ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

これもダムだな…鴉山池

2022-02-15 07:01:27 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県伊賀市柘植町(つげまち)にある淀川水系の鴉山池(からすやまいけ)を訪れます。アクセスは国道25号(大和街道)沿いにある余野部(よのべ)建材株式会社柘植工場の前なので迷うことはありません。

大和街道から見た様子。この、こんもりとした向こうに池があるようには思えないでしょ? でも、あるんです。



上の写真の左側に向かって行くと、いわゆるダム上のところに「鴉山池竣工」と題された石碑があります。その内容を要約すると伊賀の東北旱魃地域は全国特殊災害地として知られていた。そのため古くは寛政年間(1789-1801)以降、明治・大正に至るまで租税を免除される恩恵に浴してきた。しかし昭和22年(1947年)になってこの地域は旱魃に見舞われた。それがきっかけとなって農業用ため池を建設する計画が持ち上がる。そして昭和25年(1950年)8月6日、ため池工事に着手。そして昭和29年(1954年)4月17日に完成したと記されています。残念ながら「鴉山池」の命名の由来は記されていません。



その石碑からダム上を見るとこんな感じ。写真では見切れていますが、右側に大和街道が走っています。写真の奥のほうに洪水吐があるので行ってみます。



トコトコ歩いて洪水吐のほうに来ました。そこから池を見るとこんな感じ。



そこから洪水吐はこんな風に見えます。



少し横から洪水吐を見るとこんな感じ。越流式です。



溢れた水はあの橋の下を抜けて、



柘植川として下流へ向かうのです。



鴉山池は「伊賀市ため池ハザードマップ」に掲載されていて、そのデータを見ると高さは16.2mと書かれています。ダム便覧には高さが15.0m以上あればため池であってもダムとして掲載されるはずなのですが、三重県のダムを見ても鴉山池は出ていません。

なんでだろ〜、なんでだろ〜、なんでだ、なんでだろ〜♪(ふ、古いな…)
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ロマン膨らむ…加佐登調整池

2022-02-14 06:52:29 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県鈴鹿市加佐登町(かさどちょう)にある鈴鹿川水系の加佐登調整池を訪れます。アクセスは関西本線の加佐登駅近くにある鈴鹿病院を目指して行くと当該の調整池はその近くにあります。

加佐登調整池は、三重用水に関係する5つあるダムのひとつですが、以前訪れた中里ダム(中里貯水池:1977年3月完成)、たぶん今後訪れる予定の宮川調整池(1980年3月完成)に続く3番目に完成したダム(1983年2月完成)です。加佐登調整池の水は周辺から流れ込む水の他に中里貯水池から菰野調整池を経て導水されてきた水も貯水されます。そして椎山川(しいやまがわ)から下流の鈴鹿市へ流れ込み、同市の農業用水として供給されます。(参考

まあ、とにかくデカいんです。これはダム下から撮ったものですが、通常の撮影だとその長さが伝わらないと思ったのでパノラマで撮ってみました。



上の写真の右の隅にアンテナのようなものが見えます。とりあえずそこへ行ってみましょう。ダムの形からすると左岸に相当する場所になります。近づいてみると「無線室」らしい。





その隣には立派な洪水吐!まあ、これほど大きい調整池だとこれくらいの洪水吐じゃないと水が溢れちゃいますよね。



違う角度からもう一枚。



そして増水すると調整池の水はこの水路(椎山川)から下流の鈴鹿市へ流れてゆきます。



で、これがダム上なんですが、フェンスがあって立ち入ることはできません。



なので、ダム上には加佐登調整池の案内板や水利使用標識があるんですが、ズームしても全く読めず…。これじゃあここに設置した案内板の意味がありませんね。



ちなみにこの貯水湖名は「白鳥湖(しらとりこ)」で、近くにある白鳥塚(しらとりづか)古墳に由来するものだそうです。さらに言えばこの古墳は日本武尊(ヤマトタケル)の白鳥伝説にまつわることからそう命名されたそうな。じゃあ白鳥伝説って何?ってなると思うので簡単に説明します。

ヤマトタケルは九州を統一した後、すぐさま東国の平定に向かいます。そして東国を統一し大和国に戻る途中、伊吹山(現在の岐阜県と滋賀県の県境)の戦いで負傷し、やっとの思いで能褒野(のぼの:鈴鹿山脈の裾野付近)まで戻ってきました。その際疲れ切った足がまるで「三重(みえ)に曲がり、固い餅のようだ」と嘆いたことで後にこの土地が三重と呼ばれるようになったそうです。結局彼はこの地において29歳という若さで亡くなります。その訃報を聞いた妻子が能褒野に駆けつけると彼の眠る墓から大きな白い鳥が飛び立っていったそうな。おそらく彼は白い鳥に姿を変えて父である景行天皇の住む大和へ戻った…というお話。

