三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 12

2024年05月19日 | 海南島近現代史研究会
 2024年4月10日朝8時半、 大至坡を発って海口市三門坡鎮大水村を訪ねた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会として27回目、海南島近現代史研究会として14回目の海南島「現地調査」のとき、2015年4月6日に、わたしたちは、はじめて大水村を訪ねた。
 わたしたちは、それまで、海南島で、「大水戦闘」について、なんどか話を聞いていた。2013年11月1日に、文昌市東閣镇红星村委会林村村で符策淮さん(1932年生)は、
   「陳在順と陳在利。ふたりは兄弟で瓊山大水戦闘のときに殺された」
と話した。
 2013年11月2日に、文昌市南陽鎮金花村で龍碧玉さん(83歳)は、
   「ふたりの兄が革命死した。国民党との大水戦闘のとき、国民党に囲まれて犠牲になった。兄の名は、
   龍レンム、2番目の兄。龍コタッ(哥仨)、3番目の兄。革命に参加してすぐだった」
と話した。
 「大水戦闘」のときに死亡した国民党軍将兵の数は明らかになっておらず、その名前もほとんど明らかにされていない。
 海南抗戰卅週年紀念會編印『海南抗戰紀要』(文海出版社〈台北〉、 1980年2月刊?)に掲載されている「瓊崖抗戰殉難軍民姓名表」に、大水村で戦死した3人の名前と略歴が、つぎのように記されている。
   「士泉 年齢:三一、籍貫:高要縣、職別:少尉排長 卅一年一月廿四日在瓊山縣龍發大水村抗敵陣亡」、
   「符春榮 年齢:一九、籍貫:儋縣、職別:中士班長 卅一年一月廿三日在瓊山縣龍發大水村抗敵陣亡」、 
   「楊伯英 年齢:三一、籍貫:雷州、職別:中士班長 卅一年在瓊山縣大水村抗敵陣亡」。

 中国共産党海南省委党史研究室編『海南英烈譜』(海南出版社、2000年12月) に抗日戦争時期に海南島で倒れた英烈7981人の名前と略歴が個別に記されている。 『海南英烈譜』に名前と略歴が記されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士は、403人である。
 2011年10月に海南省人民政府によって整備された大水村の「大水革命烈士陵園」の背面の大型の56枚の人工石に刻まれている「大水戦闘英烈名録」に示されている「大水戦闘」のときに戦死した共産党軍の兵士の氏名は、346人である。「大水戦闘英烈名録」は、厳密な調査によって作成されたとは信じがたい。
 「大水革命烈士陵園」の入り口に2011年10月に建てられたと思われる「大水戦闘簡介」に「殲敵近千人」(「敵〈国民党軍将兵〉を約1000人殲滅した」)と書かれているが、この数字の根拠は示されていない。「大水戦闘簡介」には共産軍兵士の戦死者の数は書かれていない。

 2014年11月24日に、大水村で生まれ育ち「大水戦闘」のとき数え年で8歳だったという雲維召さん(1935年生)に長時間話を聞かせてもらい、大水村の村内と近くの羅馬嶺の日本軍の望楼跡などに案内してもらうことができた。
 「大水戦闘」のときの犠牲者は、共産党軍の犠牲者も国民党軍の犠牲者も、いっしょに村人が大水村のはずれの石切り場の穴に埋葬したという。その現場は、数10年まえにつくられた貯水池のそばであった。深い穴だが、遺骨が残されたまま、いつか水没するかもしれない。
 共産党軍と国民党軍の「大水戦闘」を傍観していた日本軍は、「大水戦闘」のあと、まもなく、近隣の龍發、龍發嶺、龍馬坡、東路などに守備隊本部を設営し望楼・兵舎をつくった。日本海軍の『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、龍發守備隊の兵員数は41、龍發嶺守備隊の兵員数は8、羅馬坡守備隊の兵員数は84、東路守備隊の兵員数は52と書かれている(羅馬坡は龍馬坡の誤記だと思われる)。
 龍馬坡守備隊の望楼跡は、胡椒畑やゴムの樹の林になっていた。望楼のそばに「慰安所」があったという。日本軍が望楼をつくるとき、大水村の村民も働かされ、少年だった雲維召さんも雑用をさせられたという。
 雲維召さんは自宅で、共産党軍の兵士がくれたものだと言って、「大水戦闘」で亡くなった兵士がもっていたという金属製のラッパをみせてくれた。

 「大水戦闘」は、日本侵略軍が、海南島の各地で民衆虐殺・村落破壊、資源掠奪をくり返していた時期の中国国民党軍と中国共産党軍の「戦闘」であった。
 この「戦闘」のとき、中国共産党海南省委党史研究室の文書によっても403人という多数の共産党軍の兵士が命を失っている。
 「大水戦闘」にかかわる歴史事実をすこしてもはっきり知ろうとして、わたしは、2015年以後も何度も大水村を訪ねた。

