1941年2月~3月 日本海軍、海南島で「Y三作戦」
1941年4月1日 海南島根拠地隊、海南警備府に「昇格」。海南警備府司令部、三亜に
1941年4月~10月 日本軍南機関、アウンサンらを、海南島で軍事訓練(1941年12月、ア
ウンサンら、バンコクでビルマ独立義勇軍結成)
1941年4月 日本海軍、海南島文昌重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村・賜第村で住民虐殺
1941年4月 日本窒素肥料株式会社「石碌鉄山調査報告」
1941年5月 日本海軍、海南島楽会県波鰲村・上嶺園村・上辺嶺村で住民虐殺
1941年5月 海南島海軍特務部、海南海軍特務部と改称(海南島軍政機関の形態整備)
1941年6月6日 大本営陸海軍部、「対南方施策要綱」決定
1941年6月24日 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺
1941年7月2日 ヒロヒトら「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」決定(「帝国は……大東亜共
栄圏を建設……」、「帝国は……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進
め又情勢に対し北方問題を解決す」)
1941年7月 海南島警備府司令部『海南島敵匪情况』(機密海南部隊命令第七号別冊)
1941年7月28日 日本陸軍第25軍約4万人、海南島楡林港から「仏領印度」南部(ベトナム
南部・カンボジア)に侵入
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)
1941年8月4日 日本海軍、海南島澄邁県沙土で住民虐殺
1941年8月 日本海軍、海南島定安県黄竹鎮で住民虐殺
1941年9月6日 ヒロヒトら「帝国国策遂行要領」決定(「帝国は自存自衛を全うする為対米
(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」)
1941年11月5日 ヒロヒトら、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定(開戦時を12月上旬に設
定。これは、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた)
1941年11月6日 大本営陸軍部・大本営海軍部、グアム島、ビスマルク諸島占領を決定
1941年11月 大本営、海南島三亜港周辺に機雷敷設指示
1941年11月15日 海南警備府司令長官「現状申告書」
1941年11月20日 大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」決定
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」(「南方」侵略の基地海南島の「治安」
確保のため)
1941年11月15日 第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発
1941年11月26日 「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾出発
1941年12月1日 ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行
要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終
決定
1941年12月2日 大本営、「ニイタカヤマノボレ」(パールハーバー奇襲攻撃命令)発信
1941年12月4日 日本陸軍第5師団・第18師団、海南島楡林港から出港
1941年12月8日 午前1時半、日本軍コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。午前3時パール
ハーバー奇襲。午前9時半、ルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営奇襲爆撃
1941年12月10日 日本軍、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領開始
1941年12月18日 日本軍、ホンコン占領
1942年1月18日 日本・ドイツ・イタリアの軍統帥部が、東経70度線を日本とドイツ・イタリアの
作戦地域を分ける線とする協定を締結。このとき日本軍部は、インド西部から
ウラル山脈にいたる地域から、南北アメリカ大陸西海岸にいたるまでの地域を
「作戦地域」とすると想定
1942年2月28日 大本営政府連絡会議、「大東亜戦争現情勢下に於て帝国領導下に新秩序
を建設すべき大東亜の地域」を、「日満支及東経九十度より東経百八十度迄の
間に於ける南緯十度以北の南方諸地域」とした
佐藤正人