を認めているのではないか。
 熊野市は「英国人捕虜」の紀州鉱山での犠牲者を追悼する「墓地」を公共の土地として認めていながら、紀州鉱山で働かされ死亡した朝鮮人については、労働の実態も、犠牲者の名前も、遺骨の所在も知ろうとしない。それどころか、犠牲となった朝鮮人の追悼碑の敷地に課税するという行政犯罪をおこなっている。


■原告準備書面(2) 
(七)「「親書」を手渡したことは認め、その余は知らない」と主張する無恥

 「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の②のには、「「3 韓国での批判・抗議行動」のうち、2012年4月3日(原文は元号使用)、金昌淑韓国慶尚北道道議会議員が中田悦生熊野市議会議長に慶尚北道道議会議長の「親書」を手渡したことは認め、その余は知らない」と書かれている。
 この「親書」は、慶尚北道議会の議決にもとづき、慶尚北道議会の李相孝議長が中田悦生熊野市議会議長にあてて書いたものである。2012年4月3日に慶尚北道議員団が熊野市議会を公式訪問し、中田悦生熊野市議会議長と岩本育久副議長と面談したさい、熊野市を公式訪問した慶尚北道議員団の金昌淑団長が中田悦生熊野市議会議長に直接手渡した。「親書」の日本語版には、
   「今度、私を変わりに(ママ)慶尚北道議會議員訪問団は熊野市の紀州鉱山で亡くなられた韓國人に對する眞實糾明と追悼碑
   敷地の課税撤回を要求するため熊野市議會の議長様を訪問する事になりました。
    熊野市議會も紀州鉱山で行われた不幸な事件に對して關心を持って歷史的な眞實糾明のためにご協力をお願い申し上げます。
    これからも両議會がお互いに信や友好協力と共により活發な交流が行われる事を願っております」、
と書かれてあった。
 これにたいして、中田悦生熊野市議会議長が「関心を持って勉強していきたい。係争中なのでコメントできない」と答えたことが新聞で報道された(甲第17号証・第18号証)。
 「親書」が求める真相糾明は、被告熊野市の責任においてなされるべきものである。また、課税撤廃は、課税者たる熊野市がなすべきことである。
 このときの公式面談および「親書」の内容は、当然、熊野市長にも、熊野市議会正副議長から公式業務の一環として報告されているはずである。
 それにもかかわらず、被告熊野市は、「その余は知らない」と偽りを述べ、裁判所を愚弄している。被告熊野市が「その余は知らない」とここで言っていることが、この「答弁書」全体の虚偽性を明白に示している。
 熊野市の虚言を示すためにも、2013年6月20日付け「証拠申出書」で申請した金昌淑大韓民国慶尚北道議会議員の「証人尋問」を、ここで再度、裁判官に要請する。


