三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 10

2024年05月17日 | 海南島近現代史研究会
 4月8日朝8時に文昌市内の旅館を出て9時半に文昌市郊外の東閣鎮南文村に着いた。
 2014年11月に、南文村の自宅で邢福橋さん(1934年生)は、
   「日本軍が来た時、家族といっしょに山の洞窟に隠れた。食べるものを探しに洞窟を出たが、姉に見つかって、すぐ
  に洞窟に連れ戻された。姉は、わたしを洞窟に隠したあと日本軍に見つかって殺された。そのとき40人以上が殺され
  た。姉の名は、月花。20歳くらいだった思う」
と証言を聞かせてくれた。
 2024年4月8日に南文村を再訪したとき、邢福橋さんは3、5年前に亡くなっておられた。
 南文村を離れ、近くの林村村に向かった。
 わたしがはじめて東閣鎮林林村を訪ねたのは、2011年11月6日だった。
 「抗日戦争遇難郷親紀念碑」が建っていた。「一九九五年仲秋吉日」に「林村村林氏宗親」が建てた碑だった。
 碑の裏面に、「「墓誌銘 哀鴻遍野 日冦侵華連天 鴻史前鮮 凄凄荒草埋寃骨 堆遺爸娘盼儿心 三六前生三六死 七二横遭刀火臨 魂飛雲巻往板來東 徒増父老泣無声」と刻まれていた。
 碑の前で、村人の林樹存さん(1952年生、辰年)が、
   「同じ日に72人が殺された。ここには30人くらいが埋葬されている。ここに埋葬されている以外の人は、家族が
   別に埋葬した。この村出身で台湾から戻ってきた人が金を出して碑を作った。周りの塀などは村民みんなが金を
   出してつくった。
    生き残った林鳳通さんは文昌に住んでいる。林堅さんは海口にいる。このふ たりが72人の名前を知っている。
   生き残った人は、12、3人だった
と話した。

