三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会第6回総会・第10回定例学習会 1

2012年08月19日 | 海南島近現代史研究会

 2007年8月の海南島近現代史研究会の設立に先立つほぼ10年に及ぶ紀州鉱山の真実を明らかにする会の海南島の「現地調査」活動、そして研究会設立後5年間の活動を踏まえて、わたしたちは8月18日に第6回総会と第10回定例研究会を、「日本はなぜ海南島を侵略したか」を主題として開きました。
 はじめに、キムチョンミさんが研究会の創立後5年にわたる活動を総括的に報告しました。
キムさんは、1998年から2007年まで紀州鉱山の真実を明らかにする会が行った海南島での13回に及ぶ「現地調査」、冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』、ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』の制作などの活動をふりかえり、これらの活動を踏まえ、2007年8月に海南島近現代史研究会を創立したこと、その後今年の3月まで8回の「現地調査」活動(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては21回)をおこない、月塘村の追悼碑の建立への協力、「朝鮮報国隊」の遺族との出会い、海南島の戦時性暴力被害者訴訟の支援、海南島で日本語教師をしていた日本人などからの聞き取りなど、を行ってきたと報告しました。
 その報告のなかで、キムさんは、海南島で日本の侵略犯罪の犠牲者から話を聞かせてもらう自己のありかたについて語りました。
 続いて主題報告として、佐藤正人さんが「日本はいつ海南島侵略を開始したか」について報告しました。
 佐藤さんは日本が海南島を侵略するにいたった歴史的原因・状況を解明するための年表を提示し、1869年アイヌモシリを日本の領土にくみこんで「北海道」と命名して以降の日本国家のアジア侵略史の中で海南島侵略の歴史的諸事実を解明すべきこと、したがって1895年に台湾を日本領土にして、台湾の植民地統治の延長上に台湾総督府が海南島の「調査」を押し進め、そのような「調査」を背景に、中国大陸における日本の侵略戦争の過程で「成都事件」「北海事件」における日本人の殺害事件を契機にして、日本が海南島の占領を事実上進めていたこと、などを指摘しました。
 ついで2つ目の主題報告として、斉藤日出治が「「汎アジア主義」と「大東亜戦争」」と題して報告を行いました。日本は1930年代にアジアの植民地支配を拡大させ、それを基盤にして「汎アジア主義」の理念を「帝国日本」に浸透させ、1937年の中国の侵略戦争以降、この「汎アジア主義」を国策とした「大東亜戦争」を推進することによって、中国への侵略戦争を反英戦争へと転化し、アジアの南方へと戦線を拡大する、その重要な中継地点として海南島の侵略があった、という提起を行いました。
 続いて、関連報告として、蒲豊彦さんが「日中戦争の推移と三竈島・海南島」と題して、日中戦争の経過をたどり、日本軍が華北から華中、華南へと軍事戦略を展開する中で、1938年2月に三竈島を占領して、ここに航空基地を建設し、その翌年1939年2月に海南島を占領すると、海口に第七航空基地を建設して、中国本土、東南アジアへの空爆の根拠地とした。しかしアジア南方の空爆は距離が遠すぎて届かず、軍事的な意味が不明確であること、日本軍は日露戦争以来の短期決戦主義の戦略をそのまま続け、中国戦線で長期戦に迫られたにもかかわらず、長期的な見通しを立てずに、作戦を進めており、海南島の軍事占領についても、そのような長期的な見通しの欠落が感じられる、という報告を行いました。
                                                 斉藤日出治・竹本昇

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