のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代の英雄って言えば、若き将軍「北畠顕家」さまもいいんですが、やっぱり皆さまご存知「楠木正成(くすのき・まさしげ)」でしょう。
…どうですか、違いますか?
突如歴史の表舞台に現れ、颯爽と活躍した正体不明な「楠木正成」、および楠木家。
なんだかかっこいーですよね。
この人がまた忠義を曲げることなく、志半ばで死んでしまうところが悲劇的で、この現代でもなお多くの人の心を掴んでいるのでしょう。
本日はそんな「楠木正成」さま…ではなく、ちょっと一般には知られていない嫡男「楠木正行(くすのき・まさつら)」さまについて、です。
そんなこんなで楠木家。
まず苗字ですが、一般には「楠木」となっていますが、正しくは一字で「楠」が本当であるようです。
古代の名門「橘氏」、右大臣「橘諸兄(たちばな・もろえ)」の末裔と自称しておりますが、実際のところ不明。
「橘氏」は公卿になれる氏族(※「源平藤橘」の四つ)でして、おそらくは「後醍醐天皇」の新政府参加の際に、周囲に匹敵するよう系図を飾る必要があったためかもしれません。
武家の棟梁として知られる源氏・平氏、あちこちで見かける有名な藤原氏に比べ、最も当たり障りなかった姓が「橘氏」であったためと推察されています。
とりあえず、河内の豪族であったことは間違いなく確かである様子です。
そんな「楠木正成」は「後醍醐天皇」に応じて挙兵し、赤坂城、千早城という小城(砦)にて幕府の大軍を引き受けたのでした。
これが切っ掛けとなって倒幕の機運が高まり、鎌倉幕府崩壊へと繋がるのです。
延元元年(1336)
九州へ追い落とした「足利尊氏」はそちらで実力を蓄え、再び京へとせまります。
その迎撃を命じられ、死を覚悟した「正成」は現在の桜井駅跡(※電車の駅ではなく、大阪府三島郡島本町の史跡名なんだって)にて、嫡男「楠木正行」を八尾別当(やおべっとう)「顕幸」僧正を後見として、河内へ帰しました。
これが有名な「桜井の別れ(※写真)」です。
「自分の命を惜しんで、これまでの後醍醐天皇への忠節を忘れ降伏してはならぬ」
そんなことを言い残し、父「正成」は「湊川合戦」にて討死。
当時「正行」は十一歳頃でした。
この際、ショックで自刃しようと考えた、とも伝えられています。
もしかしたら、赤坂・千早の攻防戦を知る「正行」には、その不利な「湊川合戦」でも勝利して帰ってくる父の姿を想像していたのかもしれません。
⇒ つづく。
次回は「四条畷へ出陣する英雄」
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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※いいですよね、かっこいいですよね、の楠木氏三代です。
南北朝時代の英雄って言えば、若き将軍「北畠顕家」さまもいいんですが、やっぱり皆さまご存知「楠木正成(くすのき・まさしげ)」でしょう。
…どうですか、違いますか?
突如歴史の表舞台に現れ、颯爽と活躍した正体不明な「楠木正成」、および楠木家。
なんだかかっこいーですよね。
この人がまた忠義を曲げることなく、志半ばで死んでしまうところが悲劇的で、この現代でもなお多くの人の心を掴んでいるのでしょう。
本日はそんな「楠木正成」さま…ではなく、ちょっと一般には知られていない嫡男「楠木正行(くすのき・まさつら)」さまについて、です。
そんなこんなで楠木家。
まず苗字ですが、一般には「楠木」となっていますが、正しくは一字で「楠」が本当であるようです。
古代の名門「橘氏」、右大臣「橘諸兄(たちばな・もろえ)」の末裔と自称しておりますが、実際のところ不明。
「橘氏」は公卿になれる氏族(※「源平藤橘」の四つ)でして、おそらくは「後醍醐天皇」の新政府参加の際に、周囲に匹敵するよう系図を飾る必要があったためかもしれません。
武家の棟梁として知られる源氏・平氏、あちこちで見かける有名な藤原氏に比べ、最も当たり障りなかった姓が「橘氏」であったためと推察されています。
とりあえず、河内の豪族であったことは間違いなく確かである様子です。
そんな「楠木正成」は「後醍醐天皇」に応じて挙兵し、赤坂城、千早城という小城(砦)にて幕府の大軍を引き受けたのでした。
これが切っ掛けとなって倒幕の機運が高まり、鎌倉幕府崩壊へと繋がるのです。
延元元年(1336)
九州へ追い落とした「足利尊氏」はそちらで実力を蓄え、再び京へとせまります。
その迎撃を命じられ、死を覚悟した「正成」は現在の桜井駅跡(※電車の駅ではなく、大阪府三島郡島本町の史跡名なんだって)にて、嫡男「楠木正行」を八尾別当(やおべっとう)「顕幸」僧正を後見として、河内へ帰しました。
これが有名な「桜井の別れ(※写真)」です。
「自分の命を惜しんで、これまでの後醍醐天皇への忠節を忘れ降伏してはならぬ」
そんなことを言い残し、父「正成」は「湊川合戦」にて討死。
当時「正行」は十一歳頃でした。
この際、ショックで自刃しようと考えた、とも伝えられています。
もしかしたら、赤坂・千早の攻防戦を知る「正行」には、その不利な「湊川合戦」でも勝利して帰ってくる父の姿を想像していたのかもしれません。
⇒ つづく。
次回は「四条畷へ出陣する英雄」
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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楠木氏三代―正成・正行・正儀 井之元 春義 (1997/02) 創元社 この商品の詳細を見る |
※いいですよね、かっこいいですよね、の楠木氏三代です。
の史跡として有名です。 隠岐からにげて来た後醍醐天皇を楠木正成が迎えに来た場所です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。