お寺さんぽ Ver.03

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四条畷にて玉砕した英雄 (楠木正行)3

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も南北朝時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」、その子「楠木正行(くすのき・まさつら)」をお送りいたします。

正平三年(1348) [四条畷合戦]
四条畷へ出撃した「楠木正行」は過去に「高師直」の軍勢を破ったことがある南朝「四条隆資」と合流。
総勢はなんと二万あまりとなりました。
一方の北朝方は尊氏の腹心「高師直」以下六万という大軍。
こちらは、四条畷・飯盛山山麓一帯にずらりと陣を敷きました。

そんな敵軍で溢れる地へ、南朝勢は進出。
戦は早朝から開始されるのでした。

「四条隆資」率いる四条勢は飯盛山へ向かって陽動作戦をとり、「楠木正行」の楠木勢は真っ直ぐに突撃して「高師直」の本陣へと迫ります。
その勢いは凄まじく、行く手を阻んだ「県下野守」、「武田伊豆守」ら諸隊が次々と蹴散らされてしまうのです。

しかし、一連の激戦にてにわかに疲弊してくると、その機会を狙っていた「長崎資宗」、「佐々木道誉」らの軍勢が楠木隊を包囲するべく後方から突撃を開始。
兵力に勝る北朝方に囲まれてしまった楠木勢はここで大半が討たれてしまうのです。
しかし、これでもひるまずに応戦していた「正行」以下先陣三百ほどの部隊は敵中に孤立していながらも突撃を止めず、一時は大将「高師直」本陣が崩される、ぎりぎりのところまで追い詰めるのでした。
なお、この際には「師直」の鎧を着た「上山六郎左衛門」がその身代わりとなって討死しております。
ほぼ壊滅しかかった状況でありながら、まさに”あと一歩”というぎりぎりまで迫っていたのです。
…惜しかった。
あと一歩だったのに…。

早朝から果敢に攻め続けた楠木勢、「楠木正行」でしたが、夕刻頃になると矢に射倒され、遂に力尽きてしまうのでした。
わずか三十騎にまで減っていた楠木勢。
これまでと考えた「楠木正行」は弟「正時(次男)」と刺し違えて死亡。
残った兵らもことごとく自刃。

こうした楠木勢の玉砕により、別働隊であった「四条隆資」以下軍勢も支えきれずに崩されて壊滅。
余談ですが、この「四条隆資」は後に「後村上天皇」を脱出させるため殿軍を務め、奮戦の末に討死しています。

こうして「四條畷合戦」では、高師直・師泰兄弟率いる軍勢に敗北。
北朝方の勝利となるのでした。

この時、父との「桜井の別れ」から十年以上が経過していました。
「楠木正行」、享年二十二~五歳。

返らじとかねて思へば梓弓(あづさゆみ)
             なき数に入る名をぞとどむる



…とかなんとかお送りしてきましたが、これは軍記「太平記」による描写が大半でして、実際のところは結構不明らしいのですよ。
なお、古戦場付近の四条畷神社ではこの忠義に殉じた英雄「楠木正行」を祀っております。
「大楠公」と称された父「正成」に対し、小楠公(しょうなんこう)と称されております。

おまけ。
「楠木正成」には嫡男「正行」、次男「正時」のほか、三男「楠木正儀(くすのき・まさのり)」という男児がおりました。
この「正儀」は兄の戦死後、楠木氏の頭領となって南朝の軍事部隊の中心的存在になっております。
一時的に京都を占領するなど、父・兄に変わらぬ武勇を発揮していますが、三代将軍「足利義満」に降伏。
後に再び南朝へ復帰するなど、一貫性に欠けるがっかりな行動を取っております。


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※最近ブログ書くことで、このあたりのややこしい話がなんとなく分かってきました。
 そろそろ、こうした本読むのも苦ではなさそうですよ。


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