■李基允氏と裵相度氏を追悼する集い、30回目をむかえて■
■30回目の追悼集会にあたって 嶋田実
熊野の地に石碑となる石を運び込み、お二人の追悼碑を建立し、1994年11月に行なった除幕集会を行ってから30回目の追悼集会が開催されます。 この30年で変わったこと、変わらないことがあるように思います。 人が年を重ねるとともに世代も少しずつ変わる中で、日本の若者を中心に韓流ブームは盛り上がりを続けているが、彼らは過去の歴史的なことはおそらく知らないでしょう。 熊野市に住む韓流好きな若者たちも、木本事件のことは知らないのではないか。
変わっていないことのひとつが熊野市の対応です。 熊野市は、朝鮮人虐殺を「素朴な愛町心の発露」とした『熊野市史』の抜本的な書き換えや見直しに関することを一切行おうとはせずに、この姿勢は全く変わっていません。 『熊野市史』の問題点を引き続き、広く知らしめる取り組みを変わらず行う必要があると思います。
■木本事件から 郭政義
三重県熊野市木本町にある古びたトンネルの出口の片隅に慰霊碑が建てられたのは1990年代であったと覚えている。
今では車もあまり通らない道路の土手に在日朝鮮人と日本人が歴史を掘り起こし協力して建てたものだという。 ムグンファも何気なく咲いている。
単なる碑とは思えない。 当時の貴重な資料や証言をあつめて建てられた、振り返るべき歴史の一里塚のように思える。
地域の住民たちとの些細な諍いから出稼ぎにきていた朝鮮人労働者が「鮮人が襲ってくる」というだけで地域の住民たちが集団で虐殺した事件であった。 遺体も放置されていた。 二度とあってはならない1926年の事件である。 けれどもよく聞く話である。
大阪の第七劇場で「関東大震災 福田村事件」を見た。 加害者の視点から撮られたものだと聞いていたが、住民たちが群衆心理をもって、「四国から行商にきていた日本人」を朝鮮人と思い込み、棒や鳶口で9人を殺した事件である。 だれも止めなかった。 主人公役の行商人、「永山瑛太」は群衆にむかって叫んでいた。 「朝鮮人だったらいいのか」と。
極度な精神状態になればパニックになれば、許されるのか。 それでも相手が朝鮮人であれば、中国人であれば、殺してもかまわなかったのか。 官憲もかかわり6000人もの大量殺人を犯した事件の全貌と責任の所在は明らかにされていない。
混乱を利用して害虫として処理された1923年の事件である。
1926年の木本事件は1923年の関東大震災の朝鮮人、中国人の大虐殺を教訓にされていないことがよくわかる。 徹底した調査と処罰、補償もせず、さらには教訓として歴史として教育の場で、報道を通じ、子どもたちにも住民にもしっかりと伝えていないからである。 隠された歴史、埋もれた歴史であり、忘れ去ろうとしている。
今に始まったことではない。 何度でも形を変えて表出するのであろう。 歴史は繰り返す。 人は繰り返す。
折しも偶然というか、私が見た映画、「福田村事件」についての勉強会に誘われた。
参加者はほとんどが日本人の、ある政党に連なる熟年世代20人程度の集まりであった。 司会者がこの映画の感想を求めていたが反応はよろしくない。 沈黙は「金」の社会である。
私のように誘われて参加した同胞の年配の方が日本の植民地支配とそれにつながる戦中戦後の朝鮮人差別についてひとくさり発言をされた。 それに対して質問があり、戦中の強制徴用に対する未払い賃金は円で支払うのか、帰った後、朝鮮銀行から支払いを受けるのかという質問がなされた。 思わず下を向いてしまった。
次に大阪から来たという事で私に発言を求められた。
防衛費が二倍になっても、それが消費税に跳ね返ってもこの国は騒ぎ一つおこらない社会であるなどとしゃべっていると、すーと発言時間の紙がきた。 まだ5分も経っていない。 しかしながら、この人たちは善良で甘いも酸っぱいも知っている年配で、聞き流すことが得意な方々。 差別や偏見を作り出しているこの社会のありようについて在日が時間を頂いて話をしてもと思い早々に話を閉じた。
次に戦争体験をお持ちの91の御婦人が、司会に促され大阪の空襲の話をし始めた。 また移り住んだ広島での被ばくの話も出された。 まわりからは「大変な体験をされましたね」と話は続く。 たまらず「加害の歴史はないのですか」と言ってしまう。
この人たちの戦争とは被害の歴史であり加害者としての認識はなく、あっても国が適当に収めてくれるものなのだろう。
道端で片足と義足でアコーデオンを弾いていた「忘れられた皇軍」は関係のない事なのであろう。 ましてや幼少より朝鮮人は貧しくてやくざも多い怖い存在としてインプットされ、またややこしい政治には口出しするものではない、知らんふりするのが賢明な生き方と信じている人には何の意味も通じない。