ヤマトタケル(日本武尊、倭建命、倭武天皇)と言えば、以前訪れた千葉県の亀山ダムの記事で小櫃川(おびつがわ)の由来について書きましたが、そこでは彼が直面した悲しいエピソードがありましたね。また、茨城県の竜神ダムの記事では久慈川(くじがわ)の由来について説明していますが、そこでも彼が登場しています。

これらはワシが調べた中で出くわしたほんの一例です。他にもヤマトタケルに関する逸話があるでしょう。こうしたことからわかるのは彼が東国の人々の記憶の中に刻み込まれているということ。もしかすると今後ワシが九州のダムを巡っていけば、また違う形で彼の逸話に出くわすかもしれません。それはそれで別の楽しみがあります。

ワクワクですよ、ホントに。
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後頭部のみ!…小森ダム

2022-02-07 07:05:51 | 三重(ダム/堰堤)
どもども〜、ワシです。今回は三重県熊野市紀和町小森(きわちょうこもり)にある新宮川(しんぐうがわ)水系の小森ダムを目指します。アクセスは北山川の右岸を走る国道169号から「御浜(みはま)」方面の道路表示のある新大沼橋を渡り、今度は北山川の左岸沿いの細い道を進んで行くと到着します。もちろん、もっとダム寄りのところには国道169号から上瀞橋(かみどろばし)があるんですが、この橋は高さ・車重制限があるので軽自動車以外はお勧めできません。

到着しました…といっても、見えたのは上流側からの様子のみ。



もっと近づこうと進んで行くと、見えてきたのは「小森発電所」の看板。



そして、あとちょっとでダムというところで、無情にも「関係者以外立入禁止」と書かれたゲート。残念、ここで万事休すです。



資料によれば、小森ダムは1963年に着工し、1965年に竣工した高さ34m、長さ154mの重力式コンクリートダムとあります。でも、この目で直接確認することができなかったのは本当に残念でした。

じゃあ「ご尊顔」はどうなってるんだ? と思うでしょ? ええ、ワシも思いましたよ。でも地図を見ても右岸を走る国道からはもちろん、左岸からも行く道がないんです。なので泣く泣く断念。

「オバ、オバちゃまも行けないのよ!」(今は亡き映画評論家、小森のオバちゃまの真似…ふるっ)

たまにはこんなこともあります。ドンマイ、ワシ!…「お、おぅ!」
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県境の下部調整池…七色ダム

2022-02-06 06:50:39 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県熊野市神川町神上(かみかわちょうこうのうえ)にある新宮川(しんぐうがわ)水系の七色(なないろ)ダムを訪れます。アクセスは国道169号沿いなので迷うことはありません。

まずは北山川の右岸を走る国道169号から見た「ご尊顔」をご覧ください。当該ダムの下流の北山川付近は七色峡と呼ばれ、四季を通じて川の水の色が七色に変化することから七色峡と命名されたそうです。ダム名はそれに由来するようです(参考)。おおっ、なんてロマンチック!



じゃあダムへ向かおうってんで右岸のダム横に行こうとしたら訪れた日には、なんと通行止! 仕方ないので左岸にまわり、県道40号から行くことに。もう少しでダムというところで、つまりダムの左岸の下流側に見えてきたのは水利使用標識。



そして「七色発電所概要」と書かれた案内板。昨日記事にした池原ダムでも書きましたが、この七色ダムは池原発電所の下部調整池で、通常は標高差を利用して上部調整池である池原ダムからの落水で池原発電所内の水車を回して発電しますが、電力使用量の少ない時間帯になると水車を逆回転させて下部調整池から上部調整池へ水を戻す揚水発電を行ないます。一方、七色ダムの地下にも七色発電所があり、こちらは七色ダムから流れ落ちる水で水車を回して発電する通常の発電方式が採られています。



