三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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入鹿捕虜収容所と“史跡外人墓地” 3

2009年11月13日 | 紀州鉱山
■「史跡外人墓地」をめぐる事実 2
 さて、このようにして作られた墓地が、その後どうなったのかを次に記そう。
⑥ 終戦~1948年頃、連合軍の墓地捜索班が捕虜の遺骨を回収し、横浜の英連邦墓地に移し埋葬する。従って、この時点で入鹿村の墓地の中に捕虜の遺骨はなくなったことになる。
<証拠2>英連邦墓地イギリス区に埋葬されている16人の墓石。
⑦ その後(時期不明)、喜和老人クラブ(村上岩太会長)が創設されてから、老人たちが紀和町の墓地(跡)を守り、毎年2回慰霊祭を行ってきた。
⑧ 1959年、英連邦墓地管理人のレン・ハロップ氏のもとに、紀和町の墓地にまだ捕虜の遺骨があり、毎年慰霊祭が行われているとの情報が入った。ハロップ氏が墓地委員会に問い合わせたところ、捕虜の遺骨は確実に横浜の英連邦墓地に移され、埋葬されていることが確認された。その後、この墓地跡を守ってくれている人々への感謝のしるしとして、メルボルンの墓地委員会より銅板が贈られた(ハロップ氏が1992年8月1日に英字紙Nelson’s Columnに書いた記事より)。
 銅板には「To the greater glory of God and the memory of men of the BritishForces who died at or near Itaya, Japan, during the war of 1941-1945 (神の偉大なる栄光のもとに、1941年から1945年の戦争中、ここ板屋あるいはその付近にて逝去せる英国軍兵士を追憶して)」と記され、現在「史跡外人墓地」の十字架の下に「墓誌」としてはめ込まれている。
<証言4>『熊野誌第37号』掲載の二河通夫論文より
  「1959年3月、英連邦関係の王立英連邦墓地委員会事務局長ブラウン准将と在日保土ヶ谷英連邦墓地管理官パニック(註:ハロップの間違い)が板屋を訪れて実地調査を行った。その際、八栄クラブ会員の奉仕活動に対して感謝の意を表わしたという。」
⑨ 1965年、ここが紀和町の指定文化財となり「史跡外人墓地」と名付けられる。
⑩ 1987年6月、捕虜の墓地が採石場に出入りするトラックの埃をかぶるようになったため、紀和町教育委員会が、元の位置から10㍍ほど離れた場所に新しい墓地を造成し、中の遺骨も移された。
 金属の十字架の下に、メルボルンの墓地委員会から贈られた銅板がはめられ、十字架の左側には墓地の由来を記した「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」の石碑、右側にはイギリス兵16人の名前を刻んだ石碑が建てられる。
<証言5>奥建設社長・奥岩大氏の証言(新しい墓地の造成工事を請け負う)
 「(元の墓地を)ユンボで結構深く掘って私も中に入った。とっくりの大きさの(白い?)骨壷が1つあったのは覚えている。骨というか灰だった。それを今の英国人墓地に埋めた。それまでにうわさで、イギリスの骨は持って行かれているというのは聞いたことがあったので、少し残しておいたものだろうと思っていた。」
<証言6>慈雲寺住職・平子定世氏の証言(新しい墓地の造成と供養に関わる)
  「あの遺骨はイギリス兵の遺骨ではない。紀和町が外人墓地を整備するときに、わたしは、奥建設の奥岩大さんといっしょに骨を掘った。わたしは、朝鮮人も“外人”だから、紀和町が外人墓地にこの骨を埋めるのだと思っていた。あの骨は、イギリス兵の骨ではない。そのあと、紀和町が“英国兵墓地”にしてしまったので、わたしは供養に行かなくなった。」 
  「掘り出した遺骨を小さな箱にいれて外人墓地に埋めた。その遺骨を掘り出した場所は、外人墓地から100㍍ほど坑口の方向に進んだ道路の右側、三本松と呼ばれる場所だった。」(註:遺骨を掘った場所については記憶違いと思われる)
<証言7>大畑孝千穂氏(戦中、紀州鉱山に勤務。新しい墓地の造成に立ち会う)
「元の墓地の場所はここ(註:GHQ252号の収容所平面図に記された墓地の位置)だった。朝鮮人の骨もイギリス兵の骨もここに埋められていた。三本松の所には骨はなかっただろう。元の墓地を掘り起こすと、骨がバラバラに入っていた。それを新しい墓地に移した。」
⑪ 1988年、紀和町出身でロンドン在住の恵子ホームズさんが帰郷したとき、新しく整備された「史跡外人墓地」を見て感動し、いつか元捕虜たちをここに案内したいと願うようになる。
⑫ 1989年、新宮のビード・クリアリー神父が、東京のシリル・マーフィ神父を紀和町の「史跡外人墓地」に案内する。感動したマーフィ神父が教会機関誌「Far East」に寄稿したことがきっかけで、入鹿収容所の元捕虜たちに「史跡外人墓地」の存在が知れ渡る。一方、恵子ホームズさんも元捕虜を通じてこの記事を読み、「入鹿ボーイズ」を紀和町に招く計画に着手。やがて多くの人の協力により、旅行資金として日英両国で1千万近い寄付が集まる。
⑬ 恵子ホームズさんらの動きとは別に、1992年5月27~28日、テレビ愛知の企画で、イギリスより元捕虜アルバート・スローター氏、元捕虜軍医ロバート・ウィルソン氏が紀和町を再訪し、「史跡外人墓地」で盛大な慰霊祭が行われる。英連邦墓地元管理人のレン・ハロップ氏と田村佳子さんが同行。慰霊祭には紀和町長や英国大使館武官のチャールズ・クロフォード氏、元収容所軍曹の木屋茂一氏も参加。慈雲寺住職・平子定世氏が読経。
<参考>1992年8月にハロップ氏が英紙Nelson’s Columnに書いた記事。
<証言6>田村佳子さん(1992年5月の慰霊祭に参加)
  「この墓地には捕虜の遺骨はないはずなのに、町の人々が遺骨があると信じている様子なので不思議に思い、ハロップさんに尋ねると、“いいんだ。この人たちの善意が嬉しいのだから、そっとしておこう”と言った。」
⑭ 1992年10月7~9日、恵子ホームズさんが24人の「入鹿ボーイズ」を引率して紀和町を訪問、町を挙げての盛大な歓迎行事と慰霊祭が行われる。これを記念して、墓地内に「イルカボーイズ墓参記念碑」が建てられる。

