紀州鉱山の朝鮮人について石原産業が三重県内務部に提出した報告書があります。
これは、「朝鮮人労務者に関する調査のこと」と題されて、1946年9月26日づけで、三重県内務部長から厚生省勤労局業務課長に提出されました(以下、「紀州鉱山1946年報告書」とする)。この文書は、長い間、公開されませんでした。
1990年5月25日に、韓国政府は、日本政府に対し、日本侵略期に、日本に強制連行された朝鮮人労働者の調査を要請しました。これにしたがって、日本政府は、同年5月28日の閣議で、内閣官房で調査することに決定し、労働省が担当しました。
「紀州鉱山1946年報告書」は、1991年3月に日本外務省が、韓国政府に渡した第二次分名簿にふくまれていたものです。在日本大韓民国民団をつうじて1992年夏に日本ではじめて公開されたのを、紀州鉱山の真実を明らかにする会が入手しました。
この報告書には、738人の朝鮮人の名とその本籍地や「入所経路」・「入所年月日」・「退所年月日」・「退所理由」などが書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされています。
この報告書の内容にはうたがわしい点が多いのですが、それだけでなく、日本政府が出してきたものは、その全文ではありません。報告書本文は、三節にわかれています、日本政府が韓国政府に渡したものには、一節と二節がぬけています。
冒頭部には、「雇入数」は、のべ計875人とされていますが、名簿部分に記載されているのは、738人だけであり、137人の名がありません。
また、「死亡者数」10人と書かれていますが、実際に名簿部分に記載されている人は、「金本仁元」さん(1923年6月12日生。本籍:京畿道長湍郡郡内面芳木里)、南而福さん(1911年4月12日生。本籍:京畿道長湍郡津西面金陵里)、「金山鍾云」さん(1921年4月6日生。本籍:江原道麟蹄郡麒麟面北里)、「海山應龍」さん(1920年2月13日生。江原道平昌郡平昌面烏屯里)、「玉川光相」さん(1923年4月15日生。江原道旌善郡旌善面住水里)5人です。ここでは、南而福さんだけしか本名がわかりません。
「金本仁元」さんと南而福さんは、同じ日(1942年2月28日)に、同じ京畿道長湍郡郡内面から、「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行されていました。そして、「運転工」として働かされていた「金本仁元」さんは、1945年6月1日に「公傷死」し、「鑿岩夫」として働かされていた南而福さんは、1945年5月3日に「病死」したと書かれています。
1944年11月9日に江原道麟蹄郡麒麟面北里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「金山鍾云」さんは、「病死」したと書かれていますが、死亡年月日は記載されていません。
1945年1月21日に江原道平昌郡平昌面烏屯里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「海山應竜」さんは、強制連行されてからわずか1か月後の1945年2月20日に「病死」したと書かれています。
1943年12月1日に江原道旌善郡旌善面住水里から「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行され、「選鉱夫」として働かされていた「玉川光相」さんは、1944年3月7日に「業務死亡」したと書かれています。
「紀州鉱山1946年報告書」では、名前が記載されている738人のうち、「死亡」と書かれている人は5人ですが、実際に死亡したのは、5人だけではありませんでした。
わたしたちは、紀州鉱山に強制連行されていた人たちから話を聞かせてもらおうとして、1996年10月から、韓国江原道、慶尚北道などに行きはじめました。
その際に、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」を持って、そこに書かれてある本籍地の郡庁や邑事務所や面事務所を訪ね、戸籍簿を照合してもらい、紀州鉱山に強制連行された人たちと連絡をとろうとしました。
1998年8月、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」に、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされ1944年8月2日に「逃亡」したと書かれている千炳台さん(1917年12月6日生)の本籍である慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所を訪ねました。
千炳台さんに会いたいので、どこに住んでいるか探してほしいと言うと、面事務所では千炳台さんの戸籍簿を探し出して見せてくれました。
そこには、「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と日本語で書かれていました。
石原産業紀州鉱山の「紀州鉱山1946年報告書」には、千炳台さんの欄に「逃亡」と書かれていたので、わたしたちは、千炳台さんは故郷に戻っているだろうと考えていました。
日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる三重県紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などに行って、千炳台さんなど当時紀州鉱山で亡くなった朝鮮人にかんする文書(戸籍簿、埋火葬許可書など)の閲覧を請求しました。
