■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 1
Ⅰ、海南島植民地化
日本の海南島占領目的は、「南方」(東南アジア、太平洋地域、オセアニア北部)侵略のための軍事拠点確保と資源略奪であった。日本政府・日本軍は、海南島を、台湾や朝鮮と同じ植民地にしようとしていた。そのため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった(14)。
日本軍政機関は、住民に「良民証」をもたせて管理し、日本語や「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
日本政府と日本軍は、侵略の資金をつくるために、「軍票」を乱発しただけでなく、アヘン生産をも試みた。アヘン「収買」にも「軍票」が使われた(15)。1942年5月25日付けで出された「海南海軍特務部事務分掌規定」では、「阿片、塩、煙草及アルコールニ関スルコト」は、特務部経済局の事務とされている(16)。海南島の「阿片事業」には台湾総督府も「協力」した(17)。
日本政府と日本軍による海南島の金融工作・通貨工作は、台湾銀行を中心にして進められた。日本軍の占領翌月、1939年3月に台湾銀行海口支店が開設された。日本政府と日本軍は、強制的に「軍票」を海南島における唯一の通貨としようとした。台湾銀行は、海南島で日本銀行の代理店として「軍票」に関する業務を行なった(18)。
また、日本政府と日本軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に侵入させる策動もすすめた。海南島への最初の日本人「農業移民」は、岡山、香川、山口、和歌山、鹿児島の5県から三亜近郊に送りこまれた(19)。
王子製紙は、国民国家日本の最初の植民地アイヌモシリで、原始林を広範囲に消滅させてきた侵略企業であったが、1943年から海南島にも侵入して森林破壊を行なった(20)。
日本政府と日本軍は、石原産業に田独の鉄鉱石を、日本窒素に石碌の鉄鉱石を大規模に略奪させようとした。そのために、海南島の住民だけでなく、中国南部の広州、汕頭、潮州などや香港の民衆、台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」とした英国軍兵士(当時英国植民地とされていたインドの民衆が多かった)やオーストラリア軍兵士などが強制労働させられ、多くの人びとが命を失わされた。
海南警備府が1942年11月に作製した『石碌鉄山開発状況調査書』に、
「開発開始以来十一月始迄に死亡せる者職員三十一名人夫実に四〇七六名を算するの惨
状を呈し……」
と書かれている(21)。
日本の占領に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。1942年5月に、在海口日本総領事館警察署は、
「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山は労力不足の為島内に於て半ば強
制的に人夫の狩り集めを為し就役せしめつヽありたるが最近人夫の逃出者続出し石碌の如
きは地元人夫四千名中五百名を残し他は殆んど逃亡し田独に於ても五百名の逃亡ありたる
が……共産党側の煽動ありしものと見るを至当とし……」
と報告している(22)。
1943年8月1日付けで海南警備府司令長官小池四郎は「海南島人労務者管理規程」を出した。その第二条では、
「海南島人タル労務者ノ募集(又ハ徴用)ハ各警備担任区域ニ応ジ各警備隊及特別陸戦
隊司令之ヲ行フヲ建前トス」
とされていた(23)。
海南島では、住民を強制労働させるために、日本軍が直接的に動いたのである。
註14 太田弘毅「海南島における海軍の産業開発」、『政治経済史学』199、政治経済史学会、
1982年9月、参照。
註15 江口圭一・及川勝三・丹羽郁也『証言・日中アヘン戦争』岩波書店、1991年。および江
口圭一「日中戦争期海南島のアヘン生産」、『朴永錫教授華甲記念 韓国史学論叢』下、
探求堂、1992年6月(『愛知大学国際問題研究所紀要』97、1992年9月、に再掲)、参照。
註16 「海南海軍特務部事務分掌規定」、『内令』1942年分(日本防衛研究所図書館所蔵)、901
~905頁。
註17 台湾総督府外事部『支那事変大東亜戦争に伴ふ対南方施策状況』1943年1月、260頁。
註18 台湾銀行史編纂室編刊『台湾銀行史』1964年8月、923~944頁。
註19 『共栄圏発展案内書』大日本海外青年会、1943年版、432頁。
註20 成田潔英編『王子製紙南方事業史』王子製紙株式会社、1964年6月、549~584頁。
註21 海南警備府『石碌鉄山開発状況調査書(1942年11月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)、
13頁。
註22 在海口日本総領事館警察署『治安月報』1942年4月分(台湾中央図書館分館蔵)、15~
16頁。
註23 機密海南警備府法令第19号「海南島人労務者管理規程」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