左岸からダムを見るとこんな感じ。



左岸、上流側から見たダムの様子。



ダム本板に嵌め込まれたプレート。1965年9月竣工とあります。



では、ダム上を歩いてみることにしましょう。ダム上の道は国道169号でもあるので、もちろんクルマで通ることもできます。ダム上、中央から貯水側を見るとこんな感じ。



ダムの真下。60mの高さはこんな感じです。副ダムがアーチ状になっているのはこのダムがアーチ式だからです。



下流側の遠景。あの先が七色峡なんですね。



対岸(右岸)近くから見た貯水側の様子です。ここには網場(あば)が張られていてゴミや流木の流入を防いでいます。



網場を通過した水はこの柵状になっている取水口から入って発電に使われるんでしょうね。



対岸に来ました。振り返るとこんな感じ。緩やかなカーブを描いているのがわかります。



すぐ近くあるのが七色発電所の建物。年季が入っていますね。





ここから先はトンネルになっていて、しかも工事中だったので行きませんでした。奈良県のダム(池原ダム)と三重県のダム(七色ダム)が揚水発電で繋がっていて、しかも和歌山県の発電所(七色発電所[和歌山県東牟婁郡北山村七色])が同居している…。これはなかなか珍しいケースかもしれません。
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ワクワク→フ〜ン…クチスボダム

2022-02-03 06:56:51 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県尾鷲市南浦(おわせしみなみうら)にある銚子川水系のクチスボダムを目指します。アクセスは国道425号を行くと到着します。

ダムの下流から国道を行くとダムのすぐ下流のところに橋があるんですが、「ご尊顔」はそこから見ることができます。



その橋から見た又口川の下流方向です。



国道をさらにダム横に向かって行きます。すると左岸側に辿り着きます。あれっ、左岸側はアースダムなんですかね。



その近くには毎度お馴染みの水利使用標識。



そこから見たダムの様子。どうやら右岸側はコンクリートダムのようです。ということは、ここは以前訪れた福島県の宮川ダムと同じくコンクリートダムとアースダムの複合型のダムなんですね。



さらに国道を上流方向に行くと道沿いに「クチスボダム管理所」があります。





そこから貯水湖を見るとこんな感じです。



そして同じくダム方向はこんな感じ。



でも、このダム名「クチスボ」ってなんなんだろう。確かに水利使用標識には「クチスボ川」とありましたね。調べてみました。国土地理院の地図を見るとダムから上流に向かって左側からクチスボ谷の水、右側から又口川の水が流れ込んでくるのがわかります。なるほど、それでクチスボダムと命名したんですね。ちなみにクチスボ谷の周辺には「クチスボカンアオイ」という多年草が自生しているそうな。それでこの谷の名前がクチスボ谷と呼ばれるようになったのかもしれません。たぶん。

ダム名についてはスッキリしました。でも、国道側からだとフェンスがあってダムの様子がよくわかりません。というわけで、今度は国道を引き返して先ほどの橋からそのクチスボ川側の右岸に向かってみることにしました。

右岸のダム横近くまで来ました。うーむ、木が邪魔でよく見えないなあ。



これが右岸側のダム横。でも、やっぱりフェンスがあってダム上に行くことはできません。むむむ。



右岸、貯水側から見たダムの様子です。確かに右岸側はコンクリートダムですね。



ダム名がカタカナというのはなかなか珍しいですが、実際に行ってみればダムが複合型である以外はフツーです。その由来がそこへ流れ込む川の名称ってだけで…。到着する前まではちょっとワクワクしてたんですけどね〜。

なにをやねん!
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バス通勤はちょっと無理かな…宮川ダム

2022-02-02 06:58:32 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県多気郡大台町久豆(たきぐんおおだいちょうくず)にある宮川水系の宮川(みやがわ)ダムを訪れます。アクセスは国道422号から県道53号を進んでいくと到着します。

そういえば福島県にも同名のダムがありましたね。最もそちらは「みやかわ」ですが(参考)。

そんなこんなで到着です。まずは左岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。



すぐ近くにある宮川ダムの案内板。宮川流域はひとたび雨が降ると大小無数の渓谷から流れ出た水は宮川に押し寄せ、濁流となって下流一帯に洪水被害を起こします。逆に干ばつになると宮川の流量は減少し、河口付近では排砂作用によりデルタを形成するため河口港の役割を果たせないようになるそうな。つまり水が多くても少なくても弊害が起きる場所なんですね。そこで宮川の洪水調節、不特定灌漑用水の供給、発電を目的とする「宮川総合開発事業」が計画され、そのためのダムが1952年7月に工事開始、1957年5月に宮川ダムが完成します。



ここへはバスで来ることもできます。どちらの方面も1日に5便しかありませんが。う〜ん、通勤するのは無理か…。



右岸、貯水側から見たダムの様子。



これがダム上。車両通行可ですが、歩いていきます。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。訪れた日は風が強く、撮影するのも一苦労でした。



ダムの真下までは88.5m。まあまあ怖いなぁ。



下流側の遠景はこんな感じ。



対岸(左岸)側にあるこの建物は「松阪建設事務所宮川ダム管理室」。





左岸まで来ました。振り返るとこんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子。なかなか絵になりますなあ。



同、貯水側からダムを見るとこんな感じ。ダム自体はアーチ式ではないんですが、手すりのこういうカーブ、好きです。



右岸に戻り、県道53号を上流方面へ少し向かうと奇妙なモニュメントが出現!



