2011/07/05 記
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眼のかすみがひどいので慈恵医大眼科に行く。予約ではないので、担当医ではなく、応急処置しかしてくれない。結局、アレルギーを疑ったのか、市販のアレルギー治療点眼薬と同じ処方の薬と人工涙液が処方されただけ。人工涙液は家に残りがあるからと嘘を言って断った。生理食塩水を作ったほうがまし。
様子見、眼の酷使を控える等、常套句を聞いただけだが、カルテに経過が書き加えられたこと程度の意味しかない。ドライアイ状態ではないという情報は得たが、突発的に眼がかすむこの事態は足枷だ。
違う質の診療を受けるには、京大にいかないとという話や、眼圧を下げる手術を受けてもその効果がどうなのか調べたが、患者の選択材料に足るものではない。繰り返し、眼がかすむたびに医師にかかるが、ようするに原因が網膜色素変性症由来の症状なのか、別の原因によるものなのかを識別できないから、様子見として、症状悪化防止の無難な対策でたらい回しするのだと感じる。私としては、急な悪化を疑う必要がないのかなと疑問符付きの小さな安心を得るだけだ。しかし、かし、かすみはかすみ。どうしようもない。
神保町に出て、教科書不足分を発送してもらう支払いを済ませ、相模大野校に報告を入れる。領収書をもってこいという紋きり型に腹をたてつつ帰りに寄ると返事をした。いつもこの事務員と衝突する。マクドナルドのおねえさんは、微笑んでくれるが、常に片手間風応対する事務員はいただけない。
刺激物がどうの、糖尿病のカロリーがどうのといわれそうだが、行きつけのカレーを食べて、四ツ谷に立ち寄った。眼鏡屋の本店に寄って、近距離専用の眼鏡を作る場合の遮光の補助がどうなるかを聞いた。やはり眼科医の診断書が必要で、近距離のみの場合、遮光の補助はふたつめであることもあってだめかもと聞く。眼鏡を調べたらレンズの取り付けが少し緩んでいた。汗のせいだ。しめなおしをしてもらい、無駄足にはならなかった。新宿経由で小田急線で相模大野に着く。領収書を出すが事務員は銀行にでかけていて、不完全燃焼気味の澱を飲み込んで帰宅。
眼科の処方、この処方なら地元眼科医でもいいのだが、網膜色素変性症を嫌がる医師もいる。大学病院の紹介状をと言い出すのだ。専門病院と地元医との分業のような発想はまずない。あいまいに自分の範囲の治療を黙って続けるか、検査機器を理由に大学病院に行けというだけなので、自分の出身大系の病院なり、病院勤務していたところの紹介ということなのだろう。気分転換のシャワーを浴びた。
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片目をつむっていたほうが楽なので、夕飯の支度を先に済ませて、PCメールに集中することに。そこに母がFAXが入っていたと持ち込んできたのは、JTBに頼んでおいた陸前高田・大船渡の市内路線バスの運行状況資料だった。私がある会合で神戸に行ったとき、宿泊トラブルの責任を果たしてくれた方で、それ以来何回か厄介なお願いをしてきた。感謝のFAXを返したが、路線が復興しているかどうかよりも、もともと本数が少ないのだとわかった。私の動きたい地点を結ぶ路線は復活していたが、現地移動は厳しいものがあることを改めて知った。
今回は、ある私学の小学校の教頭先生にメールを出した。事務局にお願いした手紙は、小学校ではなく幼稚園に届けられていた。チラシを早急に仕上げ、一度それを持ってお邪魔することに。
もうひとつは、私がフリースクールっぽい塾を開いていたころ、下記合宿は阿武隈洞、入水洞という観光洞の近くにキャンプした。自然観察会にいわき市の地学教員グループの応援を受けていた関係で、岩泉町の関係者や岩手県の生物・地学関係者と知り合いが拡がった。塾生有志を岩泉町周辺に足を伸ばさせていた。当時の先生達は既に定年退職され、世代交代していたが、彼らOBの紹介を受けて、宮古市在住の方と遠野で出会えないか打診していた。今回の震災のとき県内教員の有志のボランティアを立ち上げていたから、そこから大船渡、陸前高田へと紹介を拡げて欲しかったからだ。先生のお宅は内陸部で津波被害は受けなかったが、自身の被害を受けてお宅は半壊した。無理なお願いとわかっていたが、応答は無理。ただ八月中に東京にお出かけになるので、そのときに東京で会いましょうという話になった。うーん、うまく行かないなと思いつつ。
民宿泊が決まったので、そこのご主人に地元小学校を教えてもらうことに。
ジグソーパズルのようだ。チラシを早く印刷しなければと思う。5日、サポセンで印刷することに。
夜間傾聴:橋本3君(仮名・親御さんと)
p.s.「災害ユートピア」 夜間定時間読書開始、電話の前で。