 以上が、現在の「史跡外人墓地」が建設された経緯とその後の状況である。
 元の墓地に埋められていた16人の捕虜の遺骨は、終戦後2,3年のうちに横浜の英連邦墓地に移されたことは間違いないが、奥岩大氏や大畑孝千穂氏の証言によれば、元の墓地には誰かの遺骨が残っていて、それが新しい墓地(史跡外人墓地)に移されているという。
 大畑氏が言うように、捕虜収容所があった場所には、かつて朝鮮人の宿舎があり、彼らの遺骨も捕虜と同じ辺りに埋められていたとするなら、今「史跡外人墓地」に入っている遺骨は朝鮮人のものである可能性が非常に高い。
 しかし、元の墓地には朝鮮人の遺骨と捕虜の遺骨がどのような状態で入っていたのか、骨壺あるいは骨箱に入っていたのかバラバラだったのか、また終戦後GHQがそこを掘り起こした時に、捕虜と朝鮮人の遺骨をどのようにして識別したのかなど、まだいくつかの不明点がある。
  「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の斉藤日出治氏が、昨年「史跡外人墓地」造成時の教育長だった久保幸一氏を訪ねたところ、彼はイギリス兵の遺骨が横浜に移されていることは知っていたが、「史跡外人墓地」には分骨された骨が残っていると信じており、朝鮮人の骨が入っていることはあり得ないと断言したという。従って、その骨が確実に朝鮮人のものであるかどうかは、掘り起こしてDNA鑑定でもしなければわからない。
 日英和解のシンボルである「史跡外人墓地」を掘り起こすことに熊野市がYesと言うかどうかはわからないが、もし朝鮮人の遺骨が出てきたとしたら、どう対処するのだろうか?

                           POW(戦争捕虜)研究会 笹本妙子
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