三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の領土と「周辺」 5

2012年09月23日 | 個人史・地域史・世界史
■(一) 国民国家日本の領土と日本国民
Ⅰ、1850年代~1869年            
 1855年2月、「日魯和親通好条約」【註1】によって、日本政府(徳川幕府)とロシア政府は、北方諸民族が生活し労働してきた「千島列島」を分割してそれぞれの国家の領土とし、「樺太島」を共有地とした。その後、日本政府は「樺太島」を南北に2分割することをロシア政府に提案したが、ロシア政府は拒否し、1867年3月、「日魯間樺太島假規則」【註2】によって、両政府は、「樺太島」が共有地であることを再確認した。
 幕藩制国家体制の崩壊期に、日本政府は、アイヌモシリ領土化策動を開始していた。

【註1】日本外務省編『日本外交年表竝主要文書』上、日本国際連合協会、1969年、文書5~6頁。
【註2】同前、文書31~32頁。

Ⅱ、「明治維新」以後 1
 1869年9月、日本の新政府は、先住民族であるアイヌ民族になんら断りなしに、一方的にアイヌモシリの一部を植民地とし、「北海道」と名付けた。その後、日本(本州、四国など)から大量の和人「移民」がアイヌモシリに侵入した【註1】。アイヌモシリの和人の人口比率は急速に上昇した。アイヌモシリ植民地機関「開拓使」は、1873年ころからアイヌ民族を日本戸籍に「編入」しはじめ、1876年から日本式姓名を強制した。1878年に「開拓使」は、「旧蝦夷人」「古人」「土人」「旧土人」等としていたそれまでのアイヌ民族に対する呼称を「旧土人」に統一するという指令をだした【註2】。
 1872年10月、日本政府は、九州南方の琉球王国を「琉球藩」として日本の領土に組み入れた。その1年半後(「徴兵制」実施の1年4か月後)、1874年5月に、日本政府は、日本陸海軍3千数百人を、台湾に侵入させた(「台湾蕃地処分」)。続いてその翌年9月に、日本政府は、軍艦「雲揚」を、江華島海域に侵入させた。1974年の「台湾蕃地処分」と1975年の「江華島事件」は、連続していた。
 1875年5月7日、日本政府とロシア政府は、「樺太千島交換条約」に調印した。これは、その地で生きている先住民族との条約ではなく、日本が「クナシリ島」からカムチャツカ半島南端沖の「シュムシュ島」までの「千島列島」全域を植民地とし、ロシアが「樺太島」全域を植民地とすることを、相互に承認あう侵略国間の条約であった。
 この北方諸民族の大地と海を分割して、それぞれの領土とする侵略国間の条約に基づいて、「江華島事件」の12日後に、「千島列島」のうちそれまでロシアが領土としていた「ウルップ島」以北18島のロシアから日本への「譲渡式」がおこなわれた。この時から70年後の1945年8月まで、「千島列島」最東の「シュムシュ島」が、日本の最北端かつ最東端の領土となっていた。
 アイヌモシリ各地の地名は、当然ながらアイヌ語であったが、日本人はその地名を日本式に変えていった。「北海道」の東に隣接するキナシリ(「草の島」を意味するアイヌ語)を日本人はクナシリ島と呼び、国後島という漢字をあてはめた。国(日本国)の後にある島という意味であろう。フランス革命が開始された1789年に、キナシリでアイヌ民族は、和人侵略者と闘っていた(「クナシリ・メナシの烽起」)【註3】。
 1876年2月、日本の軍艦隊が海域に侵入している江華島で、朝鮮国と日本国の「修好条規」が締結された。この不平等条約に、日本政府を代表して調印したのは、「開拓使」長官黒田清隆であった。1874年6月に、黒田は、屯田兵(アイヌモシリ駐屯軍)を創立していた。
 1876年10月17日に、日本政府は、小笠原群島を日本領にすることを、アメリカ合州国、イギリス、ロシア、フランス、オランダ等12か国の公使に通告し、1882年までに住民すべてを日本国籍とした【註4】
 1879年4月4日、日本政府は、「琉球藩」を沖縄県とした(「琉球処分」)。それ以後、ウチナーンチュ(「琉球人」)は、「日本人」とされた【註5】。
 それから10年余の間、日本は領土を拡大しなかったが、1891年9月10日に、日本政府は、「勅令」190号で、「硫黄列島」を日本領にすると告示し、1895年1月14日、「日清戦争」の最中に、釣魚島(釣魚台)を日本の領土とすることを、閣議で決定した。
 「日清戦争」に勝利した日本は、清国との「媾和条約」(1895年4月17日調印、5月8日批准書交換)で、台湾・澎湖列島・遼東半島を日本領とした。その半年後の11月29日に、日本政府は、フランス、イギリス、ロシアなどの「干渉」を受けて、遼東半島は清国に返還したが、そのさい「報償金」として庫平銀3000万両を要求した。このころ、日本は、宮古・八重山地域を、曖昧な形で日本領とし、沖縄県に組み入れ、この地域にすむ人びとを日本の「臣民」とした。それまでこの地域は、天皇(制)と無縁の地域であった。この地域西端の与那国島が現在、日本の最西端とされている。1522年に、侵入してきた琉球王国軍にウニトラ(鬼虎)らが敗北するまで、与那国島は、ひとつのくに(国)であった【註6】。
 1895年8月、日本政府は、台湾・フィリピン間中央の緯度線を「日本国及西班牙国版図の境界線」とする条約をスペイン政府と締結した【註7】。
                                       佐藤正人

【註1】金静美「国民国家日本と日本人・移民・」、『差別と共生の社会学』15、岩波書店、1996年、参照。
【註2】「開拓使達」1878年第22号(大蔵省編『開拓使事業報告附録布令類聚』1885年、に収録)。
【註3】根室シンポジウム実行委員会編『三十七本のイナウ  寛政アイヌの蜂起200年』北海道出版企画センター、1990年、参照。
【註4】「小笠原島問題に関する件」、『日本外交文書』第9巻、481~524頁。
    日本政府が、金玉均を小笠原群島の父島に強制追放したのは、小笠原群島領土化10年後の1886年8月であった。2年後の1888年7月に日本政府は金玉均を小笠原群島(父島→母島→父島)から出し、ひき続いて1888年8月から1890年4月まで、アイヌモシリに追放した(琴秉洞『金玉均と日本』緑蔭書房、1991年、229~593頁)。
【註5】大山朝常『沖縄独立宣言――ヤマトは帰るべき・祖国・ではなかった』現代書林、1997年、34頁。
【註6】『成宗実録』巻105に、1447年に与那国島に漂着した済州島漁民の見聞記が掲載されている。
【註7】「西太平洋に於ける領海に関し日西両国宣言書交換の件」、『日本外交文書』第28巻第1冊、292~300頁。
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