三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会の5年間 7

2012年08月04日 | 海南島近現代史研究会

 ■5年間の日誌 4
2010年2月14日  海南島近現代史研究会第5回定例研究会。
     報告Ⅰ 三竈島から海南島へ――もう一つの南進政策   蒲豊彦
     報告Ⅱ 海南島での同仁会(研究ノート)  キム チョンミ
     報告Ⅲ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3   竹本昇
     報告Ⅳ 曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』を読んで   鐘翠雅
     報告Ⅴ 「Y作戦」と住民虐殺   斉藤日出治
     報告Ⅵアジア太平洋戦争開始前後の海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」   佐藤正人
     海南島三亜郊外の「朝鮮村」の現状と「朝鮮村虐殺」の真相究明について
2010年3月2日 「海南島戦時性暴力被害訴訟」、最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)、
    上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島戦時性暴力被害賠償請求事
    件弁護団と中国戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声明。
2010年4月 1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され1944年2月17日に
    陵水で死亡した韓錫さんの妻の李康姫さんと息子の韓光洙さんに、ソウルで話しを
    聞かせてもらう。
     日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられていた鍾明出さんに、慶州
    市内南面の自宅で話しを聞かせてもらう(6月に再訪)。
2010年5月 第5回海南島「現地調査」。
    5月23日 符如来さん(許如梅さんの娘さん)と定安県雷鳴鎮梅種村を訪問。村の入り
   口に許如梅さん(1918年生。1943年に日本兵に殺害された)の墓。
    5月24日 『国際旅游島商報』に、「12年間18次来瓊取証日本学者調査日軍暴行」
   (王巍記者)掲載。 http://www.sobao.cc/Sub.aspx?id=4229
   5月25日 澄邁県大豊鎮美桃村訪問。
   5月27日 昌江黎族自治県海尾村、十月田鎮保平村訪問。保平村は、石碌鉱山と日本
        海軍横須賀鎮守府第4陸戦隊司令本部のある北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道
        路の中間に位置。
    5月29日 海口市雲龍鎮玉仙村など訪問。
    5月30日~31日 広東省三灶島(三竈島)に行く。「三灶島三・一三死難同胞紀念碑」
   の碑文に、日本軍は占領期に「同胞二千八百九十一人」を殺害したと刻まれていた。
2010年5月31日 『国際旅游島商報』に「日本厚生公司曾在海南強迫村民种鸦片敛财」
   (王巍記者)掲載。
2010年7年12日 『경향신문』(『京郷新聞))に、사토 쇼진「형무소서 끌려가 노예처럼
    일하다 학살 ‘한 맺힌 유골들’  중국 해남도 ‘조선촌’이 증언하는 일제의 만행」
    掲載。http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?artid=201007111734425&code=210000&s_code=af092
2010年7月30日~8月1日 大阪人権博物館でドキュメンタリー『日本が占領した海南島で
     60年まえは昨日のこと』、『「朝鮮報国隊」』、『海南島月塘村虐殺』上映会。
2010年8月21日 海南島近現代史研究会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、太平洋戦争
     被害者補償推進協議会が「“韓国併合”から100年 遺族の証言を聞く集い」を共催。

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海南島文昌市翁田鎮深嶋村で 3

2012年08月03日 | 海南島史研究

 午後5時すぎに、張学龍さん、張学川さんらに案内されて、深嶋村の中心から150メートルほど離れた旧日本軍の軍営と望楼があった場所に行きました。
 そこは、潅木が茂っている平地で、倒れた棕櫚の樹がところどころに積み上げられていました。すこし盛り上がっている中央部に望楼があったそうです。その地点を指し示して、張学龍さんは、つぎのように話しました。
    「軍営の真ん中に望楼があった。
    軍営全体の周りに壕が掘られていて、その外側に鉄条網がはられていた。
    壕の東と西と南に、板の橋がかけられていた。中には監獄もあった。
    日本軍がきて軍営を作る前は、ここには木が茂っていた。
    日本軍は、大きな木だけ残して、小さな木、中くらいのはみんな切り倒してしまった。
    村の家36軒、いや45軒だ、を壊して、その材料を使って軍営の建物を作った。
    45軒の家の人は、住む家がなくなったので、タイや南洋へ移った。
    わたしたちを石碌に連れていったのは日本の軍人ではない。地元の治安維持会の人
   だった。わたしは、良民証は持っていた。
    日本軍がいなくなったあと、朝7時ころ、ヒエーヒエーという人の鳴き声のような声を聞い
   たことがあった。
     埋めたのが浅かったのか、犬が掘りだして頭の骨が出てきていた。
     骨はいまもそのままあると思う。2、3人の骨だけ、家族が掘りだした。
     いまは道があるが、みんなこの道を通るのを嫌がる。
     近くの水吼山にも日本軍の小さい望楼があった。いまはそこにはなにもない。水吼山
   は龍馬から近い。ここの望楼は大きかった」。
 張学川さんは、「軍営の壕の外側、南西のあたりに殺された人が72人埋められた、と父から聞いたことがある。夕方になると、みんなそのあたりに行くのをいやがる」と話しました。

