お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

中期日本三国志 (北畠顕家)4

2007年11月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
新田勢を破って京へと進軍した「足利尊氏」勢。
若き大将顕家さまは奥羽の兵を率いてそれを追い、楠木・新田らと協力して尊氏を九州へと追い落とすのでした。
さすがです!
どっかの誰か(N田義貞くん)とは大違いですね(笑)

建武三年(1336)
九州まで逃げた「足利尊氏」は「少弐頼尚(しょうに・よりひさ)」に迎えられます。
兵数にて不利であった「多々良浜合戦」にて菊池氏の軍勢を破ると、なんと二ヶ月もしないうちに九州をまとめあげるのでした。
ちなみに、「楠木正成」はこの頃、九州へ追い落とした「足利尊氏」と同盟を結ぶよう献策しています。
当然ながら不採用となるんですが、敗れてなお武士たちの声望が尊氏に向いていることをよく知っていたのです。
(※ちなみに、新田を切り捨てろ、とまで言っていたらしい)

さて、九州の諸勢力を併合した「足利尊氏」は二十万とも言われる大軍で京へと進軍。
不利を悟った「楠木正成」は持久戦を献策しますが、またしてもその策は退けられてしまうのです。
こうして出撃した「楠木正成」は湊川にて討死。
さらに、退却した「新田義貞」を追って、足利勢はついに京へと上洛を果たすのでした。

なお、京を脱出した「後醍醐天皇」らは比叡山延暦寺へ逃げ込み、こちらで激しく抵抗していました。
「足利尊氏」はその顔を立てる意味を含めて和議を申し入れ、こうして持明院統の「光明天皇」が即位。
(※なお「光明天皇」は「光厳上皇」の弟です)

足利との和睦を進め下山をしようとした「後醍醐天皇」ですが、これに怒った「新田義貞」が激しく抵抗。
皇位を「恒良親王」へと譲位し、「新田義貞」と共に北陸道へ。
その後に京を脱出した「後醍醐天皇」は自らが正統であると主張し、吉野に新朝廷を開きました。

①吉野「後醍醐天皇」の南朝。
②京都「足利尊氏」擁する「光明天皇」が北朝。 
③さらに「新田義貞」擁する「恒良親王」が…言ってみれば北陸朝。
…当時の日本は、そんな感じで三分割されていたのです。

⇒ つづく。
  次回は「最後の出撃・石津合戦」

[関連記事]  【 室町・武士の棟梁、源氏リンク 】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】



最新の画像もっと見る

コメントを投稿