お寺さんぽ Ver.03

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本地垂迹のややこしい話 (仏教・神道)

2007年12月23日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…なんとなく知っていてもあまりよく知らない(かもしれない)、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」について。
前回は触り程度だったんですが、今回はまたややこしいお話。

あらかじめ断わっているあたりが自信のなさの象徴。
うふふ…。

もともとは「聖武天皇」による東大寺の大仏造立あたりからのことであるようです。
大陸から伝わったの高度な外来文化であった「仏教」
朝廷はそんな垂迹神に国政を護らせることとするのでした。
仏教を広めるため、神仏習合思想を利用して土着信仰との融和を図ったのです。

それが実を結ぶのは平安時代中期頃から。
神も衆生と同じように煩悩の苦しみがあり、仏の力によって脱却できるという教えが一般化していくのでした。
仏になるための修行中の姿が神である、とされたのです。

仏の悟りに達した境地を「果位(かい)」といい、それに達するまでの過程を「因位(いんい)」といいます。
日本古来の神をこの因位に位置づける思想がため、寺院の中にて仏の仮の姿である神(権現)を祀る神社、すなわち「神宮寺」が多く建てられることとなるのでした。

八幡神が「八幡大菩薩」とされているのも、神仏習合の結果として”大菩薩の号”があたえられた結果なのです。

特に山岳信仰が盛んになると、山の神などの土着信仰と仏・菩薩などの接触が促進され、習合・同体となりました。
当時の流行で多く存在したという、修験道の行者たちがこうした信仰を広めるにまた一役買ったのです。

こうした流れで、多くの神社では祭神の本地仏を特定するようになっていくのです。
八幡宮の阿弥陀、伊勢神宮の大日ほか、平野、春日、日吉、北野、熊野…などなど主要神社で本地仏や菩薩を定めることとなり、それが支持されるようになると”仏法は垂迹の神々なくしてはありえない”という考えにまで至ったようなのでした。

鎌倉時代。
伊勢「度会氏(わたらいし)」による「神道説」はそのもので、「垂迹の神々こそが本体である」という、いわば逆転現象がおこるのです。
こうした反本地垂迹説という動きは室町時代から江戸時代まで続き、広く庶民の間に受け入れられることとなるのでした。

しかし、儒教との習合や神道の復古、明治時代の分離政策などで急速にその勢力は衰え、本地垂迹の神道は俗信として排斥。
数多くあった神宮寺も次々に消滅するなどして、その数を大いに減らしていくのでした。

まぁ、だいたいそんな感じだったらしいのよ。


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