三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島文昌市翁田鎮深嶋村で 1

2012年08月01日 | 海南島史研究

 2011年10月29日朝から11月10日夕刻まで13日間、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては20回目、海南島近現代史研究会としては7回目の海南島「現地調査」をおこないました。このブログの2011年10月29日~11月10日の「2011年秋 海南島で」1~13、11月14日の「2011年秋の海南島「現地調査」に参加して」、11月17日の「海南島文昌市錦山鎮で」、11月18日の「文昌市錦山鎮排坑村で」、11月19日~20日の「文昌市東閣鎮金牛流坑村で」1~2、11月21日の「瓊海市長坡鎮楽古昌村で」、11月22日の「瓊海市長坡鎮南宝村で」、12月18~19日の「保亭黎族苗族自治県の保亭と加茂で」1~2、12月20日~22日の「海南島瓊海市中原鎮で」1~3、12月24日~27日の「感城鎮感城村麦家祠惨案」1~3、12月31日の「感城鎮宝上村で」をみてください。
                                                    佐藤正人

 2011年11月6日午後3時に、わたしちは、文昌市翁田鎮深嶋村(旧、金榜村)を訪ねました。 村に着くと、すぐに、金榜村では最高齢だという張学龍さん(1930年生)に出会い、村の中心の大きな樹の下で、話を聞かせてもらうことができました。
 張学龍さんは、つぎのように話しました。

     「小さいころ両親が亡くなり、生活がたいへんだった。(亡くなったのは)日本軍が来る前
   のこと。小学校3年までしか行けなかったが、独学で勉強して、学校の先生になった。
     (小学校に通っているときは)午前中は農業をして、午後に学校に行った。 大きな樹の
   下で勉強をした。午後も農業をしなければいけないときは学校に行けなかった。
      "アイウエオ カキクケコ”。 日本語の勉強は日本軍が来てからだ。  
     日本軍が、日本語を勉強せよといって、各村をまわった。2キロ離れた村からも通って
   きた子どももいた。班に分かれて勉強した。1班は、20人~30人。 日本軍の通訳をしてい
   た台湾人が日本語を教えた。あとで、台湾人の教師が来た。その先生は日本語と海南語
   を教えた。
    日本軍は、この村の近くに軍営をつくり、望楼もつくった。いまは、そこは空き地になって
   いる。 望楼の周りに日本軍は壕を掘った。その豪の跡は、いまも残っている。
     この村は、むかしは大きな村だった。家が100軒くらいあった。
     日本軍は来たばかりのころ、この村の中に住んだ。村には、 りっぱな家、金持ちの家が
   多かった。
    日本軍が来たとわかってみんな逃げて、家は空いていた。タイに働きに行っていた人の
   家、宦官の家もあった。 日本軍は、そのあと、軍営を作って移った。日本兵は30人~40
   人くらいいた。 この村や近くの村の家をトラックをぶっつけて壊して、レンガや木材をとり
   だし、それを運んで、望楼や軍営の建築材にした。 建てるのは、交代で村の人にさせた。
    36軒の家が壊された。日本軍と戦って殺された人が何人もいる。いとこの兄さんが、共
   産党だといって、うしろ手に縛られて木に吊り上げられた。そのあと銃殺された。村からち
   ょっと離れたところで。名前は、張学佑。年は20歳~30歳。
     張業金は家にいて、その場で殺された。年は20歳~30歳。学佑は家にいなくて、後か
   らつかまった。張学佑の父が、ふたりを日本軍にわたしたのだ。そうしなければ、5家族
   全部を殺すといわれて。
    1保は5家族で、じぶんも同じ保だった。その1保の5家族全員を殺すといわれた。業金も
   学佑も一人息子だったので、この家は後継ぎがいなくなった。何年のことだったかは、はっ
   きり覚えていない。日本軍が来て2~3年たったころか。 その時自分も家にいたので、業金
   が殺されるのを見た。
    学佑は木に吊り下げられたところは見たが、銃殺されたのは見ていない。ひとりでも共産
   党がいると、村が包囲された。
    わたしは石碌に行った。強制だった。日本軍に甲長が何人を行かせよと命令した。
    水が悪いのか、石碌では、マラリアや下痢で、おおぜいが死んでいった。わたしといっ
   しょに行ったひとりも、石碌で死んだ。名前は、張学仕。わたしより少し年上だった。
    石碌では、道路工事をした。鉄の鉱石も掘った。2か月か3か月間だった。
    石碌には船で行った。夜、連行されて、トラックに乗せられて、港まで行った。わたしの地
   域だけで数十名。 船に乗せられ港に着いて、夜、石碌まで歩かされた。 16歳くらいのとき
   だった。行くときに石碌と聞いていたが、どんなしごとをさせっれるのかは知らなかった。
    石碌では、食べることはできたが、給料はもらわなかった。
     帰りは、道路工事の場所から港まで歩いて乗船した。秀英に着いて、船から海に下りて
   歩いて上陸した。水の深さは腰くらい。冬だったので寒かった。秀英からは歩いて村に戻っ
   た。船から海に下りて、冬だったから、みんな病気にかかったり飢えていて、上陸できない
   で海中で死んだ人もかなりいた。
    石碌からもどって、牛飼いのしごとをした。 この村から、飛行場工事におおぜい連行され
   た。死んだ人もいる。潭牛や文昌の飛行場の工事だ。
    行かないということはできない。殺される。1保から何人、と出さなければならない。金持
   ちの中には金を出して、ほかの人を代わりに行かせた人もいた。
    共産党と日本軍がこの村で戦った。昔は、弾痕がある家もあった。(戦いのとき)音が聞
   こえてきて、寝台の下に隠れた。日本軍がまだ村に住んでいるときで、共産党が日本軍を
   襲撃した。その日、雨が降っていて、雨に濡れないように草で体を覆って隠れていたので、
   共産党だとわかった。逃げたとき、草で作ったカッパを村に落として行った。 共産党で、ひ
   とり犠犠者が出た。日本軍と戦ってけがをして、水を飲みたかったのか、水辺で死んでいる
   のが臭いで見つかった。何日かたっていた。草が茂っていて、すぐにはわからなかった。村
   の人が畑にいく途中、通りかかって見つけた。死んだ人はこの村の人ではなかった。名前
   は知らない。かんたんに水辺に埋めた。臭くて、抱えることができず、ひもで縛って穴まで
   引っ張った。
    共産党は、村を、白色村と赤色村とにわけた。金榜村は日本軍が住んでいたので、白色
   村といわれていた。
    日本軍は、村から出ていったあとも、村にしょっちゅう来た。来ると、ブタ、ニワトリ、牛とな
   どを見つけて盗っていった。 わたしは首に銃剣を突き付けられたことがある、“牛はどこに
   あるか?”。 恐くて、方向だけ指さした。日本軍はそのままそっちの方に行ったので、わた
   しは逃げた。
    日本軍が降伏したとき、トラックで列を作って出ていった。木に隠れて、遠くから見てい
   た。
    日本軍はおそろしい」。 

コメント
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