■原告準備書面(2)
(八)租税法律主義・租税公平主義について

 「答弁書」の第4の末部(10頁)で、被告熊野市は、
   「租税法律主義や租税公平主義に鑑み、市長にはその判断について自由裁量権を有するのではない」
と主張している。
 しかし、地方税法第6条(公益等に因る課税免除)第1項では、
   「地方団体は、公益上その他の事由に因り課税を不適当とする場合においては、課税をしないことができる」
とされている。追悼碑の土地が、公益性よりも広い概念をふくむ言葉として使用される公共性を有していることは、使用目的と使用状況をみれば明らかであるから、同法第6条により課税が免除されなければならない。
 また、地方税法第367条(固定資産税の減免)では、
   「市町村長は、天災その他特別の事情がある場合において固定資産税の減免を必要とすると認める者、貧困に因り生活のため
   公私の扶助を受ける者その他特別の事情がある者に限り、当該市町村の条例の定めるところにより、固定資産税を減免するこ
   とができる」
とされている。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が法人でないために原告ら5人が所有者として登記したものであり、原告らが私的に利用したり利益を得たりする目的のために購入したのではない。
 原告ら5人は、地方税法367条でいう「特別の事情がある者」に該当し、当該土地は、熊野市税条例第71条1項4号の「特別な理由があると市長が認定する固定資産」に該当する。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する歴史的な経緯と社会的な状況を認識するならば、地方税法6条、地方税法367条、熊野市税条例71条1項4号にもとづき、土地税が免除されなければならない。
 日本政府(地方政府をふくむ)と日本企業が法律にもとづいて朝鮮人を紀州鉱山に連行した事実とその朝鮮人の数十名を死に至らしめた事実を明らかにすることは、歴史の真実を究明することである。
 被告熊野市が、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働という非人道的な行為に加担したことを反省し、犠牲者に謝罪し、犠牲者を追悼することによって責任の一旦を果たしていくことは、人権の尊重を旨とする社会の実現に寄与するものである。
 租税において、「租税法律主義」と「租税公平主義」が原則とされているのは、国家や地方自治体の不当な課税から市民を守るためである。この原則を担保するために、地方税法6条、367条、熊野市税条例71条が設けられているのである。これらの法律・条例が正しく解釈され、厳密に適用されてこそ、「租税法律主義」と「租税公平主義」といえる。
 被告熊野市は、
   「そこでいう「特別の事情」とは地方税法6条1項の「地方団体は、公益上その他の事由に因り課税を不適当とする場合において
   は、課税しないことができる」とする」(答弁書9頁、21行目~24行目)
と主張しているが、この条文では、「公益上」と「その他の事由」が区別されている。
 それにもかかわらず、被告は、この区別を無視して、
   「しかして、〔熊野市税条例71条1項〕4号の「特別な理由」とは「公益上その他の事由に因り課税を不適当とする場合」であると
   解されるところ、特定の個人や団体とは離れて公の利益のため固定資産が使用され、当該固定資産の納税義務者個人に固定資産
   税を負担させるのが相当でないとみられる場合に限って認められると解するのが相当である」(「答弁書」10頁7~11行目)
と主張している。
 しかし、熊野市税条例71条(固定資産税の減免)では、(1)が貧困、(2)が公益、(3)が災害、(4)が特別な理由であるが、この(4)の特別な理由が「公の利益」に限るのだとすると、(2)の公益とダブルことになり、(4)の規定の文言「前3号に掲げるもののほか、特別な理由がある……」という文言と矛盾することを主張することになることから、被告の法解釈は誤っている
 「租税法律主義や租税公平主義に鑑み、市長にはその判断について自由裁量を有するものではない」(「答弁書」10頁12~13行目)という被告熊野市の主張は、地方税法6条・367条、熊野市税条例71条1項4号の解釈を誤っており、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の土地に熊野市長が不当に課税したことを「弁明」しようとする詭弁である。
 熊野市長は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の敷地への課税を免除することによって、租税法律主義や租税公平主義という法の精神をまもることができるのである。市長にはそのような自由裁量権がある。
 市長が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地にたいする固定資産税を免除すべき根本理由は、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」、「紀州鉱山での朝鮮人強制労働」という歴史的事実である。
 それについて、被告熊野市が「知らない」と強弁することは、地方税法・熊野市税条例を厳密に尊守して紀州鉱山の朝鮮人追悼碑の土地にたいする課税を免除するという法的・社会的判断を回避する行為である。それは、公正な裁判を妨害する行為である。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 5

2014年05月13日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(五)「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」について

 「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①のには、「「3 紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と書かれているだけである。
 紀州鉱山で朝鮮人がどのように生活し、どのように働かされ、どのようにして亡くなったのかは、不明な点が多い。しかし、そのことが不明のままに放置されていること自体が、紀州鉱山における朝鮮人の労働の強制性、および朝鮮人への重大な人権侵害を示している。
 被告熊野市が「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と「答弁」して済ませようとしていることは、かつて日本政府や石原産業がおこなった紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働と人権侵害に、過去においてだけでなく現在においても加担することである。被告は、「知らない」と「答弁」することの犯罪性を自覚し、みずから、いまからでも、急いで誠実に紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者について調査し、その調査結果を公表しなければならない。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人について、原告らがこれまで明らかにできたことは以下のことである。原告らは紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の人数と名前を明らかにするさいに、つぎの五つの資料を手がかりとした。
   ① 「石原産業が1946年9月に三重県内務部に提出した報告書」(以下、『1946年石原産業報告書』とする)。
   ② 1269人の名前と死亡年月日が記された『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)という「会社創業以来
    の物故者」の名簿。
   ③ 紀和町小栗須の慈雲寺にある紀州鉱山で亡くなった423人の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』。
   ④ 紀和町和気の本龍寺の無縁堂に納められた無縁仏の骨箱とそれを包んだ白い布。
   ⑤ 遺族の了解を得て韓国で確認することができた除籍簿。

 ①の『1946年石原産業報告書』は、強制連行の事実を裏付けるものではあるが、その記載内容は不十分であり、誤りあるいは虚偽が認められる。『1946年石原産業報告書』の数字をはるかに上回る数の死亡が認められ、明らかにこの記載内容は事実と異なっていることがこれまでの調査で判明している。
 たとえば、『1946年石原産業報告書』のはじめの部分では、「死亡者数」は「10人」と記載されているが、名簿部分で「退所」(紀州鉱山を離れたこと)の「理由」として、「死亡」とされているのは5人だけである。
 しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会の調査では、「退所」の「理由」として、「逃亡」と記載されている千炳台さんは、韓国慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所で閲覧した除籍簿には、1944年8月1日に当時の上川村(旧、紀和町和気。現、熊野市)で死亡し、8月2日に死亡届けが出され、上川村長が受理した、と記されている。死亡届が出された1944年8月2日は、『1946年石原産業報告書』では、千炳台さんが「逃亡」したとされている日である。
 千炳台さんの名前は、上記の②と③でも記録されている。
 「永田白洛」(本名、李白洛)さんは、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、韓国の除籍簿では、1945年6月29日に紀州鉱山で亡くなったと記されている。また、李白洛さんの名前は、上記の③のなかにもある。
 「金岡學録」(本名、金學録)さんは、李白洛さんと同じく、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、1945年1月3日に紀州鉱山で亡くなったことが、上記②『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)に記録されている。金學録さんの名前は、上記③のなかにもある。