 その数日後、文昌市文城鎭に住んでいる林鴻通さん(1932年10月生)を訪ねた。
 林鴻通さんはつぎのように話した。
   「日本軍が攻めてきたときは9歳だった。朝4時ころ。わたしは祖母(母の母)といっしょに寝ていた。家には、
   母と弟ら全部で7人がいたが、母は朝食の支度をしていた。外から、人の声、犬の吠える声が聞こえてきた。
    村には、日本軍がそれまで何回も攻めてきたときがあるから、急に攻めてきたときに隠れる場所をつくって
   あった。板で覆って草でかぶせてある。そこに一部の人が隠れた。共産党が、日本軍が襲ってきたときのことを
   考えて掘れといって、つくった穴だった。周りの村でもみんな掘っていた。穴は村の若者が掘った。
    日本軍はさいしょ村の入り口の大きな木の下に集まっていた。村に入ってきたのはごく一部で、何もしないで
   帰った。
    警戒解除という状態になったので、朝ご飯の時間でもあるし、洞くつから出てきたら、日本軍がおおぜいで
   また攻めてきた。2回目は6時ころ。朝ごはんを食べているときだった。
    このときは、村は包囲されて、逃げるところがなく、じぶんの家にいた。日本軍は各家をまわって、家から
   人を追い出して集めた。こうしてほとんどの人が外に出されて集められた。ごく一部の人が隠れた。
    日本兵は子どもと大人を分けた。子どもはぜんぶで11人だった。日本兵は、子どもに、水をくめといって、
   列を組ませて井戸の方に連れていった。列の先頭は、林樹民(?)。林樹民(?)の腕をつかんで、そのまま井戸に
   放り込んだ。2番目、3番目の子どもは誰だったか……、覚えていない。子どもの首を抱えてうしろから剣で刺
   して、井戸に放り込んだ。4人目までそうして剣で刺されて井戸に放り込まれているうち、5番目にいたわたし
   は、じぶんから井戸に飛び込んだ。頭と額を固いところにぶつけて、こぶができた。井戸は、わたしの背丈より
   深かった、先に4人の死体があるので、その上に立ってあごまで水に浸かっていた。日本兵は、井戸のふちに座っ
   て、足でわたしの頭を踏みつけた。わたしは何度も、その足を引っ張ったり避けたりした。そうしているうちに、
   日本兵は、剣を銃に付けて、刺そうとしたが、わたしは死んだふりをして、浮
   いたり沈んだりしていた。日
   本兵はわたしが死んだと思った。わたしは助かった。姉さんも目の上とか背中とか刺されて、井戸に投げ込まれ
   たが、すぐには死ななかった。
    11人のうち、9人は井戸で死んだ。わたしと姉だけが、生き残った。姉はわたしのうしろだったが、何番目だっ
   たかわからない。井戸の壁がレンガだったので、這い上がることができた。姉といっしょに這い上がった。
    日本兵は3人いた。顔は覚えていない。太陽が昇ってきて、影が井戸に映った。そのときはじっとしていた。
    先にふたりの日本兵が井戸を離れた。影がなくなって、姉から先に這い上がり、近くの田んぼに逃げて隠れ
   た。稲の収穫時で、まだ稲を刈っていなかったので、稲の中に隠れていた。午後4時ころまでじっとして隠れて
   いたら、爆竹の音とか家が焼けおちる音が聞こえた。正月が終わってまもなくだったので、爆竹が残っていた。
   村が焼かれたのだ。
    その間、姉は2回ほど村に近寄ってみた。2回目は11時ころ。まだ日本兵がいたので、また稲に隠れた。3回目、
   4時ころ村に近寄ってみたら日本兵がいなかったので、姉がわたしを連れに来て、村に戻った。何時間も井戸に
   つかっていたので、寒くて……。
    村に戻って2か所を見た。村は、真っ黒で、屋根とか柱とか、まだ燃えていた。
    ひとつは、さいしょにみんなが集められたところ。入り口で、ひとりが剣で刺されて死んでいた。ふたりが、
   焼かれて外に逃げて死んでいた。祖母はここで殺されて焼かれた。
    もうひとつの家で、7人が殺された。母、曽愛娥。弟、林鴻富。ふたりの兄嫁(2大嫂)(ひとりはいとこの兄嫁か
   ?)、名前はわからない。おばさん、父の姉)。この家の女の人、ふたり。ひとつの部屋に入れられて焼かれていた。
   ひとりだけはわかるが、6人は真っ黒でだれかわからない。
    3日くらいたって、死体を片付けようとしてさわったら、頭とか足とか折れたので……。
    5時ころだったと思う。寒くて、食べ物がなくて。姉はわたしを隠れ家に連れていって着替えさせた。
    日本兵は13人くらい。3人は子どもを井戸に連れていった。5人は、家から人を追い出して集めた。5人は、
   2軒に草とかガソリンとか集めて焼く用意をしていた。
    何軒が焼かれたかわからない。本(『椰林血泪』)には、そのころ覚えていたことを思い出して書いたので詳しい。
   姉の名前は、林月英。当時11歳。父は兄とタイに行っていた。兄弟3人と姉。タイに行っていた兄、姉、わたし、
   弟。弟は5歳くらい。
    李山村に2軒、親せきの家があった。5時ころ、姉に連れられて、母の実家がある李山村に行った。母のいとこの
   弟、曽紀立のところに行き、一晩泊まった。また日本軍が来ると思ったので、姉はわたしを連れて宝典に行った。
   井戸の中で血の水をいっぱい飲んだので、のどが痛くて何も食べられなかった。水も飲めなかった。7日間
   くらい、なにも食べられず、美柳村の人が、やわらかい果肉などを食べさせてくれて、それで、元気になった。
   元気になったので、また李山村にもどった。2軒の親戚に交代で食べさせてもらった。
    姉はさきに林村村にもどって、いとこの兄嫁といっしょに田んぼのしごとをした。いとこの名前は、林樹政。
   わたしも林村村にもどって姉といっしょに暮らしながら、農業の手伝いをした。姉は14歳のとき、婚約して
   いた相手の村に行った。羅晨村。
    日本兵は鉄の帽子をかぶって、まわりに布を垂らしていた。日本兵はその前も見たことがある。日本兵は村に
   来ると、“ヌイヌイヌイ……”と手ぶりで指を丸めて言った。卵をくれという意味だ。
    1947年8月に、わたしは文昌県中隊に入隊した。独立団で、名前は英勇隊といった。
    父はタイで1977年に亡くなった。家に一回ももどらなかった。兄は8回ほどもどってきた。1回目は1975年。
   それから去年、最後に帰ってきた。今年は83歳になる。
    いま昔のことを知っている人は3人だけだ。わたし、林樹逢、林樹慈」。