近寄って見ると慰霊碑でした。



裏側に回ってみます。殉職者を慰霊するとあるだけ。いや〜、名前くらい刻んであげましょうよ。冷たいなぁ。合掌。



慰霊碑からダムを見るとこんな感じ。



宮川水系の本家本元のダムなので迫力は十分! 山の中だなあと思って標高を調べてみたら海抜286m。あれっ、そんなもん? ちょっと意外。
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持越池はダムでなく堰堤だ!

2022-02-01 07:01:38 | 三重(ダム/堰堤)
気がつけばもう2月。いや〜時の経つのは早いですなぁ。

どーも、ワシです。えー、今回は三重県多気郡大台町下真手(たきぐんおおだいちょうしもまて)にある宮川水系の持越池(もちこしいけ)を訪れます。アクセスは県道31号沿いに「丸山真手公園→ 0.5km」の看板があるのでそこを入り、その公園を過ぎたところに今回目的の場所があります。

まずは右岸から見た「ご尊顔」をご覧ください。なかなかの斜度です。これほどの急傾斜のアースダムは珍しいかもしれませんね。



さて、持越池の周辺には何の案内板もありません。従って池の名称の由来も不明です。ただ、県道から池までの途中に「丸山公園案内図」があり、そこに持越池の表示があるのみです。ちなみにこの案内図では「県道11号」と書かれていますが、上に書いたように正しくは「県道31号」です。以前は11号だったのかもしれませんけどね。



この案内図に従って進んでくると池の左岸に辿り着きます。これがその道から見た、いわゆるダム上の様子。



道からダム上に行くには洪水吐に架かる橋を渡ります。おっと、何とも素朴な橋ですね。



左岸から見たダム上はこんな感じ。早速進んでみましょう。



洪水吐に架かる橋の下はこんな感じです。何となく堰き止めている程度で、これも越流式というんでしょうか…。



洪水吐から下流へ向かう水路です。一応土砂が流れにくくなるような工夫がされていますね。



池には一羽のアヒルがのんきに泳いでいます。



いわゆるダム上、中央から見た貯水側の景色です。向こうに沈みそうに見える橋が見えますね。あとで行ってみましょう。



ふと、見ると、近くに先ほどのアヒルが。「アフラック!」と言うのかなと思いましたが、もちろん言いません。



一方、下流側はこんな景色です。



対岸(右岸)に来ました。振り返るとこんな感じ。



では、先ほど沈みそうに見えた橋に行ってみます。左岸から見るとこんな感じ。



橋の中央には簡易休憩所があります。



そこからダム上を見るとこんな感じ。おや? 先ほどのアヒルがこちらに向かって来ます。



あらま、懸命にワシを追っかけて来ました。何と愛おしい姿! でもツンデレよろしく、「たまたまこっちに泳いで来ただけだからね!」といった表情。もぉ〜、一所懸命泳いで来たくせに…。きっとエサがもらえると思ったんでしょうね。だけど、ワシがそんなものを持っているわけがありません。すまんのぉ。



アヒルにストーカーされるとは思いませんでした。

ま、それはともかく、後で調べてみると大台町が作成したハザードマップがあり、それに持越池も出ていました。それによるとあんなに急斜面なのに高さは14.0mらしい(参考)。なので高さが15.0m以上をダムとするという定義からするとこれはダムではなく堰堤ということになります。

しかしダム便覧を見ると高さは16.0mと書かれていてダムとして認定されています(参考)。いやいや、ちょっと待ってよ。一体16.0mという数値は何の資料に載っているのでしょうか? そのデータの典拠は便覧に載っていないので鵜呑みにできませんね。

…というわけで、ワシとしては大台町の公式のハザードマップのほうを信用することにします。
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立派なアースダム!…中沖池

2022-01-31 06:52:07 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県多気郡大台町上菅(たきぐんおおだいちょうかみすが)にある宮川水系の中沖池(なかおきいけ)を訪れます。アクセスは県道424号沿いにある呉山コルク工業株式会社大台工場の近くに「とびだしちゅうい」の表示のあるT字路のところを入り、すぐ右側の道を行くと到着します。池の名称はここから宮川へ流れ込む細い川が中沖川なのでそれに由来すると思われます。