 日本で作られた文書資料と物資料のうち、①は、全員が朝鮮人と断定できる。
②③④は、①に記載された「創氏改名」された名前と照合しつつ、朝鮮人の名前によく使用される漢字、および本姓を残して2文字にした姓から考えて朝鮮人死者を特定した(たとえば、②と③で死亡が確認され、②で1944年8月6日に「殉職」とされている「安田徳勲」さんは、安徳勲さん)。
 このようにして、②では24人、③では12人、④では5人が朝鮮人と考えられ、また、①の『1946年石原産業報告書』で、10人とされている「死亡者」のうち、名簿部分では「逃亡」あるいは「帰国」とされている3人が紀州鉱山で亡くなっていたことが、韓国での調査や②③の名簿資料によって明らかになっている。
 上記したように、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2010年3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会までに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を確定することができたのは35人である。それは、死者の名前が記された資料を整理し、精査し、追跡調査することによってできたことであった。
 35人のなかには、「創氏改名」されていて本名を知ることができない人も多かった。しかし、その後、韓国での調査によって、①②③の資料で「創氏改名」された名前で記載されている「玉川光相」さんの本名が劉太相さんであることがわかった。
 本名が確認できず死者の氏名が不完全であること、そして亡くなった朝鮮人の遺骨の所在がほとんど明らかにされていないこと、多くの遺族との連絡がとれないこと、そしてそのような状態が戦後70年近くのあいだ放置されていること、そして地元の行政責任者である熊野市がそれらの調査を放棄し、原告らの調査に非協力的な態度をとっていること、戦後日本のこのような状況がなによりも紀州鉱山の朝鮮人労働の実態を示している。
 紀州鉱山に強制連行され、強制労働させられていた朝鮮人が紀州鉱山で死亡した。
 その犠牲者を追悼し犠牲者の遺族に謝罪するのは、被告熊野市にとって当然のことである。熊野市には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる行政責任がある。
 現在熊野市に併合されている紀和町が出版した『紀和町史』には、
   「朝鮮人労働者については、正確な人数・募集の方法・労働条件の実態・労働災害・民族差別など広く資料の調査を必要とする」
と書かれている。それにもかかわらず、「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と回答した熊野市の行為は地方公務員法第33条「職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」にも違反している。
 「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」という熊野市の発言は、本訴の本質のかかわる重大な最悪の発言である。そのことを示すために、2014年2月18日付け「証拠申出書」で申請した紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児である李炳植さんと紀州鉱山で亡くなった千炳台さんの遺児千鳳基さんの「証人尋問」を、ここで再度、裁判官に要請する。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 4

2014年05月12日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(四)「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」について

 「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①のには、「「2 石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」と書かれているだけである。
 熊野市は、「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」と公言することがいかに無恥な行為であるかを理解できないのだろうか。
 被告熊野市は「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働)」は知らない」として、紀州鉱山における朝鮮人の強制労働の実態を知ろうとしない。しかし、紀州鉱山の朝鮮人がどのようにして日本に連れて来られたのか、紀州鉱山でどのように働かされ死んでいったのかの実態を究明することなしに、本訴訟の実質審理は進められない。
 日本の植民地支配下にあった朝鮮からどのようにして朝鮮人が紀州鉱山に連行され、労働を強いられたかという、被告が「知らない」と強弁しているこの重大問題は、原告らの聞き取り活動などによってかなりの程度究明されている。
 被告が原告の主張に反論するのであれば、紀州鉱山の朝鮮人がどのような経緯で紀州鉱山に来たのか、どのように働かされていたのか、その実態をみずから調査しなければならない。しかし被告はその作業を実行しようとすることなく、「知らない」と述べている。このような被告熊野市の態度は、本質的に訴訟そのものを拒否する態度であり、裁判制度を愚弄するものである。
 原告らが調査した、以下に述べる紀州鉱山における朝鮮人労働者の強制連行と強制労働の実態を見るだけでも、被告の主張があやまりであり、むしろ強制連行、強制労働の実態を隠蔽するものだということがわかる。
 原告らは、紀州鉱山に連れてこられた朝鮮人から、韓国で1996年10月から直接に聞き取りをおこない、紀州鉱山における連行と労働の強制性を確認してきた。
 原告らは、1997年5月に韓国の江原道麟蹄郡で、金興龍さん、丁榮さん、孫玉鉉さん、金石煥さんから、1997年8月に江原道平昌郡で、尹東顕さん、崔東圭さん、金烔儀さん、金烔燮さんから、忠清北道堤川市で秋教華さんから、1998年8月に慶尚北道軍威郡で、南正埰さん、張大烈さん、張斗龍さん、朴貴連さんから、慶尚北道安東市で、林聖熙さんから、紀州鉱山に強制連行された当時の話を聞かせていただいた。
 金興龍さん(1914年生)はつぎのように証言した。
   「鉱山に行くとは知らないでつれていかれた。
    徴用の年齢がすぎていたので、行かなくてもよかったのに、里長がむりに行かせた。
    春川をとおってソウルにいき、そこで神社遥拝させられた」。
 金石煥さん(1923年生)はつぎのように証言した。
   「100人行くことになっていたが、2人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連
   絡だけしてきた。
    紀州鉱山にいっしょに行った人のなかに、結婚して3日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そ
    のとき、21歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ」。
 林聖熙さん(1922年生)は、つぎのように証言した。
   「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人がつかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜に来るんだ。以
   前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。
    面庁でひと晩寝て、出発した。日本人が面庁に来て見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。
    紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかっ
   た人も殴られた。
    解放になって、帰ってこられただけでありがたかった」。

