■原告準備書面(2)
(四)「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」について
「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①のには、「「2 石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」と書かれているだけである。
熊野市は、「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」と公言することがいかに無恥な行為であるかを理解できないのだろうか。
被告熊野市は「「石原産業はなにをしたのか(強制連行、強制労働)」は知らない」として、紀州鉱山における朝鮮人の強制労働の実態を知ろうとしない。しかし、紀州鉱山の朝鮮人がどのようにして日本に連れて来られたのか、紀州鉱山でどのように働かされ死んでいったのかの実態を究明することなしに、本訴訟の実質審理は進められない。
日本の植民地支配下にあった朝鮮からどのようにして朝鮮人が紀州鉱山に連行され、労働を強いられたかという、被告が「知らない」と強弁しているこの重大問題は、原告らの聞き取り活動などによってかなりの程度究明されている。
被告が原告の主張に反論するのであれば、紀州鉱山の朝鮮人がどのような経緯で紀州鉱山に来たのか、どのように働かされていたのか、その実態をみずから調査しなければならない。しかし被告はその作業を実行しようとすることなく、「知らない」と述べている。このような被告熊野市の態度は、本質的に訴訟そのものを拒否する態度であり、裁判制度を愚弄するものである。
原告らが調査した、以下に述べる紀州鉱山における朝鮮人労働者の強制連行と強制労働の実態を見るだけでも、被告の主張があやまりであり、むしろ強制連行、強制労働の実態を隠蔽するものだということがわかる。
原告らは、紀州鉱山に連れてこられた朝鮮人から、韓国で1996年10月から直接に聞き取りをおこない、紀州鉱山における連行と労働の強制性を確認してきた。
原告らは、1997年5月に韓国の江原道麟蹄郡で、金興龍さん、丁榮さん、孫玉鉉さん、金石煥さんから、1997年8月に江原道平昌郡で、尹東顕さん、崔東圭さん、金烔儀さん、金烔燮さんから、忠清北道堤川市で秋教華さんから、1998年8月に慶尚北道軍威郡で、南正埰さん、張大烈さん、張斗龍さん、朴貴連さんから、慶尚北道安東市で、林聖熙さんから、紀州鉱山に強制連行された当時の話を聞かせていただいた。
金興龍さん(1914年生)はつぎのように証言した。
「鉱山に行くとは知らないでつれていかれた。
徴用の年齢がすぎていたので、行かなくてもよかったのに、里長がむりに行かせた。
春川をとおってソウルにいき、そこで神社遥拝させられた」。
金石煥さん(1923年生)はつぎのように証言した。
「100人行くことになっていたが、2人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連
絡だけしてきた。
紀州鉱山にいっしょに行った人のなかに、結婚して3日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そ
のとき、21歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ」。
林聖熙さん(1922年生)は、つぎのように証言した。
「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人がつかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜に来るんだ。以
前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。
面庁でひと晩寝て、出発した。日本人が面庁に来て見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。
紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかっ
た人も殴られた。
解放になって、帰ってこられただけでありがたかった」。
原告らは、1996年11月および1997年5月に、名古屋で許圭さん(1915年生)から話を聞かせていただいた。許圭さんは、1940年秋から1946年春まで紀州鉱山で朝鮮人労働者の「監督」をしていた。当時の名は「中山圭」であった。
許圭さんはつぎのように証言した。
「紀州鉱山で働いていた朝鮮人が逃げて、熊野川で流されて死んだことがあった。矯風会と警察から、
いって調査してこいといわれて、いってきて、報告書をだした。
その後、会社から、朝鮮人のことを、責任もってやってくれといわれて、朝鮮人を徴用、管理する
ために、労務担当社員として入社した。日本人は、応召で労働者はすくないので、労働者を朝鮮から
つのろうということだった。
労働者を徴用するため、江華島、三陟、陽平、永川などに行った。連れてくる労働者の人数をきめ
るのは会社。
今回は100人、とすると、大阪の鉱山局に申請する。どこそこの道、どこそこの郡から、何人、という
許可証をもらって、それをもって、朝鮮に行く。朝鮮では、朝鮮総督府、道庁、警察などにあいさつに
いって、金をわたした。
釜山水上警察には、石原から100円、三井、三菱などからは300円がわたされていた。鐘路警察署長だけ
朝鮮人だったが、あとはみな日本人だった。
一人で朝鮮にいったのではない。助手として、日本人の労務課員と朝鮮人を連れていった。その朝鮮人は、
前に連れてきた人だった。医者も連れていった。
郡警察で、石原産業への徴用者をひきわたされた。郡から、指定列車で釜山へ行き、釜山で船にのり下関
へ。下関から列車にのり、大阪を経由して阿田和まで行き、そこからトラックで紀州鉱山へつれてきた。わた
しは引率の責任者だった。郡の警察から、朝鮮人の名前、住所、年齢の書かれた名簿をもらった。
シンガポールにいた支店長大藪は、紀州鉱山に捕虜を連れてくる計画をもって、捕虜の管理責任者、労務
課長として転勤してきた。会社から、朝鮮同胞は許さんに権限をあたえる、といわれた。
わたしのしごとは、徴用朝鮮人の監督だった。鉱山の労務係は15、6人いたが、そのうち、朝鮮人はわたし
たち兄弟2人だけだった。
朝鮮人を収容するための八紘寮が完成したのは、わたしが徴用に出かけているときだった。寮長に大阪本社
の警備隊長がなった。かれは反感をもたれて殴られけんかになった。殴った朝鮮人が警察に引っ張られる事件
になった。
わたしは朝鮮から帰ると、この寮長をやめさせた。
戦争がおわるすこしまえのことだと思うが、
「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」
と坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。
この落書きが問題になり、憲兵がきてしごとが中止になった。朝鮮人を並べて、「だれが書いたのか」と
調べた。
落書きをみて、「ようやった」、「まったく、そのとおりだ」と思った。1、2日で、この落書きは
消された」。
註 以上の金興龍さん、金石煥さん、許圭さんの証言は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、
在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』第27号(アジア問題研究所発行、1997年9月)
に発表した「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうす
るのか――」からの抜粋であり、林聖熙さんの証言は、『パトローネ』35号(写真の会パトロ
ーネ発行、1998年10月)に発表した「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安
東・軍威と紀和町で」からの抜粋である。
以上の証言から、紀州鉱山への朝鮮人の連行の強制性、および鉱山労働の強制性は、疑う余地のないものである。
被告熊野市は「知らない」と強弁し、事実をみずから調査するという義務を放棄し、「強制連行はなかった」とする政治家の発言や新聞記事などをもちだして空疎な反論をしている。そのような反論は強制連行の実態を隠蔽し、その責任を回避することにほかならない。