 中共海南省委党史研究室著『中国共产党海南历史(第一卷)』(中共党史出版社、2007年9月出版)は、1995年8月に出版された中共海南省委党史研究室编著『红旗不倒――中共琼崖地方史』を修訂再版したものである。この修訂作業は2005年7月に開始されていた。『中国共产党海南历史(第一卷)』第三编 抗日战争时期(1937年7月—1945年8月)、第十六章 坚持抗战、团结、进步的方针、四 打退国民党顽固派的反共逆流には、「大水戦闘」における共産党軍兵士の犠牲者にかんして、なにも記述されていない。
 以下は、『中国共产党海南历史(第一卷)』に掲載されている「打退国民党顽固派的反共逆流」の「大水戦闘」にかんする記述の全文である。
  年底,国民党顽固派调集保安第六、七两个团的主力,连续向琼文抗日根据地进犯,大有与独立总队进行主力决战之势。12月下旬,保七团二营营长李紫明率领该营及文昌、琼山县游击大队,分两路向道崇、咸来乡进攻,然后进入文昌县的锦山海边接运国民党从广州湾运来的军用物资,但进攻一开始就被独立总队击退。1942年1月17日晚,李春农部队及民夫数百名与李紫明会合,再度向锦山进军。独立总队部侦悉顽军意图,当即命令第一、二支队预先在顽军必经之路的三江乡斗门村公路附近设下埋伏,准备歼灭顽敌。次日下午,顽军进入埋伏地段,第一、二支队将其包围在斗门村。顽军且战且向文昌方向的路口撤退,李春农在败退时被第二支队第七中队机枪手黄可则击中落马而死。
  李春农被击毙后,顽军在保七团二营营长李紫明带领下进入锦山,将其补给物资运回,企图尽快退回他们的巢穴潭文、甲子。但是独立总队紧紧前堵后追,使其不能脱身,最后不得不退入树乡大水村固守。第一、二支队也随即合拢,将大水村团团围住。冯白驹亲临阵地,与吴克之、马白山两位支队长一起,直接指挥大水的围攻战。上千顽军被围困在大水村里,凭借着优势火力,据险作困兽斗。第一、二支队由于没有攻坚武器和打攻坚战的经验,未能乘顽军立足未稳,迅速攻击歼之,而只是采取围困战术迫其投降,以致给顽军造成喘息的机会。李紫明利用电台向顽军司令部呼救,司令部电令李紫明“坚守待援”。第一、二支队紧紧包围了大水五天四夜,仍解决不了战斗。26、27日,保七团副团长董伯然率领所部第一、三营和琼山、文昌两县国民党游击队驰援,被击退。28日又调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共3000余人,再次驰援。第一、二支队为迎击援军,不得不减轻了围困大水兵力,使李紫明部乘机突围,与来援顽军会合。第一、二支队随即集中力量,穷追猛打,两部顽军不敢恋战,且战且退,溃不成军。经过五天四夜的激战,第一、二支队大量杀伤顽援军,但由于既要打围又要打援,弹药消耗过大,因而撤退。
  斗门、大水战斗,是琼崖独立总队与国民党顽军的一次主力决战,虽未达到全歼顽军主力的目的,但少将副司令李春农被毙,董伯然受重伤,毙伤军官10余人,士兵近千人,给保安第六、七团以歼灭性的打击。从此,琼崖国民党顽固派再也没有能力向独立总队发起大的攻势。大水战斗,根据地成万群众参战支前,他们冒着生命危险,把饭团、开水源源不断地送上前线阵地。他们挑着椰子、米粽、牛猪肉、鲜鱼、甘蔗、芭蕉、红烟丝等冒着枪林弹雨前来劳军,在围村的堑壕里,在打援的阵地上,到处都有根据地群众组织的挑架队、运输队、救护队和缝洗队,劳军物资堆积如山。这次战斗,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。顽军在斗门、大水战斗的惨败,促使国民党顽固派领导集团之间的矛盾、斗争加剧,吴道南、林荟材、杨永仁、冯熙周、李紫明等被迫去职,调离琼崖,各县的顽固分子对“反共灭独”逐渐失去信心。至此,琼崖国民党反共顽固派掀起的反共逆流被彻底击退。

 张一平・程晓华著『海南抗日战争史稿』(南方出版社・海南出版社、2008年4月)では、「大水戦闘」については、「第三章 海南国共两党的合作与摩擦」に、「1942年1月、独立总队与顽军在琼山大水展开了自内战以来最大的一次战斗、歼敌400余人」と書かれているだけである。

 李芳著『琼崖革命简史』(中国社会科学出版社、2013年8月出版)の第五章は「共御外侮――日军侵琼与琼崖国共合作」(一 琼崖沦陷:日军侵琼及其残暴统治、二 共赴国难:琼崖国共合作抗战局面的形成、三 击退逆流:琼崖国共之间的斗争)であるが、「大水戦闘」についてはまったく述べられていない。