過去の竹やりをもって押し掛けた関東大震災や木本事件の群衆とここに鎮座している市民の集まりとは繋がりはない、と思っている。 群衆にむかって「朝鮮人は、どないなるねん」と叫んだ永山瑛太に答えはかえってこなかったように、この場で答える人はいない。
この国の可笑しさ、集団はあるけれども個はない。 みんながいて自分がないと思ってしまう今日の社会では、歴史は繋がっていない。 私たちは関係ない。 加害は誰かがしょってくれて被害の歴史だけが頭をよぎり横たわっている。
個から始まり、一人では不可能でも、つながれば何かしらできるとは到底心から信じることはできない市民のたまり場かもしれない。
集会も早々と時間厳守でおわり、偶然にも空襲経験をお話しされたご婦人と同席した。 昼食をたべながら地方での戦争体験、防空壕のお話しをされていた。
私は「さぞ大変でしたねー」という言葉はでず、代わりにシオモニが五島列島で防空壕にはいろうとしたとき、「朝鮮人だから出て行け!」と周りの住民から言われ,入れなかったことを話した。
78年後の今も在日が、ガイコクジンがヘイトと管理の対象になっている。
そのような日本社会の枠組みに対し次世代の朝鮮人と日本人が互いの背景と人権を尊ぶことができる教育、社会づくりに努力される事を心より望んでいる。 そのことの指標の一つが市民の共同作業であった木本に佇む慰霊碑ではないかと思う。
■李基允氏と裵相度氏を追悼するつどい、30回目をむかえて 宇惠悟
今年が関東大震災から100年と云う事で、その三年後に起こった木本事件から、70年近く放置されていた犠牲者の無念を追悼碑にあらわした人達には心から敬服しなければなりません。 私は虐殺された人に正面から向き合えない期間がありました。 思うにさえ残酷過ぎる仕業ゆえなのですが。 今年、東京の「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年 犠牲者追悼大会」に参加してそこで配布された実行委員会編「これまでと これからの 各団体の とりくみ そして 今訴えたいこと」と題した冊子の中で「“軍卿・習志野の歴史を訪ねる”―関東大震災時の虐殺現場を歩いて」と云う「カトリック東京教区正義と平和委員会」が書いた記事があり、 大学教授で歴史家の姜徳相さんの「日本軍の朝鮮半島占領とそれに対する朝鮮人独立運動の歴史の流れの中で、この事件を捉えないと真実は見えてこない」と云う文の引用がありました。 日本軍は朝鮮半島で植民地統治に対して蜂起する人たちを圧倒的火器の下に弾圧しました。 そんな現地朝鮮人に対する残虐行為の日本版が関東大震災やその3年後に起こった木本事件等に反映されています。 私も遅ればせながらそんなことがようやくわかって来た感がします。 今年、木本の追悼碑の下を、語り部や語り部らしい人に導かれたグループが通り過ぎるのを3回ほど目にしました。 「トンネル工事の犠牲者」の碑だと言った語り部、只通過していったグループ、普通の挨拶をして過ぎて行った若い案内人に導かれたグループもありました。 木本事件で虐殺された方はお二人でしたが、その家族達も事件の影響でそう遠くない時期に亡くなり、家族の中で一人残された人もいました。 そんなことも後々に理解したことです。 東京は勿論、東京の周辺にもたくさんの虐殺事件があったそうで、関心を払っていきたいと思います。 映画の「福田村事件」も是非見たいと思っています。
■この時代を生きる私たちに今、何が問われているか 米持匡純
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑建立から30年を迎えるにあたり、これまで追悼碑の建立に関わり、また今日まで追悼碑を守り抜いてこられたすべての方々へ、心より敬意を表します。
故郷を奪われ、異国の地でむごたらしい手段で虐殺されたイ・ギユンさんは当時25歳、ぺ・サンドさんは当時29歳でした。 若くして人生を奪われた両名のその無念さを想像すると、筆舌に尽くしがたい思いが募ります。
翻って今年、いわゆる「戦後」の日本社会において、衝撃的な「隠蔽され続けた真実」が明るみに出ました。 日本人であれば誰もが知っている大手芸能事務所の元社長が、「所属タレント」である少年たちに、長年にわたって性暴力を振るい続けてきたというのです。 報道によれば、それは事務所設立以前から元社長が死去するその日まで、実に50年以上にわたって日常的・恒常的に繰り返され、被害者は少なくとも数百人にのぼるといいます。 そして昨年から今年にかけて、日系ブラジル人の両親を持つ1人の青年の告発が海外メディアを動かし、ひいては長年口を閉ざしてきた多くの被害者の被害者の心を動かしました。 そして彼らが立ち上がった時、ついに長年隠されてきた、いや、多くの人が「見て見ぬふり」をしてきた「史上最悪の児童性虐待事件」の真実が、ようやく明らかになったのです。