到着しました。これのようです。



これがいわゆるダム上になります。歩いてみましょう。



右岸寄りに洪水吐があるのですが、その手前のところに何やら石像が…。これは一体なんなのでしょうか。



その横に洪水吐があり、写真はその排水路です。



ダム上、中央から見た貯水側の景色です。



一方、下流側はこんな感じ。写真中央に見える太陽光発電のパネルは何度見ても違和感がありますね。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。



残念ながらここが中沖池であるという表示はどこにも見当たりませんでした。でも大台町が作成したハザードマップにはこの場所が中沖池であると示しているので間違いないと思います。これによると高さは19.2mなので定義上は中沖ダムと呼んでも良いくらいです(参考)。
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くっきり!と凛々しい…三瀬谷ダム

2022-01-30 06:53:53 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県多気郡大台町菅合(たきぐんおおだいちょうすがあい)にある宮川水系の三瀬谷(みせだに)ダムを訪れます。アクセスは国道42号の「船木大橋南」交差点を県道424号へ曲がって宮川の右岸沿いに行くと目的のダムが見えてきます。

おおっ、凛々しい!



しっかりとダム名を宣伝していますね。



ダム名はかつてここの地名が三瀬谷だったことに由来します。現在ここは大台町ですが、1889年4月1日の町村制の施行から三瀬谷村、1953年4月1日から三瀬谷町に、そして1956年9月30日に同町は川添村と合併して大台町となり、三瀬谷町は廃止となりました。三瀬谷という名称は近くにある紀勢本線の三瀬谷駅、そしてダムに付設する三瀬谷発電所(1967年4月運転開始)にみられますが、いずれもかつての地名の名残なのではないでしょうか。

県道沿いにあるこの建物は「中部電力 三重水力センター」。ダムへはこの横の道を入っていきます。





これが右岸から見たダム上。小型車なら通行できるようですが、ここはひとつ歩いて行きます。



ダム本体に嵌め込まれたプレート。竣工年月は1967年2月とあります。



ダム上、中央から見た宮川の上流側の様子。



一方、ダム下39mはこんな感じ。



そして下流側の遠景です。向こうに見える鉄橋は紀勢本線。



対岸(左岸)に来ました。こちらには三瀬谷ダムと発電所の案内板があります。当該ダムは電力と工業用水の確保を目的として築造されたそうな。ダム湖の名称は「奥伊勢湖」と言い、三重県唯一の公式漕艇場なんだってさ〜。



訪れた日が晴天だったこともありますが、しっかりと印象に残るダムでした。
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長発電所取水堰堤なのだ!…滝原ダム(堰堤)

2022-01-29 07:04:06 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県度会郡大紀町滝原(わたらいぐんたいきちょうたきはら)にある宮川水系の滝原ダム を訪れます。アクセスは国道42号から「おおみや青少年旅行村大滝峡キャンプ場」の管理事務所を目指してください。当該ダムはその先にあります。

キャンプ場の管理事務所前の道をそのまま行くとダム上になるんですが、まずは大内山川の右岸、下流側から見た「ご尊顔」をご覧ください。これで見るとわかると思いますが、ダムの設備は大内山川の左岸側に置かれています。もちろん河川の増水時には設備のない右岸側が越流式になっているので氾濫することはありません。



河川の中央にはお魚さんが川を遡るための魚道が用意されています。







下流側の景色です。このずっと先で大内山川は宮川に合流します。



それにしても水が澄んでいて美味しそう。



続いて、ダムの上流側から見た様子をご覧ください。この石造り…。なかなか歴史を感じさせますね。美しい!





上流の景色です。実は撮影した場所は大内山川の中央で、増水していたらここも川になる場所なんですけど、この日は流量が少なかったので撮れたのです。



左岸側の設備で堰き止められた水は、ここの柵から取水されます。つまりここが取水口というわけですね。写真左上に見えるのが先ほど見た魚道です。



では、先ほどのキャンプ場管理事務所のところへ戻り、今度はダム上に向かいます。

通路の途中にはお馴染みの水利使用標識。水力発電のためのダムのようですね。



その通路の先には建物があり、その壁には滝原ダムの案内板が貼られています。それを読むと、滝原ダムは三重県がここから直線距離にして5.5km離れた三重県多気郡大台町長ケ(たきぐんおおだいちょうなが)に県営として1954年1月に初めて建設・稼働した発電所のために築造したもので、先ほど見た取水口から分水した水は地下水路を通って宮川沿いにあるその発電所へ送水されます。なお、その発電所名は建設当初はおそらくその地名から「長ケ発電所」だったのかもしれませんが、2015年4月以降、その発電所の管理は三重県企画庁から中部電力へ移譲され、現在の名称は「長(なが)発電所」と表示されています(参考)。