 1984年に制作が始められ1986年9月に出版された瓊崖武装闘争史辧公室編『瓊崖縦隊史』(広東人民出版社)の第二编 抗日战争时期 (一九三七年七月至一九四五年八月)、第七章 坚持团结抗固 打退反共逆流、第二节 打退反共逆流,巩固琼文抗日根据地、四 斗门、大水战斗胜利,国民党反共逆流被打退に、「大水戦闘」は、共産党軍が国民党軍を「猛烈阻击」することによって開始され、国民党軍兵士が数百人、共産党軍兵士も数百人死亡したと書かれている。
 しかし、日本軍が海南島各地で住民虐殺、掠奪をくりかえしていた時期に、共産党軍が大水村で国民党軍攻撃を開始したことによって、双方の兵士が数百人も犠牲になった事実の総括はなされていない。当時、国民党軍も共産党軍も、日本侵略軍と戦いつづけていた。
 以下は、『琼崖纵队史』に掲載されている「斗门、大水战斗胜利,国民党反共逆流被打退」の全文である。 
  琼崖特委和独立总队部在领导根据地军民反击顽固军多次进攻并取得胜利的同时,坚持以民族利益为根本,继续积极地向琼崖国民党当局开展团结抗日的工作,指出:只要国民党当局停止反共内战,转变反共立场,改变反共政策,共产党和独立总队将既往不咎,和国民党团结一致,共负抗日救乡的神圣使命。一九四一年七月,特委和总队部又采取局部谈判的方式,派出代表与李春农商谈。但李春农毫无诚意,提出苛刻要求,要独立总队“悔过自新”, “听候收编”,并杀害了谈判代表联络员卢赤民,终止了谈判。同年十月,琼崖特委又向吴道南、王毅发出了公开信,重申我党团结抗战的主张,提出解决两党争端的意见,要求他们答复,重开谈判,但又遭到拒绝。由于国民党顽固派顽固坚持反共的立场,我党只好针锋相对,对其挑起的反共逆流给予坚决的回击。
  十二月间,琼崖国民党顽固派又从广州湾运回一批军用物资到文昌县锦山乡海边。他们为了尽快得到这批物资,便假意函请我军派人前往谈判。我特委和总队部虽早巳识破其奸,但仍不放弃共同合作抗日的一线希望,于是一方面答应同他们谈判,一方面作好迎战部署,随时准备给敢于进犯之敌以痛击。顽军迫不及待地要打通运输线,谈判尚未进行,便令保七团第二营营长李紫明率所部从驻地青草村向我咸来乡进犯,我一、二支队在咸来地区击溃了顽军。第二支队第二大队长林茂松在一九四二年一月十二日的战斗中牺牲。李春农急于打通运输补给线,又于一九四二年一月十七日晚上,亲自率领第二营及团部特务连、保六团第九连和五百多名民夫,配有无线电台,乘夜行军,经琼山县三江乡,向文昌县锦山乡海边进发,接取其军用物资。我一、二支队获得消息后,于次日下午将顽军包围在斗门村。顽军且战且向文昌方向的路口撤退,李春农骑马逃窜,被我第二支队第七中队机枪手黄可则击毙,为琼崖人民除了一大祸害。
  反共老手李春农被击毙后,顽军在保七团二营营长李紫明带领下窜到锦山,将其补给物资运回。冯白驹命令一、二支队分头伏击顽军于归途。一支队布阵于咸来乡的大水村一带路口,二支队布阵于三江的公举道路。一月二十三日夜间,李紫明带着六个连和民夫约九百余人,果然从锦山经金堆而来,企图偷越我根据地的咸来乡大水村,奔赴潭文。二十四日拂晓,当顽军抵达龙马坡一带时,我一支队给予猛烈阻击,顽军拚命越过冲湖桥,退入大水村固守,与我激战。我二支队从公举回大水村配合一支队将大水村严密包围。经一天的攻击,顽军被压缩在几栋坚固的房屋里,固守待援。我军由于对敌情估计不足,没有攻坚武器和打攻坚战的经验,未能乘顽军立足未稳,迅速攻而歼之,而是采取围困战术迫其投降,以致给敌人造成了喘息的机会。李紫明拍电报求援。二十六、二十七日,敌保七团副团长董伯然率镇所部第一、第三营和琼山、文昌两县反动游击队来援救,被我击退后,又于二十八日调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共约三千余人,再来救援。我打援的部队奋起抗击,经过五天四夜的激战,大量杀伤顽援军。但我军既要打围又要打援,弹药消耗大,难予继续坚持战斗,因而撤退。
  大水战斗,有成万群众参战支前,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。顽军伤亡数百人,我也伤亡数百人,第一支队二大队长蔡文琴在战斗中牺牲。这次战斗,我军虽然未达到全歼顽军之目的,但在斗门战斗击毙了国民党琼崖守备副司令兼保安第七团团长李春农后,又把顽军主力营李紫明等六个连围困了五天四夜,毙伤其数百人,给予了国民党顽固派以沉重打击。为了掩盖其失败的丑相,一九四二年二月七日,敌保六团团长林荟材带领所属部队和游击大队进犯我琼文根据地,大肆屠杀、抢掠。
  琼崖国民党顽固派挑起反共内战的失败,加剧其内部的互相倾轧。第九区行政督察专员吴道南、琼崖守备副司令文乃武、保六团团长林荟材、文昌县县长杨永仁和反动政客冯熙周等一批军政头目,先后被撤职或免职调离琼崖。至此,国民党顽固派掀起的反共逆流被我打退。
  我军经休整和补充兵员、装备之后,第一支队向琼山的旧州、益来等乡开展工作,进驻彰榜村。顽军保七团调集兵力向我进攻,经过一个多小时的激战后,被我击退。我副支队长黄大猷在指挥战斗中英勇牺牲。随后,第一支队和第二支队一起向顽军的老巢潭文、甲子一带地区进军,袭击顽军教导队、后方医院和国民党区、乡公所,毙、伤、俘敌数十人。
  一九四二年春天,第一支队第三大队在大队长陆和、政委张世英率领下,奉命从琼山县东部调往西部,第三大队西进后,从第二区常备队中抽调一部分战士充实了建制,与二区常备队紧密配合,伏击和袭击日军小分队和日伪军据点,打击土匪,同时还配合当地党政组织,在琼山县二区建立除奸队,杀掉一批日本秘密稽查和投靠日本的反动村长,并秘密指派一些共产党员和进步群众打入日伪组织,搜集日伪情报,使琼山县西部地区抗日斗争进一步引向深入,创建了抗日游击根据地。一九四二年四、五月间,日军纠集二百多人从梁沙、十字路、美万铺三个方向向我三大队和二区常备队驻地进攻。我军灵活机动地与敌周旋,寻机歼敌,歼灭了梁沙(现琼山新坡墟)伪维持会和伪军一个小队,缴枪二十多支。此外还击溃顽军向我琼山西地区的进犯,巩固与发展琼山县二区、儒万山一带的抗日根据地,并向澄迈县三区推进,沟通了琼文根据地与澄迈根据地之联系。