被害者の中には、性被害を告発した青年のように、差別され、抑圧された少年期を過ごした人々が多数含まれていることでしょう。 過酷な環境を生きる中で、歌手や俳優となることに一縷の望みを託した人たち、あるいは貧困など社会の構造的な問題の中で、自らの意思に反して事務所に所属せざるを得なかった人たち、そういった若者たちの微かな希望に巧みに付け入り、おぞましい性暴力が繰り広げられてきたのです。
また、彼ら「所属タレント」を広告塔として起用してきたメディアをはじめとする芸能関係者の間では、この性暴力の事実を知らぬ者はいませんでした。 にもかかわらず、誰も向き合おうとしないどころか自らの利益を守るために、隠蔽に加担し続けてきたのです。 そして真実が明らかになって、なお目を背けようとする人たち、あるいは告発した被害者に対して誹謗中傷を投げつける人たち、その姿は19世紀末から続く侵略と虐殺、性加害の歴史から目を背け、真実を捻じ曲げてきた日本という国家と、戦後の「日本人」の姿そのものではないでしょうか。
2023年は、1923年関東地震(関東大震災)から100年の節目の年でもあります。 「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「震災に乗じて暴動を起こそうとしている」そんなデマをマスコミが報じ、官憲が先兵となって、数千人もの朝鮮人を虐殺しました。 そして今年、小池百合子東京都知事は朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文を拒絶し、それどころか追悼式典が開かれているまさにその真横で、「朝鮮人虐殺は無かった」と主張する排外主義者集団による「ヘイト集会」の開催を「許可」しました。 そして政府・自民党は今年6月、難民認定を事実上「認めない」と宣言した入管法改悪案を強行成立させ、日本が再び侵略と植民地支配の歴史を今まさに繰り返そうとしています。
この時代を生きる私たちに今、何が問われているのでしょうか。 97年前の1926年、壮絶な虐殺の現場であった木本トンネルの入り口に立つ追悼碑は、イ・ギユンさん、ぺ・サンドさんが差別に耐えながらこの地で歯を食いしばって生き抜いた証として、また、「屈しないこと」「声を上げ続けること」の尊さを伝え続ける道標として、生き続けています。
日本の侵略と植民地支配の歴史と真実を明らかにすること、それは今の日本という国家の姿を明らかにし、それを通じて社会を根底から変革する民衆の新たなうねりを巻き起こす原点です。 私自身も短いながらもこの運動に携わった者として、天皇制と改憲・戦争国家化と対決していくために、会とともに歩んでいきたいと思います。 共に闘いましょう。
■日本の植民地責任を学び、語り継ぐ場として 岩脇彰(三重県歴史教育者協議会)
私は三重県の戦争遺跡を調査し、それを通して小中学生の出前授業や市民の学習会で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えています。 戦争を伝える場は三重県各地にありますが、日帝強占期の事実を伝える場は、私が知る限り県内に四ヶ所しかなく、身近に感じるほど多くはありません。 その中の貴重な二つが、木本トンネルの追悼碑と、紀州鉱山の追悼碑です。 二つの追悼碑を建てられ、これまで維持してこられた会の皆さまに敬意を表します。
1945年8月15日は「戦争が終わった日」であると同時に「日本の植民地支配が破綻した日」です。 ところが、お盆前のマスコミ報道を見ても、戦争について検証する番組はありますが、植民地支配を反省するものはほとんどありません。 これは政府の姿勢が反映していると思います。 日本は国として、不十分ながらも戦争責任については取り組んできた反面、植民地支配についてはその責任を放棄していることが元凶です。 少女像問題や徴用工問題、軍艦島など近代化遺産の捉え方などのギクシャクは、すべて植民地責任を「なかったもの」にしようと強弁していることから生まれています。 都合の悪いことを黙殺する歴史修正主義や歴史的虚無主義は、歴史学的にも倫理的にも破綻しつつあります。 ウソをつけばバチも当たります。
日帝強占期には朝鮮半島に「在朝日本人」がたくさんいました。 多くの日本人や企業が朝鮮で裕福な暮らしを享受できたのは、朝鮮民衆の家や土地・財産を在朝日本人が奪ったからです。 生活基盤を奪われた多くの朝鮮の人たちが日本本土に職を求め、強制労働と言える過酷な環境での労働を強いられました。 現在私たちが使っている電力を生むダムや発電施設、道路や鉄道、トンネルや橋、港などは戦前から使っているものが多く、それらの多くは朝鮮の人たちが作ったものです。 私たちが恩恵を受けているインフラの多くは朝鮮の人たちが作ったことを忘れてはいけないと、子どもたちや市民に伝えています。