 原告らは、1996年11月および1997年5月に、名古屋で許圭さん(1915年生)から話を聞かせていただいた。許圭さんは、1940年秋から1946年春まで紀州鉱山で朝鮮人労働者の「監督」をしていた。当時の名は「中山圭」であった。
 許圭さんはつぎのように証言した。
   「紀州鉱山で働いていた朝鮮人が逃げて、熊野川で流されて死んだことがあった。矯風会と警察から、
   いって調査してこいといわれて、いってきて、報告書をだした。
    その後、会社から、朝鮮人のことを、責任もってやってくれといわれて、朝鮮人を徴用、管理する
   ために、労務担当社員として入社した。日本人は、応召で労働者はすくないので、労働者を朝鮮から
   つのろうということだった。
    労働者を徴用するため、江華島、三陟、陽平、永川などに行った。連れてくる労働者の人数をきめ
   るのは会社。
    今回は100人、とすると、大阪の鉱山局に申請する。どこそこの道、どこそこの郡から、何人、という
   許可証をもらって、それをもって、朝鮮に行く。朝鮮では、朝鮮総督府、道庁、警察などにあいさつに
   いって、金をわたした。
    釜山水上警察には、石原から100円、三井、三菱などからは300円がわたされていた。鐘路警察署長だけ
   朝鮮人だったが、あとはみな日本人だった。
    一人で朝鮮にいったのではない。助手として、日本人の労務課員と朝鮮人を連れていった。その朝鮮人は、
   前に連れてきた人だった。医者も連れていった。
    郡警察で、石原産業への徴用者をひきわたされた。郡から、指定列車で釜山へ行き、釜山で船にのり下関
   へ。下関から列車にのり、大阪を経由して阿田和まで行き、そこからトラックで紀州鉱山へつれてきた。わた
   しは引率の責任者だった。郡の警察から、朝鮮人の名前、住所、年齢の書かれた名簿をもらった。
    シンガポールにいた支店長大藪は、紀州鉱山に捕虜を連れてくる計画をもって、捕虜の管理責任者、労務
   課長として転勤してきた。会社から、朝鮮同胞は許さんに権限をあたえる、といわれた。
    わたしのしごとは、徴用朝鮮人の監督だった。鉱山の労務係は15、6人いたが、そのうち、朝鮮人はわたし
   たち兄弟2人だけだった。
    朝鮮人を収容するための八紘寮が完成したのは、わたしが徴用に出かけているときだった。寮長に大阪本社
   の警備隊長がなった。かれは反感をもたれて殴られけんかになった。殴った朝鮮人が警察に引っ張られる事件
   になった。
    わたしは朝鮮から帰ると、この寮長をやめさせた。
    戦争がおわるすこしまえのことだと思うが、
       「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」
   と坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。
    この落書きが問題になり、憲兵がきてしごとが中止になった。朝鮮人を並べて、「だれが書いたのか」と
   調べた。
    落書きをみて、「ようやった」、「まったく、そのとおりだ」と思った。1、2日で、この落書きは
   消された」。
       註 以上の金興龍さん、金石煥さん、許圭さんの証言は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、
        在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』第27号(アジア問題研究所発行、1997年9月)
        に発表した「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうす
        るのか――」からの抜粋であり、林聖熙さんの証言は、『パトローネ』35号(写真の会パトロ
        ーネ発行、1998年10月)に発表した「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安
        東・軍威と紀和町で」からの抜粋である。

 以上の証言から、紀州鉱山への朝鮮人の連行の強制性、および鉱山労働の強制性は、疑う余地のないものである。
 被告熊野市は「知らない」と強弁し、事実をみずから調査するという義務を放棄し、「強制連行はなかった」とする政治家の発言や新聞記事などをもちだして空疎な反論をしている。そのような反論は強制連行の実態を隠蔽し、その責任を回避することにほかならない。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 3

