三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島文昌市文教鎭と龍楼鎮で 1

2012年08月27日 | 海南島史研究

 文昌市翁田鎮深嶋村を訪ねた日(2011年11月6日)の午前中に、わたしたちは、文昌市文教鎭を訪ねていました(このブログの8月1日~3日の「海南島文昌市翁田鎮深嶋村」1~3をみてください)。『海南警備府戦時日誌』の「陸上部隊兵力配備要図」(1942年10月1日現在)には、文教守備隊の日本兵は41人、龍楼守備隊の日本兵は20人と書かれています。
 文教鎮では、中心部の文東路に住む林鴻球さん(1927年生)に、朝8時半から、自宅で話を聞かせてもらうことができました。海南語での話を聞いているところに来た孫娘の林菁苗さん(9歳)が、ノートに証言を「普通語」で書きとってくれました。
林鴻球さんは、つぎのように話しました。

 「当時、住んでいた村は、渓西村。渓西村では、共産党が活動していた。ここから8キロ離れている。
  渓西村で、15人が日本兵に殺された。そのうち、3人は村で銃殺され、6人がここ(文教鎭)に連れてこられて殺された。臨月まぢかの女性も殺された。夫が共産党員だった。(村で殺された)3人のひとりは、縛られて棒で殴られ最後に銃で撃たれた。40歳くらいだった。遺体は家族が連れていった。墓もある。子どもがいた。名前は、林鴻会。日本軍にさせられていたしごとが終わって家に帰る途中で見た。恐いのでみんな逃げたが、わたしは、帰る途中、道端で見ていた。この人は共産党に協力していたが、党員かどうかわからない。
  林鴻為という人がいた。40歳くらい。共産党の活動をしていたが、太っていて歩くのが遅く、銃で撃たれて死んだ。子どもはいなかった。
  “老坑小”と呼ばれていた女の人がいた。老坑村から渓西村に嫁いできた人だった。農民だったが、共産党に協力していた。漢奸の案内で日本軍が村に来たとき、逃げたが捕まって銃殺された。
  ほかに、殺された人は、林鴻新、符堆(?)炳、林龍覚、林龍梓、林龍吉、下田三(女性)……。
 わたしは児童団に入っていた。入ったのは12歳のときだった。この年ごろの子どもはみんな入った。村では10人くらい入っていたと思う。しごとは、見張りなど。村で木に登って、情報を伝えたりなどした。
 共産党が村に来て、日本軍と戦うために入れと、宣伝した。それで入った。児童団に入るのは秘密。入ったことは、周りの人は知らない。父も母も知らない。
 共産党の宣伝は、おもしろそう、楽しそうだった。日本軍と戦うという気持ちはなかったと思う。子どもだったから。
 13歳のとき、茶碗と箸を持っていけば独立大隊という共産党の組織に入れると同じ村の友だちに誘われて、二人でいっしょに入ろうと準備をしていたが、母が察したみたいで、母に止められて入れなかった。この友だちは入った。独立大隊に入ったばかりのころ、道路を渡ろうとしたとき、日本軍に待ち伏せされて、銃で撃たれて殺された。近所の子。同じ年ころだった。名前は、頼○石。近所の人は、“モチオ”と呼んでいた。“モ”は、呼ぶときに名前のあたまに付けることばだ。“チオ”は“石”という意味。
 2回、共産党と日本軍が戦うのを見た。遠くから発砲しあったので死者は出なかった。共産党が山から下りてくるのを日本軍が待ち構えていて、発砲しあったのだ。
 台湾人で、日本の軍人で通什にいたが、共産党に入って、解放後文昌県の武装部に入った人がいる。広州に引っ越した。名前は、羅金勇。妻は文昌の人。わたしも解放後文昌の武装部にいたので、そのときに聞いた。
 1年間学校に行った。日本軍が来て学校に行けなくなった。
 日本の投降後、国民党と戦った。

 文教鎮に日本軍は守備隊の軍営をおいていた。場所はこの家の近くだ。民家を壊してレンガや材木を持っていって兵舎を作った。
 わたしは、レンガについているセメントなどを剥がすしごとをさせられた。日本軍は、各村の甲長に、しごとに出る人をださせた。人数も何人と決められていた。
 共産党の組織にいた人が、若者が日本軍のしごとに行くと危ないというので、わたしのような子どもが行った。各村の子どもが交代で行った。午前中はこの村、午後はこの村、というように。食事は自分で用意して持っていった。賃金はもらわなかった。塩をもらったところもあるようだが、わたしたちは何ももらわなかった。
 日本兵がいる場所としごとをする場所は違った。しごとをしにいったのは、コメを集める場所。軍営には勝手に入ることはできない。
 日本人と会うと、“シンシャントウリ”と言わなければいけなかった。
 軍営には通訳する人がいた。通訳はこの辺に長くいた。恐い人だった。李という姓で、“ラオリ(老李)”と呼んでいた。
 軍営には、望楼はなかった。道路をはさんで、少し高い木の見張り台があった。
 軍営の横に、「慰安所」があった。日本兵は、「討伐」に行って、列をつくって戻ってきたら、銃などを下したあと、「慰安所」に行く感じだった。何回も行く人もいるし、あまり行かない人もいるようだった。「慰安所」の女性を遠くから見たことがある。子どもだからよくわからなかったが、大人は、臨高の女性が多いと言っていた」。
                                                      佐藤正人

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