 『海南英烈譜』に呉笃修さんは、「海南澄迈县白莲镇孝友村人。中共党员,1939年参加琼崖抗日独立总队,在第四支队第二大队任小队长。l943年在琼山县咸来乡大水村作战牺牲」と記録されており、劉忠财財さんは、「琼东县修智乡(今琼海市长坡镇)良玖村人。1940年参加琼崖抗日游击队独立第一总队。l942年11月在琼山县大水战斗牺牲」と記録されているが、「l943年」は「1942年」の、「1942年11月」は「1942年1月」の誤記だろう。
 陈秋川さんは、「海南省琼山市大致坡镇高林村委会排城村人。中共党员。1927年初参加农民赤卫队,后为琼崖抗日独立纵队第一支队战士。1945年初在琼山县大水村被敌人杀害」と記録されている。「1945年初」は「1942年初」の誤記とも思われるが、断定できないので、陈秋川さんは403人に加えなかった。
 『海南英烈譜』には、
    「洪多充 (1932—1942) 琼东县笃礼乡(今琼海市大路镇)美容村人。1940年参加琼崖抗日游击队独立第一
    总队。1942年1月在琼山县大水战斗牺牲」
と記録されているが、洪多充さんが生まれたのが、1932年というのが事実なら、大水村で戦死したときは、9歳だったことになる。洪多充さんの生年は、誤記ではないか。
 『海南英烈谱』の编者「后记」(2000年12月)には、つぎのように書かれている。
   「《海南英烈谱》一书,是中共海南省委党史研究室为纪念海南解放50周年、中国共产党成立80周年,于
   l999年3月经中共海南省委同意正式决定编写的。
    本书在中共海南省委、海南省人民政府领导同志的关心、支持下,在省委常委、秘书长钟文的直接指导
   下,由省、市县党史研究室(史志办)通力合作,经编委会和撰稿者一年多的共同努力,终于得以与读者见面。
    ………………
    本书所收的英烈原则上为县级以上人民政府或解放军部队正式追认的革命烈士(包括在外省参加革命的
   琼籍烈士及在海南牺牲的非琼籍烈士),时间跨度为l919年五四运动至2000年底。英烈的排列以姓氏笔画
   为序。全书按市县分为l9个分卷,各分卷收录的原则是,哪个市县颁发的烈士证书,收入哪个市县分卷;由
   海南军区颁发烈士证书的,收入海口市分卷。由于年代久远,加上资料方面的原因,书中遗漏、错讹之处在
   所难免,诚请读者和知情者指正,以便将来本书再版时修订」。

 『海南英烈谱』は再版されておらず、誤記は訂正されていない。

 1999年7年に出版された中国共産党琼山市委党史研究室编『琼山革命丰碑』には、「大水戦闘」は、共産党軍(抗日独立総隊)が馮白駒総隊長の指揮下で国民党軍を包囲攻撃して開始され、国民党頑固派が引き起こした「反共逆流」に「有力」な打撃をあたえた、と書かれている。
 しかし、指導部が「大水戦闘」を発動することによって、19歳以下の50人をこす少年兵・少女兵を含む400人以上の共産党軍兵士が犠牲になった事実の総括はなされていない。
  