2014年05月11日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(三)「以上に反する原告らの主張に対しては争う」について

 「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①の「「 紀州鉱山への朝鮮人強制連行」について」で、熊野市は、主として外務省の「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を正確な表題すら示すことができないまま恣意的に引用し、みずからの主張とし、その最末部で、「以上に反する原告らの主張に対しては争う」と述べている。原告は、被告熊野市がこの約束を厳守することを望んでいる。
 被告熊野市は原告の主張にたいして、これを「争う」として、国民徴用令の解釈と朝日新聞の記事にもとづくひとりの国会議員の発言などを手がかりとして朝鮮人の強制連行という歴史的事実の犯罪性を軽減しようとしている。
 被告熊野市は日本植民地支配下の朝鮮から朝鮮人がどのようにして日本の国内に連れてこられ、どのような労働を強いられたのかについてみずから真剣に追究することなく、歴史的事実を隠蔽しようとしている日本外務省の1959年の日韓会談当時のひとつの実証性の希薄な文書を「証拠」として「答弁」している。このような「答弁」は、裁判所を愚弄する犯罪行為である。
 「答弁書」3頁~5頁では、「当時の朝鮮人」を「いうまでもなく日本国民であった」としたうえで、「国民徴用令」によって「徴用」された朝鮮人だけが「徴用労務者」であったかのような欺瞞が述べられており、「募集」・「官斡旋」によって日本で働いた朝鮮人は強制連行されたのではなかったかのようにされている。「徴用」を拒否する者にたいして下される罰則は「日本人でも同様であって、朝鮮人に対してだけではなかったことは言うまでもない」として、朝鮮人が「国民徴用令」にもとづく強制労働に従事させられたことを肯定している。
 熊野市は、他国の主権を侵害し、他国の民衆の人権を踏みにじる行為を正当化し、歴史にたいする無反省な態度に終始している。
 日本政府による朝鮮人強制連行の政策と、戦後その実態が隠蔽されてきた経緯を以下に述べる。

1、日本政府による国家総動員法以降の朝鮮人強制連行政策
 1938年の「国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件(勅令316号)」によって、「国家総動員法」が朝鮮で「施行」された(朝鮮総督府企画室編纂『朝鮮時局関係法規 全』〈台本1938年10月~追録15号1944年9月〉参照)。
 この「国家総動員法」を前提にして、1939年7月4日に日本政府は1939年度の「労務動員実施計画綱領」を閣議決定した。そこでは、
   「朝鮮人の労力移入を図り適切なる方策の下に特に其の労力を必要とする事業に従事せしむるものと
   す」(第13条)
とされていた。朝鮮人の日本への連行(「労力移入」)は、閣議決定により国民国家日本の政策として実施された。それは、「従事せしむるもの」という強制的なものであった。
 1939年7月28日に、「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」、「朝鮮人労務者募集要綱」(内務・厚生両次官名義の依命通牒)がだされ、「募集」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行が開始された。
 アジア太平洋戦争開始2か月後、1942年2月に日本政府は「朝鮮人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行を開始した。
 厚生省が提出した1943年の第84回帝国議会参考資料文書によれば、朝鮮人の日本への連行実施にあたり、厚生省、拓務省、朝鮮総督府が協議し「具体的移入要項」を決定し、「朝鮮人労務者募集要綱」を地方長官に通牒している。「特に其の労力を必要とする事業」(軍需指定事業)の事業主は、「移入許可申請」を職業指導所に提出し、日本政府の許可のもとで朝鮮人を日本に連行している。
 1944年9月に日本政府は「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」を閣議決定し、「徴用」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行が開始された。
 「募集」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行、「官斡旋」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行、「徴用」方式での朝鮮人の日本への労働者としての連行のいずれも、朝鮮人の自由意志にもとづくものではなく、強制力の強度の違いはあったが、強制的な連行であった。

