三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山への朝鮮人強制連行 2

2011年09月21日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山への朝鮮人強制連行
 第2 乙第1号証の証拠能力

 被告熊野市は、1959年7月13日の『朝日新聞』東京版朝刊の記事に手書きで1947年(原文元号)7月13日書き込んだものを乙第1号証として「答弁書」に添付した。だが、この記事は1947年の『朝日新聞』のどこにも掲載されていない。
 それにもかかわらず、本年(2011年)8月4日の第1回口頭弁論の法廷で、被告熊野市の倉田嚴圓代理人弁護士が、原告 キム チョンミの「まちがいないか」という確認にたいして「まちがいない。自分がこれを見た資料では、こうなっていた」と答えていたことは、「準備書面2」でも原告が指摘しているとおりである。
 問題は、被告熊野市の倉田嚴圓代理人弁護士が法廷で「まちがいない」と強弁したことだけにあるのではない。
 1959年7月13日の『朝日新聞』の東京版朝刊と大阪版朝刊には、同文の記事が掲載されている。大阪版朝刊に、東京版朝刊と本文は同一だが、見出しが異なり「北朝鮮帰還をめぐって 残留たった二四五人 戦時徴用で来日の朝鮮人 外務省、韓国の中傷に反論」となっている記事が掲載されている。
 そして、この1959年7月13日の『朝日新聞』朝刊の記事の報道内容である「1959年7月12日の日本外務省の「在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について」にたいして、ただちに在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会が反論し、そのことが、1959年7月14日の『朝日新聞』東京版夕刊に、「外務省発表はデタラメ 徴用者の数 朝鮮聯連が反論」という見出しの記事 (甲第8号証の2) が続報されている。
 「外務省発表はデタラメ 徴用者の数 朝鮮聯連が反論」という記事の冒頭には、
    「十二日外務省が出した在日朝鮮人についての発表に対し、朝鮮総連では「全く事実に反した帰国遅延策である」とする声明を同年七月十四日の記者会見で発表し、とくに外務省発表の数字について反論している」
と報道されている。
 ここで報道されている在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会の1959年7月14日の記者会見のくわしい内容(7月12日の日本外務省の発表にたいする長文の批判)は、7月18日の『朝鮮民報』で朝鮮語で、7月20日の在日本朝鮮人総聯合会中央委員会機関紙『朝鮮総聯』の「日文版」 で日本語で報道されている。
 被告熊野市は、1959年7月13日の『朝日新聞』朝刊の記事を証拠文書として提出するなら、その直接的な関連文書である1959年7月14日の『朝日新聞』東京版夕刊の記事、および同夕刊の記事内容の根拠である在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会の1959年7月14日の反論を無視すべきではなかった。
 在日本朝鮮人総聯合会中央常任委員会は、外務省と同じ日本の国家機関である大蔵省の文書に言及している。
 その文書(大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』通巻第10冊朝鮮篇第9分冊の第21章。1947年12月ころまでに作成。発行年不明)には、
    「支那事変を契機として労働力の需要は、内外を通じて頓に増大して朝鮮の人的資源は、独り朝鮮のみならず遍く日本全体の労務給源として、戦争遂行上極めて重要なる地位を占めるに至つた。殊に日本内地に於ては、軍動員の関係もあり、労務員不足の現象が特に深刻であつて、朝鮮に期待するところが漸く多きを加へて来た。総督府としては之に応ずるため1939年(原文元号)以来二十数種に近い労務統制法令を制定実施して其の態勢を整備したのである」、
    「国家自身の手に依り直接之が募集、詮衡、送出に当ることゝし1942年(原文元号)以降所謂官斡旋集団送出の方法を実施したのである」
と書かれており、文中の「朝鮮人労務者対日本動員数調」と題する表では、1939年度~1945年度の総数は、72万4787人と書かれている(甲第8号証の5)。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 紀州鉱山への朝鮮人強制連行 1 | トップ | 紀州鉱山への朝鮮人強制連行 3 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

紀州鉱山」カテゴリの最新記事