父のハプニングがあって、都社協ボラセン主催の「ボランタリー2007フォーラム」の「ワーキング・プア」分科会に参加できなかったので、最終日は、今の私にとって集中的に関わるべきテーマの分科会が無かったのは残念だった。
当初「ぼくらも人生の主人公!~障害児・者のきょうだいの思いと、必要な支援とは~」に参加を予定していたが、寝坊。…途中の講演になんとか滑り込んだという具合。午前中企画苦手は引きこもり青年なみ。旧知の○さんにフロアーで偶然出会い、昼食をご一緒した。親の会を長年支えてきた方だが、Δさんの姿がなかった。Δさんは一昨年亡くなったと聞き愕然とした。心労が症状を加速したのだとのお話。資金繰りである。○さんも白髪が目立つようになっていた。
午後は○さんとふたりで助成金関係と、コミュニティ・ビジネス(CB)の分科会を飛び込み参加で覘いてみたが、CBは私の考えている活動とは、似て非なるものだった。私の活動はソーシャル・ファーム(SF)の方がしっくりくる。
コミュニティ・ビジネス(CB)は、
「市民が地域の資源を活用して行う社会的事業」、
ソーシャル・ファーム(SF)は、
「障害者あるいは労働市場で不利な立場にある人々のために、仕事を生み出し、または支援付き雇用の機会を提供することに焦点をおいたビジネス」
という具合に、後者(SF)は「よりよい社会」を求めるというより、「必要」を根拠に受益者が社会的弱者自身であり、雇用から疎外されている者の雇用獲得活動であるという主体構造の差がある。
○さんの地域ではSFの動きは、従来の授産施設・共同作業所からの雇用拡大のそれである。一方、市民活動の継続・発展として「豊かさ・より大きな課題実現」をめざすCBも、議論として地域で活発に展開されている。しかしCBが雇用創出をも謳っているが、提案者がかならずしも当事者ではないという意味で、焦点とは言い難い、千葉と神奈川の違いはあれ、湘南の市民活動もまた似た状況であると思った。SFは○さん、初耳だった。障碍者の領域の活動と市民活動とが、接しつつも違うことが、明らかになってきた。
私は考えてしまった。一昨年末から協働まち研で追及してきた「市との協働事業」の私の提案の底辺でわだかまってきたこと、それが姿を露にしたのだった。私はCBの言説の隙間に、市民の名前を借りた営利業者が入り込む余地への疑いと同時に、市民という定義のあいまいさも気になっていた。社会はあらゆる階層・階級・職業の人々の利益や情熱の雑煮のようなものと思っている。それを「社会のために何かしたい、地域課題を自ら解決したい」「地域にある資源をもっと活かしたい」とCB解説に語られると、翻訳言語を聞くかのような歯がゆさを感じる。「したい」というあなたは何者なのだろう。自由意志に基づくという応答に、のっぺらぼうのような不気味さを感じるのはおかしいのだろうか。
○さんにその質問をぶつけて困惑させてしまった。要求が特定の利害者集団からだされたものであっても、その内容が社会に通底する場合、それは公共性を帯びる。差別撤廃、格差是正のような場合である。内容を抽象することで適応層を拡散させて公益性を確保しているわけではない。変だよCBというのが、今回の結論。
「…しかし、金がないなあ」という私の独り言に、「そういう問題じゃないだろ」と自答するのを、○さんは、「貧乏性にもなるよねえ」と当たっているのか、はずしているのかわからない応答をして、夕闇の神楽坂で別れたのだった。
-----
帰りの時間が予定より早かったので、東京シューレに通う◇君に会うことにした。新宿に出て話した。*君の就職活動の関連情報を得るためだった。◇君は自営業の家のひとりっ子だった。お店を継ぐのかを聞いてみた。自分のやりたい世界とまったく違う職種のお店なのでいやなのだ、でも…と迷いは、相変わらずだった。◇君は*君より若い。親御さんも若いからまだ問題は焦点化していない。しかし継ぐには専門性を要求されるから、最低専門学校で学ばないと、仕事は実質無理なのだ。