ところで、案内板に書かれている「滝原ダム諸元」を見るとこの高さは6.9mなのでダムの定義からするとこの築造物はダムではなく堰堤になります。さらに言及するなら、この堰堤は確かに滝原という場所に築造されたので「滝原堰堤」なのでしょうが、その目的からすると「長発電所取水堰堤」と呼んでも間違いではないと思います。



いよいよ、ダム上を歩きます。



ダム上、中央から見た上流側の景色です。



一方、下流側はこんな感じ。



対岸(左岸)に来ました。振り返るとこんな感じです。なぜか堰堤の上だけ屋根の骨組みになりそうなものが。ここにシートをかぶせたら雨よけになるかも?(どんな意味があんねん!)



いずれにしてもこの堰堤が築造されて今年で68年。もうそろそろ土木遺産として登録される日が来るかもね。石造りの築造物はとにかく味があるもんな〜。
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なぜ「小」は付いた?…小桂池

2022-01-28 06:55:35 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県度会郡大紀町野添(わたらいぐんたいきちょうのぞえ)にある宮川水系の小桂池(こかつらいけ)に向かいます。アクセスは県道38号沿いにある奥伊勢廃材センターの角を曲がり、しばらく行ったところに「奥伊勢廃材処理場→」の看板があるのでそちらへ向かって進んで行くと今回の目的地の入口にあたる林道が右側に見えてくるのでその未舗装の林道を進むと到着します。

こんな感じの林道です。道幅はクルマでも行けそうですが、万一のことを考慮し、歩いて行きます。



いやいや、ホントにこの先にあるのかな…。



おっ、なんか見えてきましたよ。



どうやらこれのようです。



これがいわゆるダム上。行ってみます。



ダム上、中央から見た貯水側の様子。



一方、下流側はこんな感じの景色。



実は下流側からダム上に通じる小道があったようで、その小道を少し下りた場所から撮ったのがこちら。不思議なことに、この小道、薄〜く舗装されています。



対岸(左岸)手前にある洪水吐。





増水すると、水はこの水路を通って流れてゆきます。



そして洪水吐にかかる橋を渡って対岸にきました。振り返るとこんな感じ。



対岸の斜面を見ると石碑のようなものが…。なんでしょうね。



近づいてみると文字が書かれています。竣工記念碑のようですが、相当風化していてほとんど読むことができません。



石碑の左隅に「明治28年(1895年)2月」と読めるので、おそらくこの頃に築造されたものと思われます。



それにしても、なぜ「小桂池」と命名されたのでしょうか。先ほどの石碑に記されているのかもしれませんが、とにかく読めないのでネットで調べていくと意外な事実を発見しました。下の写真をご覧ください。



これは地元の大紀町が作成した地域防災に関する公式資料「第5編 資料編」ですが、その中の「8-9 老朽ため池」の項目に「桂池」というのが出ています。場所は野添で、この地域にはほかにため池がなさそうなので今回訪問した「小桂池」のことと思われます。ただ、「経過年数」が170年とあるのが気になります。同資料は大紀町の町長が谷口友美だった頃に作成されたものなので、資料作成年は谷口の在職が2009年から2021年の間と思われます。

仮に資料作成年が2020年としても170年前だと当該ため池は1850年に築造されたことになり石碑に記された年と異なることになります。でも、その石碑が「ため池改修記念碑」で、改修工事が終了した年が1895年だと仮定するならどうでしょうか。矛盾しません。とするならですよ、この資料の記載に従うならば今回訪問した場所は「小桂池」ではなく、正しくは「桂池」なんですよね。

地図の記載やネットの記述を鵜呑みにすると誤ちに気づかないものです。現場に案内板などがあればそれを信用しても良いのですが、何もない場合は多角的に検証しウラを取らないと思わぬ勘違いをすることになりかねません。とはいうものの、今回の場合はあの石碑の記載内容をすべて確認していないのでこの場所が「桂池」と断言することは正直できません。しかし、以上の検証からするとこの場所はおそらく「桂池」で間違いないと思われます。

それにしても、いつ、誰が、どのような理由で「小桂池」に変更したんでしょうね。そのほうがむしろ気になります。

たかがため池、されどため池。侮るなかれ!
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なぜ「神路」ダムなのか?