 1999年7年に出版された中国共産党琼山市委党史研究室编『琼山革命丰碑』には、「大水戦闘」は、共産党軍(抗日独立総隊)が馮白駒総隊長の指揮下で国民党軍を包囲攻撃して開始され、国民党頑固派が引き起こした「反共逆流」に「有力」な打撃をあたえた、と書かれている。
 しかし、指導部が「大水戦闘」を発動することによって、19歳以下の50人をこす少年兵・少女兵を含む400人以上の共産党軍兵士が犠牲になった事実の総括はなされていない。                                       
 以下は、『琼山革命丰碑』の「 二、重大事件篇 三十九 大水战斗――琼崖武装斗争最大规模的战例」の全文である。
  1940年12月,琼崖国民党顽固派置于民族利益于不顾,不抵抗日本侵略军,却掀起一次以进攻我根据地为主要目标的反共逆流,发动进攻我美合根据地。琼崖特委与总队部撤出美合东返琼文抗日根据地,并向国民党当局发出呼吁:从琼崖300万人民的利益出发,停止内战,实现团结,共同抗日。但国民党当局置之不理,并派其军队尾追不舍。琼崖总队迫于无奈曾在琼山的罗蓬坡、斗门等地奋起反击,跟国民党军队连续作战多次。于1942年1月24日至28日,抗日独立总队一、二支队在冯白驹总队长的指挥下,在琼山咸来的大水村将国民党保七团二营营长李紫明带领到沿海一带接军火归来的六个连包围,经一天的攻击,顽军被压缩在几栋坚固的房屋里,固守待援。我军由于对敌估计不足,又没有攻坚武器,未能乘敌立足未稳,迅速攻而歼之,而是采取围攻战术迫其投降,以致给敌人喘息机会。敌被围后急电求援。二十六、二十七日,敌保七团副团长董伯然率领所部第一、第三营和琼山、文昌两县反动游击队来援救,而被我军击退后又于二十八日调集保六团第三营、叶丹青游击总队以及琼东、定安等县的游击大队,共三千余人,再来救援。我打援部队奋起抗击,经过三天四夜的激战,大量杀伤顽军。但我军既要打围又要打援,弹药消耗过大,难于继续坚持战斗,便主动撤离阵地。
  大水战斗,有成万群众参战支前,规模之大,战斗之激烈,战斗时间之长,在琼崖革命斗争史上是空前的。这次战斗,有力地打击了国民党顽固派掀起的反共逆流。
  【相片】大水战斗旧址
  【相片】大水战斗斑痕——子弹孔

 2024年4月10日朝、「大水革命烈士陵園」にも大水村にも、ひとかげはなかった。
 大水村から三江鎮に行き、海口からわたしたちに会いに来た中共海口市委党校の李粒さんと話し合ったあと午後2時40分に咸来に行き3時40分に秀田村を訪ねた。
 2018年10月に秀田村を訪ねた時お元気だった陳貽芳さん(1933年生) は、農歴2021年5月1日(太陽暦6月10日)に亡くなられていた。歩けなくなって2か月ほどベッドで寝ていた、と娘さんが話した。

 秀田村の住民虐殺にもかかわったと思われる兼石績第15警備隊文昌中隊長(大尉)、冨田堯人文昌中隊長、望月為吉文昌中隊小隊長は、海南島で住民を虐殺したとして、広東裁判で死刑判決をうけ、1947年7月26日に銃殺された。最悪の侵略犯罪者ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」とする「日本国憲法」が施行されてから2か月あまり後のことだった(「被抑留者(戦犯容疑者)」〈『海南警残務処理報告綴(別冊)』第二復員局残務処理部資料課、防衛研究所戦史研究センター史料室蔵)。『本邦戦争犯罪人裁判関係雑件』日本外交史料館蔵)。『外地における本邦人の軍事裁判関係』(日本外交史料館蔵)。巣鴨遺書編纂会編『世紀の遺書』1953年12月。今井豊平『嗚呼天哉命哉』海南海軍警察隊戦友会、1978年。岩川隆『孤島の土となるとも―-BC級戦犯裁判』講談社、1995年6月)。
 「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」には、兼石績大尉の「被抑留ノ理由(中国側)」として「民国三十四年〈1945年〉七月文昌県羅豆村秀田村ニテ一百八十余人を惨殺ス(以上中国側理由)」と書かれている。兼石績大尉は処刑されたが、海南警備府第15警備隊司令吉田喜一大佐は、いったんは逮捕され、数日後に釈放され日本に戻った。

