4月13日朝9時、海口人民公園に邢越さんと行った。そのなかの解放海南島戦役烈士陵園の入り口で許如梅さんの孫(邢勇さん)と会う約束をしていた。
邢越さんとわたしは、6日前の4月6日に定安県雷鳴鎮の梅種村に行っていた。
2010年5月23日、わたしは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓を訪ねた。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょだった。2010年4月6日に海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟まで運ばせ大勢の
人にみせた」
と書かれていた。
2010年5月23日の13年あまりのちの2024年4月6日には許如梅さんの墓には、墓石が無くなっていた。
2015年8月に許如梅さんの墓石が、海口人民政府によって解放海南島戦役烈士陵園の中の海南革命烈士纪念碑のそばに新しく建てられた。
邢勇さんにそのいきさつを聞いた。邢勇さんは、
“梅種村で殺された祖母の遺体は、村人が土葬してくれた。祖母を殺した日本軍は、祖母の首を切って定安に運び、
日本軍基地の門にぶら下げたという。その後、その行方はわからない。梅種村に埋められた祖母の遺体は、まもなく
近くの別の場所に埋めなおされたという。2015年に祖母の墓が海口に新しくつくられたとき、もとの墓石は、破棄さ
れた。そのとき遺骨がみつからなかったので海口の新しい墓石の下に梅種村の墓石の下の土の一部を埋めた。
祖母の墓を海口に新しくつくることにわたしは反対だった。しかし、母はそれを望んだ。
わたしは、祖母の墓が梅種村に存在することが歴史の事実を鮮明に示すことだと考えている"
と話した。
日本海軍の1943年3月1日現在の「陸上部隊兵力配備要図」には、定安守備隊本部に「駐屯」していた日本軍将兵は72人となっている。
海口人民政府があたらしくつくった「許如梅烈士之墓」の5行の碑文の末部には「一九四三年春光栄犠牲」と書かれているだけである。
2013年3月に邢越・邢飛編著『読解海南邢氏歴史』を出版しており、邢越さんは2019年7月に海南出版社から『海南邢氏歴代宗譜碑銘文輯』を出版している。
10時半すぎに解放海南島戦役烈士陵園の出口で邢勇さんと別れ、南海出版公司に人たちとの話し合いの場に行った。
2015年8月に、南海出版公司は、海南島省文化交流促進会編『真相 海南島近現代史研究会 海南島17年(27次)調査足跡』を出版していた。2014年秋から、海南島近現代史研究会は海南島訪問の際に南海出版公司の人たちと話し合ってきたが、新型冠状病毒肺炎の激しい流行のため2018年10月以後中断していた。
4月13日にようやく会うことができた。
2時間あまりの凝縮した時間のなかで、
【一】石馬村と昌美村の追悼碑建立への南海出版公司と海南島近現代史研究会の共同協力、
【二】佐藤正人が2024年秋に出版する『海南島近現代史研究』の漢語版を南海出版公司が出版する件、
【三】張応勇さんの遺稿集の出版、
【四】紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会が1998年からこれまで25年間海南島で記録してきた映像などの整理・管理・活用・保存、
などが具体的に話し合われた。
午後9時55分海口発(ホンコン経由で日本に)。
佐藤正人