
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。
村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
日本に三つの朝廷が乱立する混乱の中、再び時代は顕家さまの力を必要としていました。
これが最後の出撃となるのです。
三つの朝廷が乱立するという情勢の中、我らが「北畠顕家」さまは蜂起した足利方を掃討するため、再び奥州へ戻っていました。
なお、権中納言となっております。
延元二年(1337)
過去に「足利尊氏」を西へ追い落とした南朝の頼みの綱、「北畠顕家」は霊山城(りょうぜんじょう:福島県)にて奥羽の足利方と戦っておりました。
「期待できる者はもはや顕家しかおらぬ」
そんな「後醍醐天皇」の命により、再び上洛の兵を起こすこととなるのです。
京都奪還は顕家に託されました。
延元三年(1338)
再び西上した「北畠顕家」は足利方と戦い、「後村上天皇」を奉じて鎌倉を攻略。
続く美濃「青野原合戦」では「高師冬(こうのもろふゆ)」、「土岐頼遠」らの連合軍に勝利しました。
しかし、兵力の減少により、京攻略を諦めて伊勢へ後退。
伊勢・伊賀を経て、顕家は奈良へと入りました。
なにしろ奥州から従軍・転戦を繰り返してきたのです。
いかに精鋭部隊とは言え、怪我や疲労が重なって、疲労困憊としていたのでしょう。
奈良の「般若坂合戦」ではついに足利方に敗北してしまうのです。
しかし、三月から五月にかけては再起し、摂津、和泉などに転戦しました。
これに対して、遂に北朝方は「高師直」を総大将とした軍勢を堺まで進出させます。
それを防がんとする「北畠顕家」との間で起こったのが、和泉の「石津合戦」でした。
顕家率いる奥羽精鋭の働きは凄まじく、緒戦は優勢であったものの消耗が激しく、戦闘が長引くにつれて苦戦を強いられました。
やむなく顕家は二十騎ばかりで突破を試みたものの、ここで力尽き、討死。
顕家わずか二十一歳のことでした。
この彼の死は吉野・南朝方にとって衝撃であり、大きな痛手となりました。
さらにその三ヵ月後には「新田義貞」討死の悲報がもたらされ、南朝方は日に日に衰退していくこととなるのです。

【 武士メーター★北畠顕家 】
家柄: ■■■■■ 超名門・村上源氏です。最強・最高です。
実力: ■■■■□ 若いながら、軍を率いての戦闘はなかなかのものです。
地理: ■□□□□ 遠くて雪国ですからねぇ。
[関連記事] 【 室町・武士の棟梁、源氏リンク 】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※そんなこんなで「北畠顕家」さまです。
確かに、楠木くんと並んで強敵だったでしょう。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。
村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
日本に三つの朝廷が乱立する混乱の中、再び時代は顕家さまの力を必要としていました。
これが最後の出撃となるのです。
三つの朝廷が乱立するという情勢の中、我らが「北畠顕家」さまは蜂起した足利方を掃討するため、再び奥州へ戻っていました。
なお、権中納言となっております。
延元二年(1337)
過去に「足利尊氏」を西へ追い落とした南朝の頼みの綱、「北畠顕家」は霊山城(りょうぜんじょう:福島県)にて奥羽の足利方と戦っておりました。
「期待できる者はもはや顕家しかおらぬ」
そんな「後醍醐天皇」の命により、再び上洛の兵を起こすこととなるのです。
京都奪還は顕家に託されました。
延元三年(1338)
再び西上した「北畠顕家」は足利方と戦い、「後村上天皇」を奉じて鎌倉を攻略。
続く美濃「青野原合戦」では「高師冬(こうのもろふゆ)」、「土岐頼遠」らの連合軍に勝利しました。
しかし、兵力の減少により、京攻略を諦めて伊勢へ後退。
伊勢・伊賀を経て、顕家は奈良へと入りました。
なにしろ奥州から従軍・転戦を繰り返してきたのです。
いかに精鋭部隊とは言え、怪我や疲労が重なって、疲労困憊としていたのでしょう。
奈良の「般若坂合戦」ではついに足利方に敗北してしまうのです。
しかし、三月から五月にかけては再起し、摂津、和泉などに転戦しました。
これに対して、遂に北朝方は「高師直」を総大将とした軍勢を堺まで進出させます。
それを防がんとする「北畠顕家」との間で起こったのが、和泉の「石津合戦」でした。
顕家率いる奥羽精鋭の働きは凄まじく、緒戦は優勢であったものの消耗が激しく、戦闘が長引くにつれて苦戦を強いられました。
やむなく顕家は二十騎ばかりで突破を試みたものの、ここで力尽き、討死。
顕家わずか二十一歳のことでした。
この彼の死は吉野・南朝方にとって衝撃であり、大きな痛手となりました。
さらにその三ヵ月後には「新田義貞」討死の悲報がもたらされ、南朝方は日に日に衰退していくこととなるのです。

【 武士メーター★北畠顕家 】
家柄: ■■■■■ 超名門・村上源氏です。最強・最高です。
実力: ■■■■□ 若いながら、軍を率いての戦闘はなかなかのものです。
地理: ■□□□□ 遠くて雪国ですからねぇ。
[関連記事] 【 室町・武士の棟梁、源氏リンク 】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
![]() | 北畠顕家―足利尊氏が最も恐れた人物桑原 敏真文芸社このアイテムの詳細を見る |
※そんなこんなで「北畠顕家」さまです。
確かに、楠木くんと並んで強敵だったでしょう。