23年9月に横須賀市で、第26回戦争遺跡保存全国シンポジウムが開催されました。 その第1分科会「保存運動の現状と課題」の中で、戦争遺跡調査・発信の視点の一つとして朝鮮人強制労働や植民地責任のことをさらに位置づけようという報告が出され、全体討議でも時間をかけて各地の交流や討議がおこなわれました。 会の皆さまが30年も前から意識され取り組まれてきたことが、ようやく日本人の課題として認識されるようになってきたと実感できました。 「植民地責任をどう語り継ぐか」が、これからの大きな課題です。
県内にも強制労働がおこなわれた多くの朝鮮人飯場が作られています。 また石原産業を初めとする6事業所には強制連行された朝鮮人労働者が動員されています。 その場所ごとで事実を掘り起こし、発信する碑や施設を作り、反省・謝罪・交流をしていくことが、植民地責任を考える最も重要なことです。 少女像も日本各地に作るべきだと思っています。
各地域で植民地支配を反省し伝えるものとして、木本トンネルの追悼碑と、紀州鉱山の追悼碑は、その典型です。 また、伊賀市の青山トンネルの追悼碑は、犠牲者16人のうち8人が朝鮮人労働者だったと地元の中学生が碑文から解明し発信したことで、その翌年から追悼集会が始まっていて、若い世代による語り継ぎの好例になっています。 さらに地域から調査や発信が進むように、このような事実を子どもたちや市民に伝えていきます。
今年は関東大震災100年。 つまり、あと2年余りで木本事件も100年の節目を迎えます。 来年は石原産業による紀州鉱山操業から90年です。 今年の追悼集会も、浜松市で開催される歴史教育者協議会の行事と重なって残念ながら参加できませんが、これからも追悼集会に参加しながら意識を高め、植民地支配について学習し、学んだことをいろいろな場で伝えていきたいと思います。
■追悼碑が建設されてから30年 佐藤正人
この30年の歳月のなかで、これまで、松島繁治さん(1994年11月1日)、裵敬洪さん(1995年6月14日)、朴慶植さん(1998年2月13日)、竹本雄大さん(1998年9月7日)、朴東洛さん(1999年1月)、丁榮鈺さん(1999年5月12日)、 裵相度さんの一女裵月淑さん(1915年4月生まれ)が通学していた木本小学校の親友だったⅯさん(2000年はじめころ)、朴仁祚さん(2009年10月9日)、丁炳碩さん(2011年6月8日)、金唱律さん(2011年8月11日)、金蓬洙さん(2014年12月26日)、杉浦哲栄さん(2017年ころ)に死別した。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、追悼碑の碑文に、「李基允氏と裵相度氏が、朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」、「 朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流もうまれていました、裵相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていました。 襲撃をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かったひともいました」と記した。
国民国家の発展、資本主義体制・帝国主義体制の強化の精神は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する精神・思想である。 この精神・思想を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。 国民国家日本においてはこの精神・思想の根幹は、天皇制であった。
現在も天皇制は、廃絶されていない。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の運動は、日本ナショナリズムの強化とのたたかいであり、天皇制を維持しつづける社会・文化・思想とのたたかいである。
補記
㈠三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『紀伊半島・海南島の朝鮮人 木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」』(2002年11月1日発行)の「いちばんの仲よしの明子ちゃんのお父さんが殺された Ⅿさん」(1989年5月 キㇺチョンミ記)をみてください。
㈡『会報』第55号・第10号合併号(2011年2月25日発行)の佐藤正人「丁榮鈺さんと丁炳碩さん」をみてください。
㈢『会報』66号・21号合併号(2021年11月1日発行)の金靜美「杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日」をみてください。
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