2、戦後における日本政府の朝鮮人強制連行にかんするずさんな調査
 日本政府は、現在にいたるまで、朝鮮人強制連行にかんする具体的な調査をほとんどおこなっておらず、関係文書も十分には公開しておらず、特に重要な基本文書は隠蔽しており、強制連行した朝鮮人やその遺族に謝罪も賠償もしていない。
 そのような状況のなかで、2010年3月10日、衆議院外務委員会で自民党議員のひとりが、1959年7月11日付けの外務省文書「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」をとりあげ、
   「もしも、この外務省発表資料の記載が正しければ、いわゆる「強制連行」なる事実はなく、「同じ日
   本国民としての戦時徴用」と呼ぶべきだということになります」、
   「また、「戦時中に徴用労務者として日本内地に来られて、戦後も日本に残留された在日韓国人数」は19
   59年(原文元号)時点で245人のみとなっており」、「強制連行」を根拠に、現在では46万9415人も居られ
   る在日永住韓国人に参政権を付与しようとする原口総務大臣などの主張は筋が通らないということにもな
   ります」、
と発言している。この発言は、翌日の『産経新聞』で報道され、その直後から、朝鮮人強制連行という事実はなかったといういつわりの歴史を主張する日本人によって、1959年7月13日付けの『朝日新聞』東京版朝刊記事「大半、自由意志で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」とともにネット上などで流布された。
 しかし、その後、日本政府は2010年7月1日の閣議で、「245人にすぎない」とした1959年7月の外務省発表について「詳細について確認することができないため、お答えすることは困難である」とする答弁書を決定した。日本政府は、現在、朝鮮人の強制連行について詳細な調査を行っていないために強制連行された朝鮮人の数を回答することができないのである。
 被告熊野市も、みずから朝鮮人強制連行・強制労働にかんする歴史的事実を追究しようとせず、それどころか歴史を偽造しようとする日本人の言説を利用し、歴史の偽造に加担している。
 日本政府と被告熊野市は朝鮮人強制連行の歴史的事実を調査せず、事実を隠蔽し、謝罪も賠償もしていないが、これにたいして韓国政府は、強制連行された朝鮮人とその遺族に日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会などの調査にもとづいて、「慰労金」を払っている。
 日本政府が事実調査を回避しつづけ、基本資料を隠蔽していることもあって、「募集」方式、「官斡旋」方式、「徴用」方式での朝鮮人連行の実態を明らかにするためには、被害者やその遺族などからの証言を聞かせてもらうことが重要である。また、加害者から事実を話してもらうことも重要である。
 原告らは、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人本人、および石原産業の関係者から証言を聞き取り、強制連行・強制労働の事実を明らかにしたうえで、日本がその歴史的責任を取るべきことを訴えて、朝鮮人犠牲者の追悼碑を建立したのである。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 2

2014年05月10日 | 紀州鉱山
■原告準備書面(2)
(二)「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」にかかわる非科学的虚言

 「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①の「「1 紀州鉱山への朝鮮人強制連行」について」において、被告熊野市は、どの部分がみずからの文章であるか、どの部分が引用あるいは孫引きであるかがわかりにくい非科学的で不正な形式で、本訴の根本問題にかかわって叙述している。
 ここで、被告熊野市の訴訟代理人と訴訟指定代理人計6人は、「「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」について」と題して、紀州鉱山への朝鮮人強制連行という個別の歴史的事実にかんしてまったく具体的に述べることなく、1952年7月13日付けの「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」という誤解を招きやすい表題の『朝日新聞』の記事、その記事の基である1952年7月11日付けの外務省の発表「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」(正確な表題は「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」)などを恣意的に引用し、なかば自分の文章であるかのように仮装して、日本への朝鮮人強制連行の歴史的事実を極端に小さく書き表している。
 このとき、かれらは、かれらの虚言につごうのいい「大半、自由意思で居住 外務省、在日朝鮮人で発表 戦時徴用は245人」という表題の1952年7月13日付けの『朝日新聞』の記事を引用し、それを2013年6月3日付け「証拠説明書」で「乙第4号証」として裁判所に提出しているが、この記事の内容にたいする反論を報道している翌日の記事、つまり1959年7月14日付けの『朝日新聞』の記事「外務省発表はデタラメ 徴用者の数 朝鮮総連が反論」は提出していない。
 このような欺瞞は、科学的な歴史叙述においてはもちろん、対裁判所文書においても許されることではない。
 在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会は、同年7月14日に、7月12日に日本外務省が発表した「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」という“白書”は事実に反しており帰国遅延策であるという声明を発表していた。
 2013年6月13日付けの「乙第4号証」の「立証趣旨」に、熊野市は、
   「韓国側の「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきた」といった中傷に対し、
   外務省が、在日朝鮮人の大半が自由意思で居住し、そのうち戦時徴用された者は245人であると発表したと、
   朝日新聞が報道したこと」
と書いている。これだけを読むと、あたかも外務省が「戦時徴用された者は245人であると発表した」かのようではないか。
 熊野市は、1959年7月13日付けの『朝日新聞』の記事や1959年7月11日付けの外務省の文書などをもちだしてきて、1945年8月以前のことと以後のことをあえてごっちゃにして、
   「「……現在日本政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き1名もいない」と明記さ
   れている」
などと浅はかなトリックをつかってデタラメを書き、裁判所を愚弄し欺こうとしている。
 熊野市は、さまざまな姑息な方法で、日本への朝鮮人強制連行にかんしてあたかも資料にもとづくかのように偽装して偽りの歴史を述べている。
 熊野市は「答弁書」の「証拠説明書」の「乙第5号証」の立証趣旨に、
   「1939年(原文元号)以降も、朝鮮から日本への密航者が続出していたことを朝日新聞が報道していたこと  乙4
   の朝日新聞の記事の基になった外務省の発表内容」
と書いている。「乙第4号証」は、水間政憲著『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』(徳間書店、2010年7月)の一部分の複写だが、同書は、朝鮮人強制連行にかかわる歴史事実を示すものではないだけでなく、歴史事実を隠蔽し虚偽を叙述しているものである。
 熊野市は、「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①の「「 紀州鉱山への朝鮮人強制連行」について」において1959年7月11日の外務省の文書を利用しているが、それは、原文ではなく、水間政憲著『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』からの孫引きであり、誤植もそのまま踏襲されている粗雑なものである。
 被告熊野市は、1952年7月11日付けの外務省の発表「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」を根拠として、日本への朝鮮人強制連行について虚偽を述べているが、大蔵省管理局の文書『日本人の海外活動に関する歴史的調査』(1947年12月ころ作成。1950年までに大蔵省管理局が刊行)の通巻第十冊朝鮮編第九分冊に掲載されている「朝鮮人労務者対日本動員数調」には、1939年から1945年までに72万4787人が「動員」されたと書かれている(82頁)。
 被告熊野市は、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」、「紀州鉱山での朝鮮人強制労働」にかんする歴史的事実を「知らない」としていながら、実際には、「乙第5号証」のような証明力のない「証拠」を利用して歴的事実を歪曲し、熊野市の歴史的・法的責任を逃れようとしている。
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今月22日の裁判(口頭弁論)を前にして 1

