先日の日曜日、日比谷公会堂開設80周年の催しがあったので出かけてきました。こんにちまでイヴェントは何かしら行なわれているはずなのですが、この仕事をするようになってから何と一度も出かけていなかったことに気づき、吃驚。
この建物は当時の建築技術の粋が集められたものとのこと。確かに至る所にモダンな雰囲気が漂っています。二階の座席からステージを見るとこんな感じ。
まあ全国各地の歴史あるホールとさほど変わらないかもしれません。ただ近年に建てられたホールと決定的に違うのは残響がデッドであることです。デッドというのは残響時間がほとんどなく音がすぐに消えてしまうことを意味します。
たとえばオーケストラが一斉に音を鳴らしたとしますね。その場所が現代のホールだと「ドゥワァ~ン」というふうに響きます。これは楽器の音とその音が響いた音とが融合するのでそんな感じに聴こえるのです。
ところがデッドなホールだとどう鳴るのかというと、同じように大音量で鳴らしても「ダン!」でおしまい。「アレレ、消えちゃったよ…」てな感じ。現代のホールの音に慣れてしまった耳には何とも物足りなく感じることでしょう。だって残響がないんですからね。
当日は記念の催しのほかに、オーケストラによる演奏会も行われました。その演奏を聴いていて思い浮かんだのはトスカニーニやフルトヴェングラーといった昔々の指揮者たちの録音です。今聴けばモノラルで古めかしいと感じるでしょう。彼らの演奏に特別な思い入れはありません。
ただ、あの響きはまさにここのようなデッドな響きに近いんですね。もちろんそれはマイク・セッティングの仕方をはじめとする録音技術にも関係があるでしょう。だから一概に両者が同じとはいえません。しかし演奏者が伝えようとする音、そして音楽が聴衆の耳へストレートに届いたのは紛れもない事実なのでした。残響というフィルターがないぶん楽器が発した音は直接耳へ伝わるので、ステージと客席が近く感じます。
もっとも、残響があるのがいいのかないほうがいいのかは難しい問題です。作品によっては残響がないほうがいいこともあるでしょう。でも、そんな場所でたとえばドビュッシーの作品なんかはアチャーという気もします。音のパレット上の色彩の変化で勝負しようというのに、そのパレットがスポンジでできてて音の絵の具を吸い込んじゃって話にならない…みたいな。実際は演奏者の手腕にかかってくるんでしょうけどね。
さて、最後に時代を感じさせるものをご覧に入れます。
不思議に思いませんか。そうです、座席と座席の間に「肘掛け」がないんですね。どうしてなんでしょうか。どんなビッグ・ヒップの人であっても座れるよう配慮されたんでしょうか。たとえば相撲取りとかも…。
現在のほとんどのホールの座席には座席と座席を仕切るように肘掛けがあります。一体いつから全座席に肘掛けが標準装備されるようになったんでしょうね。興味は尽きません。