2022-01-27 06:54:56 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は三重県志摩市磯部町恵利原(いそべちょうえりはら)にある磯部川水系の神路(かみじ)ダムを訪れます。アクセスは県道32号(伊勢道路)を伊勢方面へ進んで行くとダムの左岸に到着します。

まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。右岸側に洪水吐があるのが見えますね。



ダム下から洪水吐を見上げるとこんな感じ。大きな滑り台のようです。増水時、溢れ出てきた水は、



あちらへ向かって流れてゆきます。



では、県道に戻ってダム横に行ってみましょう。県道沿いにダム横があるので迷うことはありません。これがダム上なんですが、ご覧の通りダム上は立入禁止なので行くことはできません。



左岸、ダム上から見た下流側の様子。



左岸、ダム横の上流側にあるこの建物が「神路ダム管理室」。





その壁には水利使用標識が貼られています。これを見ると神路ダムは水道用水供給と発電用水のためのダムであることがわかりますね。



管理室付近から見た上流側の景色です。



左岸、ダム横の下流側には「神路ダム」と刻まれた石碑。1972年3月完成と記されています。



その裏側には神路ダムの概要が刻まれています。



その付近から見たダムの様子。構図としてはなかなか良いじゃないですか(笑)



ダム名についてですが、当該ダムの西側に神路山と呼ばれる山域があるのでそれに由来するのかもしれません。また、いくつかのサイトを見ると磯部川(神路川)と記されていますが、磯部川の別名が神路川なんですかね。確かにグーグル先生の地図ではダムの下流から「神路川」と記されています。でもダムの水利使用標識には磯部川と記されているし、ダムの下流のほとりに建てられている河川名の表示も「磯部川」になっています。一体どういうことなんでしょうか…。

釈然としないので、改めて調べてみました。ダムの上流には天の岩戸があり、そこからダムへ流れ込む川が神路川というらしい(参考)。これが事実ならばダムまでが神路川で、ダムから下流が磯部川ということになります。つまり神路川を堰き止めて築造したのでダム名を「神路ダム」にした…と。これならば納得がいきますね。それが真実なのかはわかりませんが。

いや、でも、こんなことは本当ならばダムの案内板に書かれるべきなんじゃないでしょうか。「ダム名の由来」とかね。こうした調査は意外に時間がかかるものなんですよ。ま、ワシは調べることは嫌いじゃないのでいいんですけどね。
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県道の下にひっそりと…松尾ダム

2022-01-26 07:14:49 | 三重(ダム/堰堤)
いや、どーも、ワシです。今回は三重県鳥羽市松尾町(まつおちょう)にある加茂川水系の松尾ダムを訪れます。アクセスは近畿志摩線の松尾駅側から県道47号(鳥羽磯部線)を進んで行くと当該ダムは最初に加茂川を渡る橋の下にあります。なので漫然と走っていると橋の下にダムがあることに気づきません。ご注意を!

まずは加茂川の右岸、上流側から見たダムをご覧ください。ダムの上の道路は県道47号。ダムの形状からすると防災ダムか治水ダムのようですね。



右岸の県道傍にあるのは詰所か何かかな?



その傍には「松尾堰堤」と刻まれた小さな石碑。1963年8月竣工とあります。竣工当時はそのように呼ばれていたんですね。しかしその高さは17mなのでダムの定義からすると「松尾ダム」と表示して間違いありません。(参考



ダム上の橋の名称は「堀切橋」。



では、ダム上の県道を歩いてみます。この県道は意外に交通量が多いので気をつけましょう!ダム上、上流側を見るとこんな感じ。



一方、下流側の景色です。後から気づいたんですが、遠くに見える橋からなら「ご尊顔」を拝むことができたのかもしれません。



対岸(左岸)にきました。振り返るとこんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子です。



同名のダムは宮崎県児湯郡(こゆぐん)にもあるようです。いつか行けたらいいなあ。
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川の秩序は守るアナアキー?…河内(農地防災)ダム

2022-01-25 07:10:46 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。さて、今回は三重県鳥羽市河内町(こうちちょう)にある加茂川水系の河内ダムを訪れます。アクセスは加茂川に沿って走る国道167号の沿道にあるたこ焼き屋「片岡屋」近くの道を斜めに入り、道なりに進み、今度は鳥羽河内川に沿う道を行きます。そして第二伊勢道路を潜ってさらに進んで行くと当該ダムの右岸に到着します。