 秀田村を離れ舖前に行った。舖前に移住していた陳胎嶠さんに2018年10月に自宅で会ったが、2021年ころ亡くなったとのことだった。
 秀田村を、はじめて訪ねたのは2003年3月27日だった。
 村の入り口の大きな樹の下で、陳貽嶠さん(1925年生)、陳明宏さん(1928年生)、陳貽芳さん(1933年生)から話を聞かせていただいた。3人の方がたにとって、両親や妻、子、兄弟が殺されたのは、昨日のことのようだった。祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽嶠さんは、話をしている間、ずっと泣いていた。
 当時12歳だった陳貽芳さんは、
    「父母、兄、嫂、姉、弟、甥の7人が殺された。わたしと陳貽宏は稲藁を積み上げているところに隠れて
   見ていた。八か月のおいが日本兵にゆりかごから連れ去られて、火の燃えている中へ投げ入れられた。あの
  ころは日本人をすごくうらんだ。家を破壊してだれもいなくしてしまった。わたしは、このようなことをやった
  日本兵を殺せなかったことがくやしかった」
と、話した。陳貽嶠さんは、
    「この事件のことを日本人民に知らせなければならない。日本政府に、賠償をさせなければならない。
   ただただ日本の軍国主義を恨む」
と語った。
 陳貽嶠さんは、秀田村虐殺の52年後、1997年農歴6月22日付けで「文昌市羅豆農場秀田村歴史惨案記実」を書いていました(『海南陳氏譜』第二巻 秀田村分冊、1999年)。  

                            佐藤正人                         
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「関東大震災100年、朝鮮人ら虐殺事件を考える 8月26日、奈良天理で討論会」

2024年05月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
ニュース「奈良の声」 2323年8月23日 浅野善一
■関東大震災100年、朝鮮人ら虐殺事件を考える 8月26日、奈良天理で討論会

【写真】討論会「関東大震災から100年~現代の課題を考える」の案内ちらし

 討論会「関東大震災から100年~現代の課題を考える」(同実行委員会主催)が8月26日午後2時から、奈良県天理市川原城町の市民会館で開かれる。震災の混乱の中、流言飛語によって多くの朝鮮人や中国人が虐殺された事件について、なぜ起きたのかを検証し、現代に投げ掛ける問題を考える。震災直後、当時の奈良県知事が県報で流言に言及するなど、県も無縁ではないという。
 1923年9月1日に起こった関東大震災は首都圏に死者10万人の被害をもたらした。同実行委事務局は虐殺事件について「内務省警保局が『朝鮮人が爆弾を所持、石油で放火するものあり』と公文書で流すなどして流言飛語が広まり、官憲や自警団に加わった民衆が恐怖に駆られ、朝鮮人6000人、中国人800人、社会主義者、労働運動の活動家、朝鮮人に間違われた日本人を殺害した。最近の研究で琉球人の犠牲者の名前も分かってきた」とする。
 国の中央防災会議が2009年3月にまとめた「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」の「1923 関東大震災【第2編】」も、「朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた」と指摘。「朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。犠牲者の正確な数は掴(つか)めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり」などと述べている。
 同実行委事務局によると、奈良県では震災直後の9月18日、当時の成毛基雄知事が奈良県報号外で「今度の震災に当り多くの朝鮮人は能(よ)く同情し又救済等に努力しつゝあるが、極めて少数の鮮人は災難に乗じて悪い事を働いたそうである」などと流言を疑うことなく述べたという。同事務局は、奈良県も事件と無縁ではないとする。
 当日は4人のパネリストによる発表と討論が行われる。パネリストとそれぞれの発表内容は、松田暢裕さん(小説「智異山」翻訳者)「千葉県の虐殺事件、八千代市観音寺のこと」▽崎浜盛喜さん(「琉球人遺骨返還を求める奈良県会議」共同代表)「琉球人虐殺について」▽姜信子(カン・シンジャ)さん(作家)「鎮魂と予祝~百年芸能祭に取り組んで」▽浅川肇さん(ハッキョ支援ネットワーク・なら)「関東大震災の時代状況と現代の課題を考える」。
 このほか、関東大震災100年をテーマにしたテレビニュース番組の放映や、虐殺事件を扱った詩人壷井繁治の詩「十五円五十銭」を基にした渡部八太夫さんの祭文語りがある。
 同実行委事務局は「関東大震災の朝鮮人虐殺の背景には、官憲に植民地支配からの独立運動に立ち上がった朝鮮民族に対する恐怖があったと言われる。100年後の今、ロシアのウクライナ侵略から岸田政権は安保関連3文書を閣議決定し、敵地基地攻撃能力を有した長距離ミサイル配備で、沖縄―南西諸島の前線基地化を図るっている。こうした他民族、国家に向けた敵愾(てきがい)心が増す今、なぜ惨劇が起きたのか、歴史を検証し、現代に投げ掛けられた課題を明らかにするため、参加者と共に議論したい」と話している。
 参加者には資料代として500円のカンパの協力を求める。当日、市民会館の駐車場は利用できない。事務局は天理駅前の駐車場を利用してほしいとしている。
 問い合わせは事務局の川瀬さん、電話090-8234-0077、電子メールkawase2018@yahoo.co.jp