2014年05月09日 | 紀州鉱山
 今月22日午前11時30分から、三重県津地方裁判所302号法廷で、熊野市を被告とする対熊野市第2訴訟(「2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件」)の3回目の裁判(口頭弁論)が開かれます。
 みなさんの傍聴(裁判監視)をお願いします。 

 きょう(5月9日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、この訴訟にかかわる「原告準備書面(2)」を津地方裁判所民事部合議1係に出しました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ことし2月20日午前10時に、被告熊野市が2013年6月3日付けて津地方裁判所民事部合議1係に提出した「答弁書」にたいする抗議・批判・質問を、「準備書面」という形式で、津地方裁判所民事部合議1係に提出しました(このブログの2014年2月20日の「被告熊野市の「答弁書」弾劾」をみてください)。
 この抗議・批判・質問にたいして同日津地裁で午前11時から開かれた裁判(口頭弁論)で、被告はなにひとつ答えようとしませんでした。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、今月22日に開かれる裁判(口頭弁論)を前にして、2月20日の「原告準備書面(1)」につづいて「原告準備書面(2)」を裁判所に提出し、訴訟の根本問題に「答弁」しない被告を糾弾するとともに、裁判官にあらためて公正な裁判をおこなうことを要請し、事実を明らかにするための証人調べを再度もとめました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、昨年6月20日に、大韓民国慶尚北道議会議員の金昌淑さんと日本近現代史研究者の竹内康人さんを証人証人とすることを申し入れる「証拠申出書」を津地方裁判所にだし、ことし2月18日に、紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児李炳植さんと千炳台さんの遺児千鳳基さんを証人とすることを申し入れる「証拠申立書」を津地裁民事部にだしました(このブログの2013年6月20日の「きょう証人申請しました」およびことし2月18日の「紀州鉱山で亡くなった李白洛さんと千炳台さんの遺児を証人に」をみてください)。

 原告準備書面(2)の本文(全文)を、きょうから7回に分けて連載します。
 その構成は、つぎのとおりです。
   (一)「蒸し返し」という空言
   (二)「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」にかかわる非科学的虚言      
   (三)「以上に反する原告らの主張に対しては争う」について
   (四)「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」について
   (五)「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」について
   (六)「熊野市紀和鉱山資料館」問題・「英国人墓地」問題
   (七)「「親書」を手渡したことは認め、その余は知らない」と主張する無恥
   (八)租税法律主義・租税公平主義について
   (九)歴史・社会・法


■原告準備書面(2)
                    記

 被告熊野市が訴訟代理人倉田厳圓弁護士と5人の被告指定代理人の名で、2013年6月3日付けで、津地方裁判所民事部合議1係に提出した「答弁書」にたいし、原告は、2014年2月20日付で準備書面(1)を提出した。
 準備書面(1)において原告は、被告の「答弁書」が本訴訟の根本問題になんら「答弁」していないことを簡潔に明示し、被告に誠意をもって答弁することを求めた。
 しかし、2014年2月20日に開かれた「2012年度固定資産税賦課処分及び減免不承認処分取消請求事件」の口頭弁論において、被告熊野市の訴訟代理人倉田厳圓弁護人は「回答しない」と述べた。
 このような被告訴訟代理人倉田厳圓弁護人の姿勢は、「当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない」という民事訴訟法第2条に反するものであり、社会的歴史的に重大な意味をもつ本訴訟の意味を理解しておらず、真摯に理解しようとしていないことを示すものである。これは、このような弁護人を被告訴訟代理人としている熊野市の本訴訟にたいする信義が問われる問題である。熊野市は、本質的に当事者主義を侵犯している。
 原告は、簡潔な批判では被告熊野市が問題の本質を理解できないことを勘案しつつ、以下で、被告が2013年6月3日付けで提出した「答弁書」にたいし、詳細に、委細を尽くして、全面的に反論・批判をおこなう。
 被告が、すみやかに誠実に回答することを求める。