到着しました。右岸からダム上を見るとこんな感じ。なんだか古めかしいダムです。車両通行可。



ダム上、中央から見た上流側の景色。鳥羽河内川を堰き止めて築造されたダムのようで、訪れた時、水はほとんど溜まっていませんでした。



一方、ダム下はこんな感じ。水が澄んでいるのがわかりますね。



下流側の遠景です。山の中にいるって感じでしょ? まあ、いるんですけどね〜。



対岸(左岸)にきました。振り返るとこんな感じ。逆光はご容赦ください。



左岸、上流側から見たダムの様子。



同、下流側から見るとこんな感じ。木が邪魔して「ご尊顔」を拝むことができません。ったく…。



それでも、なんとか接写したい…。そんな気持ちから近づいてパチリ。越流式の洪水吐なんですね。



実際に行ってみて、正直なところガッカリしました。これが河内ダムという表示や看板がどこにも見当たらないからです。築造されたのは相当古いのはわかりますが、それを示す諸元表もありません。

どないやねん!と思いながらネットで検索してみると、このダムの少し下流に「鳥羽河内ダム」なるものが建設される予定であることを知りました。もちろんそれはまだ完成していませんし、いつ完成予定なのかもわかりません。もしかすると築造されない可能性もあります。ただ、この資料からわかるのは、河内ダムという名称はどうやら正しくなく、正式には「河内農地防災ダム」だということ。また同ダムは別名「穴あきダム」とも呼ばれるそうな。

ほぉ〜。
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農民の命を繋いだ斎宮調整池

2022-01-24 06:56:35 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県多気郡明和町池村(たきぐんめいわちょういけむら)にある斎宮(さいくう)調整池を目指します。アクセスは県道37号の「有爾中西(うになか・にし)」交差点をビーフロードと呼ばれる道へ曲がり、しばらく行くと「斎宮調整池」と書かれた本当に小さな看板がある交差点があるので、そこを矢印に従って入って行くと到着します。

まずは左岸の高台から撮ったベスト・ショットをどうぞ。



では、順を追って見ていきましょう。右岸へ至る道を登ってくると当該調整池が見えてきます。



右岸の横にあるこの建物が「宮川用水斎宮調整池管理事務所」。





近くには「斎宮池顕彰碑」。



その裏側には斎宮池の築造の経緯が記されています。それを要約すると次の通り。

斎宮村は元々神領だったが、1602年に紀州領となったのを機に農業用水不足を解消するための惣田池(そうだいけ)を建設し、斎宮地内の灌漑のために使用された。その後1676年に斎宮村は竹川、平尾、有爾中、上野の4つの村とともに再び神領に戻るも惣田池は紀州領だけの灌漑に限定されたため斎宮村に水は供給されず、たちまち水不足に悩まされることになる。それだけならまだしも年貢米の取り立てが厳しかったため農民の破産・逃亡が続いた。

このため各村の庄屋は連名で藩主に池村に溜池を構築をするよう要請したが、池村が紀州領であるという理由でその願いは聞き届けられず。農民がますます困窮していくのを憂慮した内宮庄屋の永島丈右衛門は諸々の手を尽くし、遂に1748年、紀州藩の許可を取り付けてこの地に溜池を築造することが決定。そして1753年に念願だった斎宮池が完成した。



斎宮調整池の案内板。



宮川用水についての案内板。宮川用水とは宮川の上流に造られた粟生頭首工で取水された水を伊勢平野南部の農地へ供給する水路のことで、1957年から国営宮川用水土地改良事業が開始。1964年に粟生頭首工が完成。1966年には導水路および幹線水路が整備されます。現在の斎宮調整池が整備・完成したのは2010年だそうです。



では、いよいよ調整池の、いわゆるダム上に向かいます。右岸、下流側から見たダムの様子。右岸横からダム下へは緩やかな階段があり降りていくことができるようです。



右岸、調整池側から見た様子。



これが、いわゆるダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水池の様子。水面に黒い点のように見えるのは居住する水鳥たち。チャプチャプ泳いでいます。



一方、下流側はこんな感じ。中央からも階段でダム下へ行くことができます。遠くに白く見えるガードレールのところがビーフロード。



池のほとりで休憩する水鳥たち。



その奥にあるのが余水吐。



違う角度からこれを見ると…。



左岸、調整池側からこれを見ると…。(しつこい?)



いずれにしても、増水すると水は越流式の余水吐から溢れ出て、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



左岸から右岸を見るとこんな感じです。



左岸、調整池側から大きく眺めるとこんな感じ。



いや〜、なんでしょうね、三重県の印象なんですが空がとても広く感じます。空ってこんなに大きかったのか。

実に良い気分!
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