ニュース「奈良の声」 2023年8月8日 浅野善一

 奈良県天理市長、柳本飛行場跡フィールドワークに参加 「強制連行」記述巡る説明板撤去で 再設置求める団体が案内

【写真】柳本飛行場跡のフィールドワークに参加した並河健天理市長(右から2人目)。左は案内役を務めた高野真幸さん=2023年8月8日、同市内

 奈良県天理市の並河健市長は8月8日、太平洋戦争末期に建設された市内の大和海軍航空隊大和基地(通称・柳本飛行場)の跡地を歩くフィールドワークに参加した。市民団体「天理・柳本飛行場跡の説明板撤去について考える会」が案内した。
 飛行場跡の一角には、過去の市長の時代に市などが設置した飛行場の説明板があったが、並河市長は2014年、建設工事に関し朝鮮人の強制連行などの記述があることを問題視して撤去。「考える会」は説明板の再設置を求めて市と交渉を続けている。市長の姿勢は変わっていないが、「考える会」は「一歩前進」と受け止めた。
 同飛行場は本土決戦に備えて建設されたといわれる。同市長柄町や岸田町の付近に、長さ1500メートルの滑走路や関連施設があった。現在は元の水田などに戻っている。
 フィールドワークには、並河市長や市教育長、市教育委員会文化財課の職員、「考える会」の関係者ら約20人が参加した。水田地帯に点在する滑走路のコンクリート舗装の一部や通信に使われたコンクリート製の防空壕(ごう)、海軍施設部跡の建物などを、「考える会」共同代表の一人、高野真幸さんの案内で約2時間かけて巡った。高野さんは強制連行や慰安所についても言及した。並河市長は時折、質問もしながら説明に耳を傾けていた。
 並河市長はフィールドワーク終了後のあいさつで「飛行場の全体像を教わり、平和を次の世代に受け継いでいかないといけないという思いを新たにした。朝鮮半島から来られた皆さんにも本来、故郷で平穏な日常がなければならなかった。われわれ日本人は真摯(しんし)に受け止め反省し、決して繰り返されてはならない」と述べた。
 その上で強制連行などの歴史認識については「いろいろな研究家もおられ、(考える会)の皆さんの成果も勉強させていただきたい。今日のフィールドワークはその一環としてあったと思う」とした。史跡としての保存についても触れ、「壕なども劣化しており、どうしたら残していけるのか予算面も含め検討していかなければならない」と述べた。
 高野さんは取材に対し、「一歩前進と思う。市長には1回だけでなくフィールドワークを続けてほしい。付随する施設はたくさんある」と述べた。
 同飛行場を巡っては、その歴史の解明に取り組むグループが、強制連行された朝鮮人労働者が建設工事に動員されたことや、朝鮮人女性の慰安所があったことを、独自に掘り起こした。説明板は1995年、そうした調査を踏まえて設置された。しかし、2014年、「強制連行」や「慰安所」の記述に対し、外部から批判的な指摘があり、市はこれを機に「強制性については議論があり、説明板を設置しておくと、市の公式見解と誤解される」と判断、撤去した。 
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「韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催」

2024年05月19日 | 朝鮮史
「The Hankyoreh」 2023-12-15 10:08
■韓日市民が手を取り合い、100年越しの『関東犠牲者追悼文化祭』を開催
  京畿文化財団「関東、100年の沈黙」 
  今月9日、城南市の嘉泉大学イェウムホールで  
  平和の木合唱団・埼玉合唱団の合同公演 
 「真実を直視し、誤った歴史を繰り返さないように」 
  埼玉も虐殺の現場 
 「謝罪・反省の意を抱いて公演準備」

【写真】関東大震災から100年を迎え開かれる韓日合同追悼文化祭「関東、100年の沈黙」のポスター=企画会社ANTストーリー提供//ハンギョレ新聞社

 1923年9月1日、東京を含む関東地域で史上最悪の大地震が発生した。日本の歴史では関東大震災は過去最大級の自然災害の一つに過ぎない。しかし、いわゆる自警団の狂気で数千人が犠牲になった在日朝鮮人にとって、関東大震災時の虐殺は恐ろしい大災害として残っている。にもかかわらず、これまで韓日両政府の無視の中で関東大虐殺は忘れられてきた。今年、関東大震災朝鮮人虐殺100年を迎え、初めて「韓日市民合同追悼文化祭」公演が開かれる。
 京畿文化財団(代表ユ・インテク)は今月9日午後7時、京畿道城南市(ソンナムシ)の嘉泉大学イェウムホールで「2023韓日市民の合唱―関東、100年の沈黙」公演を行う。「いまここに鳴り響く韓日の平和と共生のハーモニー」を主題に、ハンギョレ平和の木合唱団と日本の埼玉合唱団、京畿少年少女合唱団、イ・エジュ伝統舞踊会、Mクラシックオーケストラ、そして在日コリアン2世の歌手イ・ジョンミなど、両国の芸術者たちが一緒に舞台を飾る。
 特に平和の木合唱団と埼玉合唱団は、2010年8月の「強制併合100年韓日市民大会」の時にソウルで「第1回韓日市民の合唱」合同公演を行って以来、これまでほぼ毎年両国を行き来しながら文化交流を行ってきた。
 「警官隊の警戒裡 哀の涙 怨の恨/悲しい弔辞と追悼歌で終わる/仁川で震災時惨死同胞追悼会―昨年9月1日の日本の関東地方震災時に惨死した同胞のために、仁川労働総同盟の主催で追悼会が開催された。同追悼会は1日午後8時半から市内の山手町の公会堂で開かれたが、定刻前から制服私服の巡査30人余りが警戒する中、定刻になり主催側である労働総同盟委員長のパク・チャンハン氏の開会で哀悼の辞が読まれた後、しばし黙想した。会衆は立錐の余地もなく1千人余りに達し、場内の空気は悲しき風が吹くように張り詰めた中……」。
 今回の追悼文化祭は、「1924年9月1日当時、京畿道仁川市の公会堂(現在の仁聖女子高校)で関東大震災1周忌追悼会が開かれた」という旧日刊紙の記事をきっかけに企画された。