 1926年に林村村で生まれた林樹慈さんが2010年12月に出版した『椰林血泪』(海南郷土文化研究会主辦 天馬図書有限公司出版)に、林鴻通さんは「剣戮水淹 惨絶人寰——林鴻通的回憶」を寄稿している(8~14頁)。

 2024年4月8日に邢越さんとわたしが林村を訪ねたとき、「抗日戦争遇難郷親紀念碑」の前の広場には人影はなかったが整備されていた。
 わたしは2011年11月6日以後、しばしば林村村に行き、村民に話を聞かせていただいて来た。2015年3月28日~4月9日の紀州鉱山の真実を明らかにする会第27回・海南島近現代史研究会第14回海南島「現地調査」のとき、4月4日の清明節に行われた追悼集会には、南海出版公司の編集者らも参加した(海南省文化交流促進会編・南海出版公司2015年8月発行『真相』217~220頁)。

 2024年4月8日、林林村から楊必森さん(1922年生)に会うために東閣鎮鳌頭村を訪ねた。
 2014年10月30日に楊必森さんは、
   「1943年3月6日の朝、日本軍が来て村の入り口を封鎖した。
    このころはサツマイモの収穫期で、母は薄く切ったサツマイモを天日で乾かすために村の外に出たときに日本軍と出会った。日本軍は母のはらを突き刺した。母は銃剣を両手でつかんで手も切られ、その場で死んだ。
    家の地下に穴を掘っていて、日本軍が来たので兄とわたしはそこに隠れた。
    日本軍は家に火をつけた。煙がひどくて隠れていっれず、出ていくと、兄もわたしも、えりくびをつかまれ、火のなかに放り込まれ、尻を蹴りこまれた。兄は足をやけどし、わたしは火の中に手をついたので、両手をやけどした。腕の皮膚が焼け落ちた。日本軍がいなくなって火から逃げ出した。日本兵は4、5人だった。兄はやけどがひどくて、1948年に死んだ。
    母は、邢氏。兄の名は、楊必雄」
と話した。
 2024年4月8日に家を訪ねた。誰もいなかった。 楊必森さんは亡くなられていた。

 東閣鎮鳌頭村を離れ、潭牛鎮の中心部(潭牛墟社区 )に行って宿泊した。 

     佐藤正人
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「教科書にはない加害の歴史、「旅行ガイドブック」に書いた日本の大学生たち」

2024年05月17日 | 国民国家日本の侵略犯罪
「The Hankyoreh」 2024-05-15 22:53
■教科書にはない加害の歴史、「旅行ガイドブック」に書いた日本の大学生たち
 一橋大学「加藤ゼミ」の力