彼の親戚が横須賀にいるので、私はたまに大船で彼と会っていた。結構アクティブな奴なので、*君に会わせてみたかった。4歳年下だ。
私は彼がもつPCの技能を「わーく」に活かしてもらえないか聞きたかったのだ。彼は「就労支援」に抵抗をもった。大人社会にある自活自立不可欠論、迷惑をかけず生きる論の香りが「就労支援」には染み付いているからだった。「働かない」「引きこもる」も選択のうちと聞いたとき、そこに罪悪視の厳しい視線が注がれるのは必至だ。「ひとの金で食うのはとんでもない」ということから、自己言及的に「人の負担を避けるために」「働かねばならぬ」が引き出されていく。◇君は私の発想の中に、この強要の論理がないか確かめているのだった。
「働かない」「引きこもる」これも選択のひとつという言葉は、障碍者の活動にとっては異様なことではないのだった。「就労」はむしろ「社会参加の形」という視点から拡張する形で語られる。私は引きこもり青年にとって就労は、社会との関わりの再構成なのだと思っているので、「社会参加の形」という考え方は自然に伝わってくる。だから自己実現の延長上の話として「就労」を考えるから、「働かない」「引きこもる」よりは「心身の状態に応じて働き」「他者に心開いてみる」ことを薦める。
そうなのだ「就労促進」という言葉もあるが、この語など「国民皆兵」と重なって見えたりする。しかし以前、労働行政畑の+さんに応答したように、「働くこと=受苦」とは思っていない。現代の労働は分業に侵されているが、「働くこと=自己実現」という側面もあるから、すべて「働くこと=必要苦」とは思っていない。「働かない」は「企業就労限定の枠内では『働かない』」だし、「消費文明に流されないために『引きこもる』」なら賛成の立場だ。勿論、反対の立場ではない。
引き止める◇君と再会を約束して、湘南新宿ラインに乗り込んだ。
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ここ数日、*君やご両親からぴたりと連絡がなくなっていた。こういうときは何かが起きていた。家に戻って、両親の夕食の補完をしてから、ありあわせのミカンを袋につめて再び茅ヶ崎駅に戻った。*君のアパートを訪ねてみた。すると*君がきょとんとした顔で出てきた。
取り越し苦労とわかり、お邪魔して、お茶を飲みつつ話をした。音沙汰無いと不安になる私の困った傾向は、親に諫めていたことなのにと、*君の後姿を見ながら自嘲した。*君は連休明けに携帯を直し、新機種を手に入れる。こちらから連絡できなかったから化け物(憶測)が出たのだ。これで一息つきつつ、彼と連休明けにハローワークに一緒に出かけることを約束した。
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夜間傾聴:1名。 レギュラー男性。
電話: 1名。 支援者
マイクロソフト助成金書式書き込み中。
生業、入試期間中の不登校・引きこもり青少年の憂鬱軽減巡回許可申請。
品川裕香さん・著「心からのごめんなさいへ」メモ。
以上
当初「ぼくらも人生の主人公!~障害児・者のきょうだいの思いと、必要な支援とは~」に参加を予定していたが、寝坊。…途中の講演になんとか滑り込んだという具合。午前中企画苦手は引きこもり青年なみ。旧知の○さんにフロアーで偶然出会い、昼食をご一緒した。親の会を長年支えてきた方だが、Δさんの姿がなかった。Δさんは一昨年亡くなったと聞き愕然とした。心労が症状を加速したのだとのお話。資金繰りである。○さんも白髪が目立つようになっていた。
午後は○さんとふたりで助成金関係と、コミュニティ・ビジネス(CB)の分科会を飛び込み参加で覘いてみたが、CBは私の考えている活動とは、似て非なるものだった。私の活動はソーシャル・ファーム(SF)の方がしっくりくる。