Ⅰ、海南島植民地化
日本の海南島占領目的は、「南方」(東南アジア、太平洋地域、オセアニア北部)侵略のための軍事拠点確保と資源略奪であった。日本政府・日本軍は、海南島を、台湾や朝鮮と同じ植民地にしようとしていた。そのため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった(14)。
日本軍政機関は、住民に「良民証」をもたせて管理し、日本語や「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
日本政府と日本軍は、侵略の資金をつくるために、「軍票」を乱発しただけでなく、アヘン生産をも試みた。アヘン「収買」にも「軍票」が使われた(15)。1942年5月25日付けで出された「海南海軍特務部事務分掌規定」では、「阿片、塩、煙草及アルコールニ関スルコト」は、特務部経済局の事務とされている(16)。海南島の「阿片事業」には台湾総督府も「協力」した(17)。
日本政府と日本軍による海南島の金融工作・通貨工作は、台湾銀行を中心にして進められた。日本軍の占領翌月、1939年3月に台湾銀行海口支店が開設された。日本政府と日本軍は、強制的に「軍票」を海南島における唯一の通貨としようとした。台湾銀行は、海南島で日本銀行の代理店として「軍票」に関する業務を行なった(18)。
また、日本政府と日本軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に侵入させる策動もすすめた。海南島への最初の日本人「農業移民」は、岡山、香川、山口、和歌山、鹿児島の5県から三亜近郊に送りこまれた(19)。
王子製紙は、国民国家日本の最初の植民地アイヌモシリで、原始林を広範囲に消滅させてきた侵略企業であったが、1943年から海南島にも侵入して森林破壊を行なった(20)。
日本政府と日本軍は、石原産業に田独の鉄鉱石を、日本窒素に石碌の鉄鉱石を大規模に略奪させようとした。そのために、海南島の住民だけでなく、中国南部の広州、汕頭、潮州などや香港の民衆、台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」とした英国軍兵士(当時英国植民地とされていたインドの民衆が多かった)やオーストラリア軍兵士などが強制労働させられ、多くの人びとが命を失わされた。
海南警備府が1942年11月に作製した『石碌鉄山開発状況調査書』に、
「開発開始以来十一月始迄に死亡せる者職員三十一名人夫実に四〇七六名を算するの惨
状を呈し……」
と書かれている(21)。
日本の占領に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。1942年5月に、在海口日本総領事館警察署は、
「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山は労力不足の為島内に於て半ば強
制的に人夫の狩り集めを為し就役せしめつヽありたるが最近人夫の逃出者続出し石碌の如
きは地元人夫四千名中五百名を残し他は殆んど逃亡し田独に於ても五百名の逃亡ありたる
が……共産党側の煽動ありしものと見るを至当とし……」
と報告している(22)。
1943年8月1日付けで海南警備府司令長官小池四郎は「海南島人労務者管理規程」を出した。その第二条では、
「海南島人タル労務者ノ募集(又ハ徴用)ハ各警備担任区域ニ応ジ各警備隊及特別陸戦
隊司令之ヲ行フヲ建前トス」
とされていた(23)。
海南島では、住民を強制労働させるために、日本軍が直接的に動いたのである。
註14 太田弘毅「海南島における海軍の産業開発」、『政治経済史学』199、政治経済史学会、
1982年9月、参照。
註15 江口圭一・及川勝三・丹羽郁也『証言・日中アヘン戦争』岩波書店、1991年。および江
口圭一「日中戦争期海南島のアヘン生産」、『朴永錫教授華甲記念 韓国史学論叢』下、
探求堂、1992年6月(『愛知大学国際問題研究所紀要』97、1992年9月、に再掲)、参照。
註16 「海南海軍特務部事務分掌規定」、『内令』1942年分(日本防衛研究所図書館所蔵)、901
~905頁。
註17 台湾総督府外事部『支那事変大東亜戦争に伴ふ対南方施策状況』1943年1月、260頁。
註18 台湾銀行史編纂室編刊『台湾銀行史』1964年8月、923~944頁。
註19 『共栄圏発展案内書』大日本海外青年会、1943年版、432頁。
註20 成田潔英編『王子製紙南方事業史』王子製紙株式会社、1964年6月、549~584頁。
註21 海南警備府『石碌鉄山開発状況調査書(1942年11月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)、
13頁。
註22 在海口日本総領事館警察署『治安月報』1942年4月分(台湾中央図書館分館蔵)、15~
16頁。
註23 機密海南警備府法令第19号「海南島人労務者管理規程」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
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