 翁田鎮深嶋村(旧、金榜村)の旧日本軍の軍営と望楼があった場所は、日本海軍海南警備府第15警備隊翁田守備隊の本部の場所だったと思われます。いまも、壕の跡が残っていました。正門は真北向きで広い道路に面していたといいます。道路は、東は龍馬方面、西は、海口・文昌方面で、正門の東側に井戸があったがいまは埋められているそうです。
 防衛研究所戦史研究センター史料室(前防衛研究所図書館)で公開されている『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1942年10月1日現在)には、翁田守備隊の日本兵は43人、翁田守備隊近くの抱虎嶺守備隊の日本兵は7人と書かれており、「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、翁田守備隊の日本兵は33人、抱虎嶺守備隊の日本兵は4人と書かれています。
                                                  佐藤正人

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海南島文昌市翁田鎮深嶋村で 2

2012年08月02日 | 海南島史研究

  張学龍さんに話しを聞いているところに、村人が集まってきてくれました。その一人の張学朝さん(1932年生)は、つぎのように話しました。
   「日本軍が来たとき、家族全員で逃げた。
    犬が吠えたら逃げるという態勢をいつもとっていた。
    山に逃げた。2、3日隠れていて食べ物がないので、近くの村におりてコメなど食べ物を
   分けてもらった。1か月くらい過ぎて村に戻ると、家も壊され、なにもなくなっていた。日本
   軍は、家を壊して、望楼や軍営の建築に使ったのだ。残していったブタ、ニワトリもぜんぶ
   日本軍に盗られていた。
    村の中で部屋を借りて住んだ。このあたりは金持ちの通りで、ほとんど逃げた。
    (山から下りてきたあと)兄嫁が日本軍に連れていかれた。日本軍が誰かに連れに来さ
   せた。兄はタイに行っていて、兄嫁は家に残っていた。日本軍が降伏したあと、兄とわかれ
   て別の人といっしょになって、子どもも生まれた。
     わたしは、望楼の近くにあった学校で、日本語を勉強した。
     “ニワトリ”、“ブタ”。 学校で習った。先生は台湾人だった。
    子どもだから日本軍のためにしごとをしたことはなかった」。

 符文娟さん(82歳)はつぎのように話しました。
    「わたしの義理の叔父張学保は、日本語を知っていたので、日本軍と行き来をしていた。
     張学保は、わたしの夫(張業昌)の父(張学能)の弟だ。
     張学保は、銃、機関銃、弾を盗んで、わたしの家に運んできた。家には地下洞を作って
   いて、そこに隠した。夫の母(黄金花)に、共産党に取りに来るように伝えてくれと言って戻
   っていった。共産党が取りに来て渡した。夫の母が、日本軍が襲ってきたときのために家
   に地下壕を作っていた」。

 張学川さん(1936年生)は、「母から聞いた話だが、日本兵が子ブタ20匹を剣で切り殺して望楼に持っていったことがあったという。(そのほかに日本軍のことは)あまり知らない」と話しました。
 集まってきてくれた村人のみなさんから聞きたいことが多かったのですが、5時近くになったので、明るいうちに旧日本軍の軍営と望楼跡に案内してもらうことにしました。
                                                    佐藤正人

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海南島文昌市翁田鎮深嶋村で 1

2012年08月01日 | 海南島史研究

 2011年10月29日朝から11月10日夕刻まで13日間、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては20回目、海南島近現代史研究会としては7回目の海南島「現地調査」をおこないました。このブログの2011年10月29日~11月10日の「2011年秋 海南島で」1~13、11月14日の「2011年秋の海南島「現地調査」に参加して」、11月17日の「海南島文昌市錦山鎮で」、11月18日の「文昌市錦山鎮排坑村で」、11月19日~20日の「文昌市東閣鎮金牛流坑村で」1~2、11月21日の「瓊海市長坡鎮楽古昌村で」、11月22日の「瓊海市長坡鎮南宝村で」、12月18~19日の「保亭黎族苗族自治県の保亭と加茂で」1~2、12月20日~22日の「海南島瓊海市中原鎮で」1~3、12月24日~27日の「感城鎮感城村麦家祠惨案」1~3、12月31日の「感城鎮宝上村で」をみてください。
                                                    佐藤正人

 2011年11月6日午後3時に、わたしちは、文昌市翁田鎮深嶋村(旧、金榜村)を訪ねました。 村に着くと、すぐに、金榜村では最高齢だという張学龍さん(1930年生)に出会い、村の中心の大きな樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
 張学龍さんは、つぎのように話しました。