(校正1回目済み)
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眼のかすみがひどいので慈恵医大眼科に行く。予約ではないので、担当医ではなく、応急処置しかしてくれない。結局、アレルギーを疑ったのか、市販のアレルギー治療点眼薬と同じ処方の薬と人工涙液が処方されただけ。人工涙液は家に残りがあるからと嘘を言って断った。生理食塩水を作ったほうがまし。
様子見、眼の酷使を控える等、常套句を聞いただけだが、カルテに経過が書き加えられたこと程度の意味しかない。ドライアイ状態ではないという情報は得たが、突発的に眼がかすむこの事態は足枷だ。
違う質の診療を受けるには、京大にいかないとという話や、眼圧を下げる手術を受けてもその効果がどうなのか調べたが、患者の選択材料に足るものではない。繰り返し、眼がかすむたびに医師にかかるが、ようするに原因が網膜色素変性症由来の症状なのか、別の原因によるものなのかを識別できないから、様子見として、症状悪化防止の無難な対策でたらい回しするのだと感じる。私としては、急な悪化を疑う必要がないのかなと疑問符付きの小さな安心を得るだけだ。しかし、かし、かすみはかすみ。どうしようもない。
神保町に出て、教科書不足分を発送してもらう支払いを済ませ、相模大野校に報告を入れる。領収書をもってこいという紋きり型に腹をたてつつ帰りに寄ると返事をした。いつもこの事務員と衝突する。マクドナルドのおねえさんは、微笑んでくれるが、常に片手間風応対する事務員はいただけない。
刺激物がどうの、糖尿病のカロリーがどうのといわれそうだが、行きつけのカレーを食べて、四ツ谷に立ち寄った。眼鏡屋の本店に寄って、近距離専用の眼鏡を作る場合の遮光の補助がどうなるかを聞いた。やはり眼科医の診断書が必要で、近距離のみの場合、遮光の補助はふたつめであることもあってだめかもと聞く。眼鏡を調べたらレンズの取り付けが少し緩んでいた。汗のせいだ。しめなおしをしてもらい、無駄足にはならなかった。新宿経由で小田急線で相模大野に着く。領収書を出すが事務員は銀行にでかけていて、不完全燃焼気味の澱を飲み込んで帰宅。
眼科の処方、この処方なら地元眼科医でもいいのだが、網膜色素変性症を嫌がる医師もいる。大学病院の紹介状をと言い出すのだ。専門病院と地元医との分業のような発想はまずない。あいまいに自分の範囲の治療を黙って続けるか、検査機器を理由に大学病院に行けというだけなので、自分の出身大系の病院なり、病院勤務していたところの紹介ということなのだろう。気分転換のシャワーを浴びた。
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片目をつむっていたほうが楽なので、夕飯の支度を先に済ませて、PCメールに集中することに。そこに母がFAXが入っていたと持ち込んできたのは、JTBに頼んでおいた陸前高田・大船渡の市内路線バスの運行状況資料だった。私がある会合で神戸に行ったとき、宿泊トラブルの責任を果たしてくれた方で、それ以来何回か厄介なお願いをしてきた。感謝のFAXを返したが、路線が復興しているかどうかよりも、もともと本数が少ないのだとわかった。私の動きたい地点を結ぶ路線は復活していたが、現地移動は厳しいものがあることを改めて知った。
今回は、ある私学の小学校の教頭先生にメールを出した。事務局にお願いした手紙は、小学校ではなく幼稚園に届けられていた。チラシを早急に仕上げ、一度それを持ってお邪魔することに。
もうひとつは、私がフリースクールっぽい塾を開いていたころ、下記合宿は阿武隈洞、入水洞という観光洞の近くにキャンプした。自然観察会にいわき市の地学教員グループの応援を受けていた関係で、岩泉町の関係者や岩手県の生物・地学関係者と知り合いが拡がった。塾生有志を岩泉町周辺に足を伸ばさせていた。当時の先生達は既に定年退職され、世代交代していたが、彼らOBの紹介を受けて、宮古市在住の方と遠野で出会えないか打診していた。今回の震災のとき県内教員の有志のボランティアを立ち上げていたから、そこから大船渡、陸前高田へと紹介を拡げて欲しかったからだ。先生のお宅は内陸部で津波被害は受けなかったが、自身の被害を受けてお宅は半壊した。無理なお願いとわかっていたが、応答は無理。ただ八月中に東京にお出かけになるので、そのときに東京で会いましょうという話になった。うーん、うまく行かないなと思いつつ。
民宿泊が決まったので、そこのご主人に地元小学校を教えてもらうことに。
ジグソーパズルのようだ。チラシを早く印刷しなければと思う。5日、サポセンで印刷することに。
夜間傾聴:橋本3君(仮名・親御さんと)
p.s.「災害ユートピア」 夜間定時間読書開始、電話の前で。
(校正1回目済み)