【写真】一橋大学社会学部の加藤圭木教授(写真左から)と4年生の藤田千咲子さん、根岸花子さんの姿。彼らは最近『大学生が推す 深掘りソウルガイド』という本を出版した=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 「南山公園の一角にある安重根(アン・ジュングン)義士祈念館。朝鮮の独立運動家・安重根の生涯を紹介する博物館です。安重根といえば、初代内閣総理大臣の伊藤博文を射殺した人物として、歴史の授業で習った人もいるでしょう。しかし、日本の教育のなかでは、なぜかれが伊藤博文を射殺したのか、その背景について深く学ぶことはあまりありません」。
 3月に日本で出版された本『大学生が推す 深掘りソウルガイド』の一節だ。日本でこのような内容が書かれた韓国旅行ガイドブックは極めて異例だ。日本では安重根義士のことを、明治時代の尊敬される人物・伊藤博文首相を射殺した「テロリスト」として学ぶ。このガイドブックには、ソウルの人気スポットである「Nソウルタワー」の様々な見どころや食べ物なども紹介されるが、日本人には不都合に思われかもしれない内容、例えば安重根とは誰なのか、彼が主張した「東洋平和論」とは何なのかまで、分かりやすくまとめられている。
 この変わったガイドブックは、日本の大学生6人がソウルのあちこちを直に巡りながら書いたもの。先月30日、東京都国立市にある一橋大学で、社会学部の加藤圭木教授(40)と、この本を作った根岸花子さん(22)、藤田千咲子さん(22)に会った。
 「ドラマ、K-POPなど韓国が好きで旅行に行く日本の人々に、何か役に立ちながら歴史問題にも触れる機会になるのではないかと思い、ガイドブックを作りました」。社会学部4年生の根岸さんは「2022年秋に韓国に初めて旅行に行った時、いわゆる日本人観光客がよく行く観光地の近くに歴史的に非常に重要な場所があるということを知った」とし、これを分かち合いたかったと話した。同じく4年生の藤田さんも「この本は必ず行ってみるべき観光地、美味しい店も紹介しながら、歴史を学んだり一緒に考えられる内容が十分に含まれているというのが特徴」だとし、「こんな本は日本で初めてではないかと思う」と紹介した。
 一橋大学社会学部の学生たちが「韓日の歴史にしっかり向き合おう」といって書いた本は、今回で3冊目だ。2021年『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』、2023年『ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち』という本が出版された。いずれも加藤ゼミの学生たちが著者という共通点がある。
 加藤教授は「2020年のゼミ中に(最初の)本を作ろうという提案が出ました。ゼミで日本と朝鮮、日本の朝鮮植民地支配問題などについて初めて率直に話をしながら、これが人権の問題だということに気づき、学生たちの学びに対する意欲が高まった」と、当時の雰囲気を伝えた。なぜ日本社会はこのような重要な人権、歴史問題について話せないのか、こうした日本社会の状況を変えなければならないのではないか、などの意見が出て、本出版につながった。「わたしをとりまくモヤモヤ」「どうして日韓はもめているの?」「日韓関係から問い直すわたしたちの社会」など、本の目次を見ても分かるように、難しい学術書ではなく、一般市民の目線に合わせた本だ。

【写真】加藤ゼミの学生たちは全3冊の本版を出した。(左から)2021年『「日韓」のモヤモヤと大学生のわたし』、2023年『ひろがる「日韓」のモヤモヤとわたしたち』、『大学生が推す 深掘りソウルガイド』(一番右)。1冊目は韓国語に翻訳された=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 本が出版されると、SNSを中心にK-POP好きなファンたちの間で大きな話題になった。周りの人たちとは気軽に話せなかったが、心の中で気になっていた韓日間の敏感な問題を、この本がきちんと説明してくれたからだ。これまでに1万2千部が売れた。加藤教授は「日本の植民地支配の責任を訴えるテーマの本としてこれほど売れたケースはほとんどないと思う」と強調した。
 日本でこのような「新しい歴史」を書いている「加藤ゼミ」とは、一体何だろうか。一橋大学は学生の研究・指導においてゼミを重視しており、3年生になると必ず一つのゼミを選択する。「加藤ゼミ」に所属するのは、朝鮮の近現代史や日本の歴史認識問題などに関心のある3、4年生の学生7~8人。週1回、2~3時間ほどの授業だ。読みたい文献を決めて議論を行い、一緒にご飯を食べたり、研究のための旅行に行ったりもする。加藤教授が同校に着任した2015年から始まった。
 「加藤ゼミでは三つを大切に考えています。第一に、歴史学の研究成果として明らかにされた事実をもとに勉強すること。第二に、人権を重要に考え、歴史の中で被害者、女性、植民地支配を受けた被害民族など、人権の視点で歴史を学ぶこと。第三に、学生たちの主体性。一方的な学びではなく、自分たちがこの社会に住みながら感じた疑問を踏まえながら、これをもとに自分たちが問題を解決していく主体的な姿勢を重視しています」。加藤教授は、「ゼミでは学生同士で話し合い、各自疑問に思うことを互いに打ち明けて話す」とし、「私は最後に少し意見を付け加える程度」と話した。
 根岸さんと藤田さんは2022年、3年生の時からゼミに参加している。根岸さんは「1年生の時、加藤先生の授業で読んだ田中宏先生の『在日外国人』という本が直接的なきっかけ。自分は日本社会における差別の問題について全然知らなかったこと、自分自身が差別の加害者になっていることに気づきました」と語った。これをきっかけに朝鮮近現代史を学びたいと思い、加藤ゼミに入った。
 藤田さんは「K-POPを聴きながら韓国という国自体について関心を持つようになりました。ツイッターで嫌韓や(韓国に対する)差別的な内容を発見し、文化的には交流が盛んな一方で、なぜこのようなヘイト表現が多いのか問題意識を持つと同時に、私はこれまで植民地支配の歴史について特に考えず、学ばずに生きていたことに気づきました」とし、「勉強したいと思ったけれど、どんな本を読めばいいのかよくわからなかった。こんな悩みの中で『加藤ゼミ』に行って学ぼうと思ったんです」と話した。「ゼミに参加するまで、このような話を友人や同世代の人々と話したことがなかった。ゼミでは普段感じるもやもやについて共有することで問題意識も深まり、周囲の人々から刺激も受けることができてとても良い」。藤田さんと根岸さんは昨年韓国に留学し、4年生になった今年も「加藤ゼミ」に参加している。