     「小さいころ両親が亡くなり、生活がたいへんだった。(亡くなったのは)日本軍が来る前
   のこと。小学校3年までしか行けなかったが、独学で勉強して、学校の先生になった。
     (小学校に通っているときは)午前中は農業をして、午後に学校に行った。 大きな樹の
   下で勉強をした。午後も農業をしなければいけないときは学校に行けなかった。
      "アイウエオ カキクケコ”。 日本語の勉強は日本軍が来てからだ。  
     日本軍が、日本語を勉強せよといって、各村をまわった。2キロ離れた村からも通って
   きた子どももいた。班に分かれて勉強した。1班は、20人~30人。 日本軍の通訳をしてい
   た台湾人が日本語を教えた。あとで、台湾人の教師が来た。その先生は日本語と海南語
   を教えた。
    日本軍は、この村の近くに軍営をつくり、望楼もつくった。いまは、そこは空き地になって
   いる。 望楼の周りに日本軍は壕を掘った。その豪の跡は、いまも残っている。
     この村は、むかしは大きな村だった。家が100軒くらいあった。
     日本軍は来たばかりのころ、この村の中に住んだ。村には、 りっぱな家、金持ちの家が
   多かった。
    日本軍が来たとわかってみんな逃げて、家は空いていた。タイに働きに行っていた人の
   家、宦官の家もあった。 日本軍は、そのあと、軍営を作って移った。日本兵は30人~40
   人くらいいた。 この村や近くの村の家をトラックをぶっつけて壊して、レンガや木材をとり
   だし、それを運んで、望楼や軍営の建築材にした。 建てるのは、交代で村の人にさせた。
    36軒の家が壊された。日本軍と戦って殺された人が何人もいる。いとこの兄さんが、共
   産党だといって、うしろ手に縛られて木に吊り上げられた。そのあと銃殺された。村からち
   ょっと離れたところで。名前は、張学佑。年は20歳~30歳。
     張業金は家にいて、その場で殺された。年は20歳~30歳。学佑は家にいなくて、後か
   らつかまった。張学佑の父が、ふたりを日本軍にわたしたのだ。そうしなければ、5家族
   全部を殺すといわれて。
    1保は5家族で、じぶんも同じ保だった。その1保の5家族全員を殺すといわれた。業金も
   学佑も一人息子だったので、この家は後継ぎがいなくなった。何年のことだったかは、はっ
   きり覚えていない。日本軍が来て2~3年たったころか。 その時自分も家にいたので、業金
   が殺されるのを見た。
    学佑は木に吊り下げられたところは見たが、銃殺されたのは見ていない。ひとりでも共産
   党がいると、村が包囲された。
    わたしは石碌に行った。強制だった。日本軍に甲長が何人を行かせよと命令した。
    水が悪いのか、石碌では、マラリアや下痢で、おおぜいが死んでいった。わたしといっ
   しょに行ったひとりも、石碌で死んだ。名前は、張学仕。わたしより少し年上だった。
    石碌では、道路工事をした。鉄の鉱石も掘った。2か月か3か月間だった。
    石碌には船で行った。夜、連行されて、トラックに乗せられて、港まで行った。わたしの地
   域だけで数十名。 船に乗せられ港に着いて、夜、石碌まで歩かされた。 16歳くらいのとき
   だった。行くときに石碌と聞いていたが、どんなしごとをさせっれるのかは知らなかった。
    石碌では、食べることはできたが、給料はもらわなかった。
     帰りは、道路工事の場所から港まで歩いて乗船した。秀英に着いて、船から海に下りて
   歩いて上陸した。水の深さは腰くらい。冬だったので寒かった。秀英からは歩いて村に戻っ
   た。船から海に下りて、冬だったから、みんな病気にかかったり飢えていて、上陸できない
   で海中で死んだ人もかなりいた。
    石碌からもどって、牛飼いのしごとをした。 この村から、飛行場工事におおぜい連行され
   た。死んだ人もいる。潭牛や文昌の飛行場の工事だ。
    行かないということはできない。殺される。1保から何人、と出さなければならない。金持
   ちの中には金を出して、ほかの人を代わりに行かせた人もいた。
    共産党と日本軍がこの村で戦った。昔は、弾痕がある家もあった。(戦いのとき)音が聞
   こえてきて、寝台の下に隠れた。日本軍がまだ村に住んでいるときで、共産党が日本軍を
   襲撃した。その日、雨が降っていて、雨に濡れないように草で体を覆って隠れていたので、
   共産党だとわかった。逃げたとき、草で作ったカッパを村に落として行った。 共産党で、ひ
   とり犠犠者が出た。日本軍と戦ってけがをして、水を飲みたかったのか、水辺で死んでいる
   のが臭いで見つかった。何日かたっていた。草が茂っていて、すぐにはわからなかった。村
   の人が畑にいく途中、通りかかって見つけた。死んだ人はこの村の人ではなかった。名前
   は知らない。かんたんに水辺に埋めた。臭くて、抱えることができず、ひもで縛って穴まで
   引っ張った。
    共産党は、村を、白色村と赤色村とにわけた。金榜村は日本軍が住んでいたので、白色
   村といわれていた。
    日本軍は、村から出ていったあとも、村にしょっちゅう来た。来ると、ブタ、ニワトリ、牛とな
   どを見つけて盗っていった。 わたしは首に銃剣を突き付けられたことがある、“牛はどこに
   あるか?”。 恐くて、方向だけ指さした。日本軍はそのままそっちの方に行ったので、わた
   しは逃げた。
    日本軍が降伏したとき、トラックで列を作って出ていった。木に隠れて、遠くから見てい
   た。
    日本軍はおそろしい」。 

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