お寺さんぽ Ver.03

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島津家の名将・義久と忠棟くん 「伊集院忠棟」3

2008年05月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さまについてお送りいたします。

九州統一を目前としていた島津勢。
筆頭家老「伊集院忠棟」もその陣中にあって、抵抗を続ける大友勢の諸城を攻略しておりました。
しかし、その胸中は複雑なものでした。
東海の「徳川家康」をおさえ、四国をも制圧した「豊臣秀吉」率いる大軍勢が間近まで迫っていたのです。

さて、前回書いたように、忠棟は政務・合戦の両面で活躍する名将でした。
さらに文芸の嗜みも深く、歌道にまで通じていたという、まさに文武両道な方だったのです。
その関係から文化人武将「細川藤孝」との親交があり、ほぼ日本の最南端というような土地にありながら、非常に見識の豊かな人物だったのです。

そのため、豊臣勢を軽んじる家中には、相当に困惑しただろうと想像されます。
状況判断に優れる三男「島津歳久」は主戦論に傾く家中にて、ほぼ唯一反対を唱えたと伝えられております。

詳細までは不明ですが、筆頭家老たる立場もある忠棟が主戦派であったとは到底考えられません。
歳久の提案には深く賛同した、というか…あるいは、藤孝とのパイプなどを考慮すると、もともとの発案者は彼であったかもしれませんね。
東北・伊達家では、同様の状況から軍師「片倉景綱」が「伊達政宗」を説得して危機を乗り越えておりますが、こちらでは当主「島津義久」を口説ききれなかったようです。
さすがに、政宗らのような固い主従関係ではなかったようなんですねー。

天正十五年(1587) 「九州討伐」開始。

大友勢の救援に駆けつけた、長宗我部氏など四国勢を中心とした先発隊を初戦「戸次川合戦」に破り、さらに勢いづく島津勢。
しかし、秀吉の弟「豊臣秀長」率いる十万ともいわれる本軍が到着すると、しっかり統率された大軍勢の前で次第に不利な戦況となっていくのです。

なお、当主・家中を説得できなかった忠棟ですが、九州出兵の始まる以前から、密かに和睦交渉を進めていたと伝えられております。
関ヶ原合戦にて、毛利家は「吉川広家」が独断で根回ししていたのと同様ではないか、と想像します。
忠棟も筆頭家老として、万が一の事態に備えたのでしょう。
それが当主・義久の命であったのか、独断であったのか不明ですが、こうした家中とは逆の独自な行動をおこすというのは、たとえそれが島津宗家を救うための策であったとしても、なかなか理解されないものです。
先の「吉川広家」がその活躍とは裏腹に家中で孤立してしまったように、彼も苦しい立場になっていくこととなるのです。

九州入りした豊臣勢に対し、国人領主らはこぞって島津を見限って、豊臣家へ帰順を申し出ております。
圧倒的な兵力差と情勢の変化により、戦線の縮小を余儀なくされた島津勢。
支城は次々に落とされ、また寝返った領主から追撃を受けるなど、撤退すら困難であったのです。
どうにか体制を整えた島津勢は日向「根白坂合戦」にて奮戦するものの、豊臣勢によって総崩れにさせられてしまうのでした。

そんな中、豊臣家とのパイプを持つ忠棟は、いまだ徹底抗戦を主張する当主「島津義久」、次男「島津義弘(写真)」に降伏を説き、自らは剃髪して弟「羽柴秀長」の陣へ人質として赴いたのでした。

さすがに当主義久もこの時に至っては判断良く、合わせて秀吉に降伏。
結局、薩摩・大隅という二国を安堵されたのでした。
この、自らを人質同然に差し出した働きにより、島津氏は完全に討伐されることを免れたのです。

⇒ つづく
  次回は「時代の寵児・秀吉と忠棟くん」(4/4)

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