三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島文昌市翁田鎮深嶋村で 2

2012年08月02日 | 海南島史研究

  張学龍さんに話しを聞いているところに、村人が集まってきてくれました。その一人の張学朝さん(1932年生)は、つぎのように話しました。
   「日本軍が来たとき、家族全員で逃げた。
    犬が吠えたら逃げるという態勢をいつもとっていた。
    山に逃げた。2、3日隠れていて食べ物がないので、近くの村におりてコメなど食べ物を
   分けてもらった。1か月くらい過ぎて村に戻ると、家も壊され、なにもなくなっていた。日本
   軍は、家を壊して、望楼や軍営の建築に使ったのだ。残していったブタ、ニワトリもぜんぶ
   日本軍に盗られていた。
    村の中で部屋を借りて住んだ。このあたりは金持ちの通りで、ほとんど逃げた。
    (山から下りてきたあと)兄嫁が日本軍に連れていかれた。日本軍が誰かに連れに来さ
   せた。兄はタイに行っていて、兄嫁は家に残っていた。日本軍が降伏したあと、兄とわかれ
   て別の人といっしょになって、子どもも生まれた。
     わたしは、望楼の近くにあった学校で、日本語を勉強した。
     “ニワトリ”、“ブタ”。 学校で習った。先生は台湾人だった。
    子どもだから日本軍のためにしごとをしたことはなかった」。

 符文娟さん(82歳)はつぎのように話しました。
    「わたしの義理の叔父張学保は、日本語を知っていたので、日本軍と行き来をしていた。
     張学保は、わたしの夫(張業昌)の父(張学能)の弟だ。
     張学保は、銃、機関銃、弾を盗んで、わたしの家に運んできた。家には地下洞を作って
   いて、そこに隠した。夫の母(黄金花)に、共産党に取りに来るように伝えてくれと言って戻
   っていった。共産党が取りに来て渡した。夫の母が、日本軍が襲ってきたときのために家
   に地下壕を作っていた」。

 張学川さん(1936年生)は、「母から聞いた話だが、日本兵が子ブタ20匹を剣で切り殺して望楼に持っていったことがあったという。(そのほかに日本軍のことは)あまり知らない」と話しました。
 集まってきてくれた村人のみなさんから聞きたいことが多かったのですが、5時近くになったので、明るいうちに旧日本軍の軍営と望楼跡に案内してもらうことにしました。
                                                    佐藤正人

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