【写真】2015年10月、日本軍「慰安婦」問題解決のための第1201回定期水曜デモがソウル鍾路区中学洞の日本大使館前で開かれた。ある参加者が「歴史教科書が記憶に刻まれるようにせよ」と書いたプラカードを持っている=イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社

 日本でK-POPと韓国ドラマが好きな10~20代はとても多いが、韓日を巡る歴史問題に関心がある人は少数だ。「日本では被害者として自分たちのことを考える傾向が強い。アジア太平洋戦争を学ぶ時も原爆や空襲など被害を受けた部分を学ぶ。このような被害を受けたので戦争は良くないという教育」。 根岸さんは「朝鮮侵略と植民支配という加害の歴史はよく分からないか、学ぶ努力しようとしない」歴史教育の不十分さを挙げた。
 「日本はいまだに帝国主義を正当化し、その論理を内面化していると思います。過去の歴史をきちんと反省しなかったために、その精神が残存し再生産されている。日本にとって不都合な歴史は見ようとしない。政府も歴史教育をきちんと行わず、メディアもこのような問題を積極的に取り上げなかったり、むしろ隠蔽しています」と、加藤教授は声を強めた。
 韓日関係の懸案についても尋ねてみた。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は強制動員被害者賠償問題に関して、日本の被告企業ではなく韓国の財団が肩代わりする一方的な譲歩案を進め、韓日政府間の関係は改善しつつあるが、被害者たちは謝罪と賠償を要求して闘い続けている。
 加藤教授は「被害者の人権と尊厳が回復されなければならない問題です。日本は歴史的事実を認め、公式謝罪と賠償、歴史教育などの措置を取らなければならない」と強調した。根岸さんは「外交と政治の観点よりは、人権が尊重されなければならないと思います。被害者たちはなぜ声を高めているのか、その状況を見るべき」だとし、「これは私たちの問題です。私たちが声を出してこの問題を解決しなければ」と語った。藤田さんも「被害者が引き続き声をあげるしかない状況に対して申し訳ない気持ち」だと話した。
 根岸さんと藤田さんは、一橋大学だけでなく他大学の学生たちと一緒にサークルを作り、日本軍「慰安婦」被害者を含め、フェミニズム問題を勉強している。二人は「このような話ができる社会を作るために対話の場を広げていきたい」と語った。
 加藤教授に4冊目の本を出す予定かと聞いた。「学生たちが本を作りたいという強い考えを持って、また自分たちがそれをやっていくという責任感があればできる。最初の本を作った時、この一冊で終わりだと思っていました。学生たちが主体的に乗り出したからこそ、3冊の本が作られたんです」。 加藤教授と学生たちの情熱からみて、「加藤ゼミ」の新たな挑戦は続くと思われた。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2024-05-15 06:25
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