お寺さんぽ Ver.03

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四条畷へ出陣する英雄 (楠木正行)2

2007年12月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も南北朝時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」、その子「楠木正行(くすのき・まさつら)」をお送りいたします。

突如歴史の表舞台に現れた正体不明な「楠木正成」、および楠木家。
見事、政権を牛耳っていた北条家を打倒して「後醍醐天皇」の望みを叶えますが、その時代錯誤な政治にあきれた武士たちは「足利尊氏」の下へ集結。
ついに朝廷と敵対することとなるのです。
一時は九州まで落とされた「尊氏」ですが、不屈の闘志で再起すると再び京都を目指すのでした。
その鎮圧に出撃する「楠木正成」は自らの死を覚悟し、嫡男「楠木正行」を桜井駅にて本拠河内へと帰すのです。

「桜井の別れ」での嫡男「楠木正行」はもう分別がつく十一歳頃。
父「正成」はその際、いざという時の策を授けたとかなんとかいう話もあります。
…そういえば、「真田昌幸」も共に従っていた次男「幸村」に”徳川と事を構えた際の策を授けた”という話がありますが、こんなんはお互い戦術論を交わす程度だったものが、後にそう伝えられたと思います。たぶん。
わかんないけど。
まぁ、そうした方がドラマチックですからねー。


さて、父「正成」の戦死後、「正行」が楠木氏の頭領となりました。

正平二年[貞和三年](1347)
ついに「楠木正行」は遺言通りに挙兵。
父譲りの武勇を遺憾なく発揮した「正行」は河内八尾城、河内藤井寺の合戦。
続く摂津住吉、摂津天王寺など各地の戦にて北朝・幕府軍をことごとく撃破。
特に摂津天王寺の合戦では救援に赴いた「山名時氏」の軍勢を大いに破りました。

その際、淀川に追い落とされ、溺死した者が多数おりました。
ここで「正行」は味方の兵に命じ、溺れかけた敵兵を次々と助け上げ、敵陣へ送り返しているのです。
こうして一命をとりとめた兵たちは「正行」の恩に報いるため、後に五百名ほどが楠木陣へと馳せ参じ、四條畷の激戦にてことごとく討死しているのでした。

英雄である父「楠木正成」に隠れてあまり語られることが多くない「楠木正行」ですが、こうした人間的な魅力も持った、間違いなく「英雄」だったのです。

活躍する「正行」率いる軍勢が勝利と共に膨れ上がると、侮りがたいと知った幕府側「足利尊氏」は信頼厚い「高師直」・「高師泰」兄弟に出撃を命じるのでした。

その動きを察知した「正行」は弟「楠木正時」ほか一族と吉野「後村上天皇」に伺候。
ここで別れを告げると、それぞれの髪を奉納・壁に全員の名と辞世を刻んでおります。(※写真)
これからの運命を予想していたのかもしれませんね。

正平三年(1348) [四条畷合戦]
軍勢三千あまりを率いた「正行」は四条畷へと出撃。
友軍である南朝方の中心人物、中納言「四条隆資(しじょう・たかすけ)」以下二万あまりと合流しました。

この「四条隆資」という人は公家でありながら武士をよく理解して公平に接していたという南朝では稀な方で、過去には「高師直」の軍勢を破ったことがありました。
当時のベストメンバーで臨んだのです。

⇒ つづく。
  次回は「四条畷にて玉砕した英雄」

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