【写真】1924年9月1日、京畿道仁川市で開かれた関東大震災1周忌追悼会を知らせた「警官隊の警官裡 哀の涙 怨の恨」という見出しの記事=「朝鮮日報」1924年9月3日付//ハンギョレ新聞社
【写真】1924年9月1日「関東大震災1周忌追悼会」が開かれた、日帝強占期の京畿道仁川府山手町の公会堂の全景。現在の仁聖女子高校の多目的ホールの位置。仁川市史に掲載された写真//ハンギョレ新聞社

 すでに知られている通り、1923年、関東一帯でマグニチュード7.9の大地震が起こり、数万人が死亡し、数百万人が家を失いさまよう混乱の中、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こし、日本人を襲撃している」というデマがあっという間に広がり、日本の警察の庇護のもと自警団という市民組織によって朝鮮人大虐殺が行われた。第2の「3・1万歳運動」を警戒した日帝の統制にもかかわらず朝鮮人被害を調査した罹災同胞慰問班が1924年1月に発表した記録によると、少なくとも6661人の朝鮮人が犠牲になった。100年がたつ間、事件の真相と内幕は、さまざまな証拠と研究資料を通じて、日本政府によって捏造された扇動によって行われていたことが明らかになった。しかし、これまで日本政府はその責任を回避しており、一部の極右政治家は虐殺そのものを否定し、歴史歪曲論議を呼んでいる。歴代の韓国政府も公式に真相究明や謝罪を要求したことが一度もないほど「沈黙」を守ってきた。
 今回の追悼文化祭の総監督であり「関東犠牲者のための鎮魂曲」を作った平和の木合唱団の指揮者イ・ヨンジュ氏は「過去の歴史的事件をイメージあるいは音楽で表現することは、完全ではありえません。しかも、他人の記憶と記録に依存して組み合わせる方法では、事件を完全に記述することもできません。しかし、もどかしさを抱いたまま、一曲一曲作業をしなければなりません。今ここに生きている音楽家がしなければならない義務です。たとえ当時の目撃者ではないとしても、残された者として後代に証言を伝えなければならない責務があるのですから」と、「沈黙」を破る意味を明らかにした。
 埼玉合唱団の八反田誠(はったんだまこと)団長は、「犠牲者への追悼の気持ちとともに、関東(大震災虐殺)の真実を直視し、誤った歴史を絶対に繰り返さず、みんなで平和の未来に進むことを願う思いを伝えたい」とし、韓国側からの「初の韓日市民合同追悼文化祭」の提案を快く受け入れた趣旨を明らかにした。

【写真】2010年8月、ソウル成均館大学で平和の木合唱団と埼玉合唱団が「強制併合100年―第1回韓日市民の合唱」合同公演を行っている=ハンギョレ統一文化財団提供//ハンギョレ新聞社

 埼玉合唱団は、日本の埼玉県で1960年から活動してきた純粋な民間文化団体だ。東京都の北に位置する埼玉県は、関東大震災での朝鮮人虐殺の現場の一つでもある。ある団員は「2010年に『強制併合100年』合同公演で日本軍『慰安婦』被害者の方々に慰労と謝罪の気持ちを伝えたように、今回も心の中に韓国の人たちへの謝罪と反省を抱き、公演を準備した」と、個人的な感想を伝えた。
 追悼文化祭の第1部のテーマは「関東の記憶100年」。犠牲者の魂を呼び起こすイ・エジュ韓国伝統舞踊会のノクチョン(死者の魂を表す紙の人形)の舞いを皮切りに、大虐殺の惨状を平和の木合唱団と埼玉合唱団がオラトリオで観客に伝える。第2部は「懺悔と和解」の時空間を、歌手のイ・ジョンミ氏と京畿少年少女合唱団が両国の童謡などを通じて演出する。第3部では埼玉合唱団の単独舞台に続き、出演者全員が「平和と和合の大合唱」でフィナーレを飾る。

(以下のURLより「関東、100年の沈黙」公演の動画を見ることができます:
https://www.youtube.com/watch?v=UIvvHDGSoXc)

キム・ギョンエ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2023-12-05 01:48
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