佐藤正人
これは、「朝鮮人労務者に関する調査のこと」と題されて、1946年9月26日づけで、三重県内務部長から厚生省勤労局業務課長に提出されました(以下、「紀州鉱山1946年報告書」とする)。この文書は、長い間、公開されませんでした。
1990年5月25日に、韓国政府は、日本政府に対し、日本侵略期に、日本に強制連行された朝鮮人労働者の調査を要請しました。これにしたがって、日本政府は、同年5月28日の閣議で、内閣官房で調査することに決定し、労働省が担当しました。
「紀州鉱山1946年報告書」は、1991年3月に日本外務省が、韓国政府に渡した第二次分名簿にふくまれていたものです。在日本大韓民国民団をつうじて1992年夏に日本ではじめて公開されたのを、紀州鉱山の真実を明らかにする会が入手しました。
この報告書には、738人の朝鮮人の名とその本籍地や「入所経路」・「入所年月日」・「退所年月日」・「退所理由」などが書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」とされています。
この報告書の内容にはうたがわしい点が多いのですが、それだけでなく、日本政府が出してきたものは、その全文ではありません。報告書本文は、三節にわかれています、日本政府が韓国政府に渡したものには、一節と二節がぬけています。
冒頭部には、「雇入数」は、のべ計875人とされていますが、名簿部分に記載されているのは、738人だけであり、137人の名がありません。
また、「死亡者数」10人と書かれていますが、実際に名簿部分に記載されている人は、「金本仁元」さん(1923年6月12日生。本籍:京畿道長湍郡郡内面芳木里)、南而福さん(1911年4月12日生。本籍:京畿道長湍郡津西面金陵里)、「金山鍾云」さん(1921年4月6日生。本籍:江原道麟蹄郡麒麟面北里)、「海山應龍」さん(1920年2月13日生。江原道平昌郡平昌面烏屯里)、「玉川光相」さん(1923年4月15日生。江原道旌善郡旌善面住水里)5人です。ここでは、南而福さんだけしか本名がわかりません。
「金本仁元」さんと南而福さんは、同じ日(1942年2月28日)に、同じ京畿道長湍郡郡内面から、「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行されていました。そして、「運転工」として働かされていた「金本仁元」さんは、1945年6月1日に「公傷死」し、「鑿岩夫」として働かされていた南而福さんは、1945年5月3日に「病死」したと書かれています。
1944年11月9日に江原道麟蹄郡麒麟面北里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「金山鍾云」さんは、「病死」したと書かれていますが、死亡年月日は記載されていません。
1945年1月21日に江原道平昌郡平昌面烏屯里から「徴用」という形式で紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされていた「海山應竜」さんは、強制連行されてからわずか1か月後の1945年2月20日に「病死」したと書かれています。
1943年12月1日に江原道旌善郡旌善面住水里から「官斡旋」という形式で紀州鉱山に強制連行され、「選鉱夫」として働かされていた「玉川光相」さんは、1944年3月7日に「業務死亡」したと書かれています。
「紀州鉱山1946年報告書」では、名前が記載されている738人のうち、「死亡」と書かれている人は5人ですが、実際に死亡したのは、5人だけではありませんでした。
わたしたちは、紀州鉱山に強制連行されていた人たちから話を聞かせてもらおうとして、1996年10月から、韓国江原道、慶尚北道などに行きはじめました。
その際に、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」を持って、そこに書かれてある本籍地の郡庁や邑事務所や面事務所を訪ね、戸籍簿を照合してもらい、紀州鉱山に強制連行された人たちと連絡をとろうとしました。
1998年8月、わたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」に、1944年5月7日に紀州鉱山に強制連行され「運搬夫」として働かされ1944年8月2日に「逃亡」したと書かれている千炳台さん(1917年12月6日生)の本籍である慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所を訪ねました。
千炳台さんに会いたいので、どこに住んでいるか探してほしいと言うと、面事務所では千炳台さんの戸籍簿を探し出して見せてくれました。
そこには、「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と日本語で書かれていました。
石原産業紀州鉱山の「紀州鉱山1946年報告書」には、千炳台さんの欄に「逃亡」と書かれていたので、わたしたちは、千炳台さんは故郷に戻っているだろうと考えていました。
日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる三重県紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などに行って、千炳台さんなど当時紀州鉱山で亡くなった朝鮮人にかんする文書(戸籍簿、埋火葬許可書など)の閲覧を請求しました。
佐藤正人
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