お寺さんぽ Ver.03

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南北朝時代の若き英雄 (北畠顕家)1

2007年11月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

やっぱりややこしいのが中期、南北朝時代付近。
これは朝廷・公家が中心であった政治が、幕府・武士への移行によって社会構造が二重、三重となっていたのが原因でしょう。
あちこちで時代の主役となるため、大小様々な権力闘争をしていたんですよ。
権利だの過去がどうの、ってやたら複雑なので「イヤー!!」となるのだと思います。たぶん。

その厄介な中期の理解を少しでも深めるため、ひでるさんが好きな「北畠顕家」さまについてちょろっと調べてみました。
…手元にさして資料がないので、ごく簡単に。

普通は足利くん以下、北朝方のが主役っぽいんですよ。
結果的には勝利する側ですから。
でも、何故だか「足利尊氏」とか「高師直(こうの・もろなお)」って好きになれないんですよ~。
赤坂城・千早城などの攻防戦などで知られる「楠木正成」さまとか、奥羽の大軍を率いて転戦した「北畠顕家」さまのが憧れます。
と言うのも、彼らが上司に恵まれなかったにもかかわらず、”オー人事”ってやらずに最後まで、それこそ命懸けで戦ったところが悲劇的で涙を誘うためなんでしょうかね。
(※画像ないので近い感じのイメージです。若武者出陣の図。)

さて、この北畠家は村上源氏を祖とする、立派な名門家でした。
六十二代「村上天皇」からの支流です。
しかも官位だけで言えば、源氏一族ではあの有名な「清和源氏」よりも高いのです。
これが、戦国時代には強力な瀬戸内海の水軍となった「村上氏」、伊勢にて織田氏と戦った「北畠氏」となっていくのでした。
ちょっと格が落ちてますけどね(笑)

文保二年(1318)
「北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)」の嫡男として「北畠顕家」は誕生しました。
これはちょうど「後醍醐天皇」が即位した年です。
父「北畠親房」はその「後醍醐天皇」に登用されて信任厚く、「吉田定房(よしだ・さだふさ)」、「万里小路宣房(までのこうじ・のぶふさ)」らと共に「後の三房(のちのさんぼう)」と呼ばれていました。
彼らは「後醍醐天皇」の側近として重用され、通常では考えられないような出世・昇進をしています。理想を追って政治に積極的だった彼は家柄に関係なく、能力ある人物を登用したのです
この「北畠親房」は検非違使別当(※平安時代の警察長官みたいなもの)から大納言に任命され、後の南朝では軍事参謀というべき立場になっていくのです。

⇒ つづく。
  次回は「武士の棟梁”足利尊氏”の秘密」


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⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
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⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」

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