(一)「蒸し返し」という空言
 「答弁書」の「第1 本案前の答弁」末部に、被告熊野市は、
    「本訴は、実質的には、前訴と同一訴訟の「蒸し返し」にすぎないものであって、信義則に反するものとして許
    されないものである」
と書いている。
 被告熊野市は「「蒸し返し」にすぎないもの」と言って、本訴に争点効があると暗に主張しようとしつつ、「信義則に反するものとして許されないものである」と述べているようであるが、それこそが、信義則に反する空言である。
 本訴において争点効がないことは、以下の4点の理由により明らかである。
   1、前訴において、基本的な最重要争点が審理されなかったこと。
   2、前訴において、裁判官が、基本的な最重要争点について、原告に主張・立証させなかったこと。
   3、前訴において、基本的な最重要争点について被告が陳述しなかったこと。
   4、前訴において、裁判所が、基本的な最重要争点についてまったく実質的な判断を示さなかったこと。
 詳述するなら、前訴の訴訟指揮をした津地裁の戸田彰子裁判長は、以下の基本的な最重要争点を実質審理せず、「固定資産税の課税算定額」に論点をすりかえ、真実を追究しようとせず、原告らの公正な裁判を受ける権利を侵害した。
   1、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働には日本政府、石原産業、三重県ととも
    に熊野市に歴史的・社会的責任がある。
   2、「特別の事情がある者」である原告にたいし、熊野市長は固定資産税を免除しなければならない。
   3、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場(土地)には公共性・公益性がある。
   4、朝鮮人を追悼する碑の敷地への課税は、社会正義に反し、憲法に違反している。
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安重根义士纪念馆

2014年05月04日 | 個人史・地域史・世界史
 4月20日、宿所から小雨のなかを歩いて龙江省博物馆に行きましたが、歴史コーナーは、改装中でした。自然科学コーナーを見たあと、そこから15分ほど歩いて安重根义士纪念馆に行きました。
 ことし1月19日に開館された安重根义士纪念馆は、哈尔滨駅舎の中央部にあり、入口の上部の時計が、安重根義士が1909年10月26日に哈尔滨駅で伊藤博文を射殺した9時30分を示していました。
 纪念馆の奥から1909年10月26日の現場が見えるように設計されていました。
 わたしたちの宿所の近くに哈尔滨市立花園小学校(現住所 南岗区奋斗路27号)がありました。そこは、かつて在哈尔滨日本総領事館の建物があったところで、日本の官憲はその地下室に安重根義士を拘禁し取り調べたといいます。1936年に日本総領事館は移転し、この建物は、日本軍第731部队の隊員の独身宿舍(“白樺寮”)となり、その地下室に抗日志士が拘禁され、731部队が“特殊移送者”を平房などの「実験場」に送り込む基地としても使われたといいます。
 1909年11月1日に、安重根義士、禹淳さん、曹道先さん、刘东夏さんら9人は、哈尔滨駅から火車にのせられ、11月3日に旅顺監獄に入れられました。
 1910年3月26日午前10时に、安重根義士は旅顺監獄で絞首されました。
 幸徳秋水さん、森近運平さん、宮下太吉さん、新村忠雄さん、古河力作さん、奥宮健之さん、大石誠之助さん、成石平四郎さん、松尾卯一太さん、新美卯一郎さん、内山愚童さんが東京刑務所(市ヶ谷監獄)で絞首されたのは1911年1月24日、管野スガさんが絞首されたのは1月25日でした。

                                                     佐藤正人
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侵华日军七三一部队罪证陈列馆

2014年05月03日 | 個人史・地域史・世界史
 4月19日に、山邉悠喜子さん、ABC企画委員会事務局長の和田千代子さん、金靜美さんら4人と、黒龍江省人民対外友好協会の敬剣さんと6人で、哈尔滨市南部の平房区にある侵华日军七三一部队罪证陈列馆を訪ねました。
 731部隊にいた日本兵の証言の録画があり個別にみることができるように設置してありました。録画は400時間以上あるそうです。
 731部隊で働かされていた労働者などの録画は公開されていませんでしたが、手書きのものが多数パネル展示されていました。
 午後2時過ぎから、侵华日军七三一部队罪证陈列馆の単長清前書記、呉曉東新書記、宋吉慶遺保項目部主任、劉春生さんらとの意見交換会がもたれました。
                       
                                          佐藤正人
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