三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

入鹿捕虜収容所と“史跡外人墓地”  2

2009年11月12日 | 紀州鉱山
■「史跡外人墓地」をめぐる事実 1
 ところが昨年(2008年)1月、この“日英和解のシンボル”をめぐって、思いがけない事実が浮かび上がってきた。
 紀州鉱山の朝鮮人労働者について調査している佐藤正人氏がPOW研究会の会合に参加した折、この鉱山では連合軍捕虜も働いており、死亡した捕虜は「史跡外人墓地」に葬られていると語ったので、私は「その墓地は形だけのもので、捕虜たちの遺骨は横浜の英連邦戦死者墓地(以下、英連邦墓地)に移されている」と伝えたところ、佐藤氏はとても驚き、「町の人たちは、“史跡外人墓地”に骨が入っていると言っている。もし捕虜の遺骨が横浜に移されているなら、“史跡外人墓地”の中の骨は朝鮮人の可能性がある」と言う。私も驚いた。“日英和解のシンボル”である「史跡外人墓地」に朝鮮人の遺骨が入っているとしたら、その“シンボル”が足元から崩れてしまうではないか。
 そこで私は真相を確かめるべく、3月9日、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する初めての集会とフィールドワークに、POW研究会の仲間の田村佳子さんと共に参加した。彼女は30数年も前から英連邦墓地に関わり、1992年5月には、当時の英連邦墓地管理人レン・ハロップ氏や入鹿収容所の元捕虜2人と一緒に紀和町を訪ねたこともある人だ。
 集会とフィールドワークの詳細は省略するが、主催者である佐藤さんら「紀州鉱山の真実を明らかにする会」から聞いた話、フィールドワークで当時の関係者から聞いた話、そして私や田村さんが持つ資料や情報をもとに、「史跡外人墓地」をめぐる事実を整理すると以下のようになる。

① 1944年6月、三重県南牟婁郡入鹿村(現・熊野市紀和町)板屋に、大阪俘虜収容所第16分所(後に名古屋俘虜収容所第4分所。通称入鹿収容所)が設置され、泰緬鉄道から移送されたイギリス兵捕虜300人が入所。
収容所の位置は、現在の紀和鉱山資料館の西、国道311号沿い、浄水場脇の市営住宅のある辺り。
② 収容期間中に捕虜16人が死亡。遺体は火葬されて、仲間の手によって収容所の裏手に埋葬され、木の十字架が建てられた。
<証言1>元捕虜ジミー・ウォーカー著『戦争捕虜291号の回想』より
 「(終戦間近の)ある日、ニッポン人の軍曹が、小さな薬箱のような箱を16個、床の上に置いた。火葬場から来た箱だった。私たちの仲間の遺骨が入っている。“うー、スコップ”と、軍曹は言うと、穴を掘って灰を埋める身振りをした。その晩、私たちは収容所の一隅に集まり、そこに然るべきやり方で仲間の遺骨を埋葬した。リチャード・ホワイトが宗教家として式をとり行った。私たちは木の十字架を作り、小枝に亡くなった者の名前を刻んだ。木の縁飾りが作られ、2つの桶に野の花が植えられた。」
<証言2>大畑孝千穂氏の証言(1924年9月生、戦中、紀州鉱山に勤務)
 「捕虜収容所ができる前は朝鮮人の宿舎があり、亡くなった朝鮮人の遺骨をここ(採石場の入り口付近。現外人墓地の約10㍍左)に埋めていた。私も埋めたことがある。その後捕虜の遺骨もここに埋められた。遺体は板屋の共同墓地の所で火葬した。」
③ 1945年8月15日、終戦。
④ 1945年8月30日頃、鉱山の経営者である石原産業が、捕虜の墓地を作る。白い木の十字架の下に16人の名前を記した木のプレートを置き、周囲を木の柵で囲む。
<証拠1>GHQ/SCAP法務局調査課報告書252号(以下GHQ252号と略)
 1945年8月30日頃に撮影された収容所や墓地の写真、収容所の見取り図があり、墓地は宿舎の裏手に位置している。
<証言3>収容所主任・平島雄市郎氏証言(『熊野誌第37号』二河通夫「三重県南牟婁郡紀和町に眠る外人(英国軍捕虜)墓地」より)
 「収容所跡に十字架の墓標が建ってあり、私は何枚かその写真を撮って持っていたが、彼らが帰国の際、私の家に遊びに来てくれてその写真を記念にと希望されたので持たせてやりました。」
⑤ 1945年9月8日、捕虜たちは入鹿村を発ち、帰国の途に着く。

 以上が、最初の墓地が建設されるまでの経緯である。

 収容所平面図は、GHQの調査官が1946年2月18日~23日に入鹿村に調査に来た際に、石原産業が提出したものである。図の上中央やや左に十字架の墓地のマークがある。この場所は、<証言2>の大畑孝千穂氏が朝鮮人や捕虜の遺骨を埋められていたという場所とほぼ一致する。採石場の入り口付近に当たり、この右約10㍍の場所に現在の「史跡外人墓地」がある。平面図と写真を照合すると、図の下側の道路が写真の右側の道路に該当し、墓地の場所は、写真では左奥と思われる。
 写真は、1945年8月30日頃に、石原産業入鹿鉱山のオオヤブ労働部長の指示によって撮影され、1946年2月にGHQ調査官が入鹿村に調査に来たときに、石原産業が提出したものだという。<証言1>の元捕虜ジミー・ウォーカーによると、終戦前にすでに捕虜たちは木の十字架を作り、小枝に亡くなった者の名前を刻んだ素朴な墓を作っていたようだが、終戦後の8月末、石原産業がその場所に新たな墓地を作ったものと思われる。
 佐藤正人氏は、「この墓地が作られたのは、1945年12月に石原産業社長の石原広一郎がA級戦犯容疑者として逮捕された後まもなくではないか」と推測しているが、終戦直後の8月16日、俘虜情報局長官より各地の俘虜収容所に送られた事務連絡の中で、「……特に遺骨の類は見苦しきものは新調する等悪感情を抱かしめざる如く処理すべし」と指示し、また8月22日にも「俘虜墓地及遺骨安置場の整備を良好にし敵の感情を害せざる如く留意せられ度」と通達していることから、それに従ってこの墓地を整備したと考えるのが妥当と思われる。事実、各地の収容所では終戦直後に大慌てで急ごしらえの墓地を整備している。なお、GHQの調査官が1946年2月に調査に来た際に、調査官自身が撮影した墓地の写真もあるが、十字架の背後の木塀が低くなっていることから、写真③④はやはり45年8月末に撮影されたと考えるべきだろう。また、<証言3>の収容所主任・平島雄市郎氏が持っていて捕虜に渡したという写真も、これらと同じものと考えられる。
                          POW(戦争捕虜)研究会 笹本妙子
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