コミュニティ・ビジネス(CB)は、
「市民が地域の資源を活用して行う社会的事業」、
ソーシャル・ファーム(SF)は、
「障害者あるいは労働市場で不利な立場にある人々のために、仕事を生み出し、または支援付き雇用の機会を提供することに焦点をおいたビジネス」
という具合に、後者(SF)は「よりよい社会」を求めるというより、「必要」を根拠に受益者が社会的弱者自身であり、雇用から疎外されている者の雇用獲得活動であるという主体構造の差がある。
○さんの地域ではSFの動きは、従来の授産施設・共同作業所からの雇用拡大のそれである。一方、市民活動の継続・発展として「豊かさ・より大きな課題実現」をめざすCBも、議論として地域で活発に展開されている。しかしCBが雇用創出をも謳っているが、提案者がかならずしも当事者ではないという意味で、焦点とは言い難い、千葉と神奈川の違いはあれ、湘南の市民活動もまた似た状況であると思った。SFは○さん、初耳だった。障碍者の領域の活動と市民活動とが、接しつつも違うことが、明らかになってきた。
私は考えてしまった。一昨年末から協働まち研で追及してきた「市との協働事業」の私の提案の底辺でわだかまってきたこと、それが姿を露にしたのだった。私はCBの言説の隙間に、市民の名前を借りた営利業者が入り込む余地への疑いと同時に、市民という定義のあいまいさも気になっていた。社会はあらゆる階層・階級・職業の人々の利益や情熱の雑煮のようなものと思っている。それを「社会のために何かしたい、地域課題を自ら解決したい」「地域にある資源をもっと活かしたい」とCB解説に語られると、翻訳言語を聞くかのような歯がゆさを感じる。「したい」というあなたは何者なのだろう。自由意志に基づくという応答に、のっぺらぼうのような不気味さを感じるのはおかしいのだろうか。
○さんにその質問をぶつけて困惑させてしまった。要求が特定の利害者集団からだされたものであっても、その内容が社会に通底する場合、それは公共性を帯びる。差別撤廃、格差是正のような場合である。内容を抽象することで適応層を拡散させて公益性を確保しているわけではない。変だよCBというのが、今回の結論。
「…しかし、金がないなあ」という私の独り言に、「そういう問題じゃないだろ」と自答するのを、○さんは、「貧乏性にもなるよねえ」と当たっているのか、はずしているのかわからない応答をして、夕闇の神楽坂で別れたのだった。
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帰りの時間が予定より早かったので、東京シューレに通う◇君に会うことにした。新宿に出て話した。*君の就職活動の関連情報を得るためだった。◇君は自営業の家のひとりっ子だった。お店を継ぐのかを聞いてみた。自分のやりたい世界とまったく違う職種のお店なのでいやなのだ、でも…と迷いは、相変わらずだった。◇君は*君より若い。親御さんも若いからまだ問題は焦点化していない。しかし継ぐには専門性を要求されるから、最低専門学校で学ばないと、仕事は実質無理なのだ。
彼の親戚が横須賀にいるので、私はたまに大船で彼と会っていた。結構アクティブな奴なので、*君に会わせてみたかった。4歳年下だ。
私は彼がもつPCの技能を「わーく」に活かしてもらえないか聞きたかったのだ。彼は「就労支援」に抵抗をもった。大人社会にある自活自立不可欠論、迷惑をかけず生きる論の香りが「就労支援」には染み付いているからだった。「働かない」「引きこもる」も選択のうちと聞いたとき、そこに罪悪視の厳しい視線が注がれるのは必至だ。「ひとの金で食うのはとんでもない」ということから、自己言及的に「人の負担を避けるために」「働かねばならぬ」が引き出されていく。◇君は私の発想の中に、この強要の論理がないか確かめているのだった。
「働かない」「引きこもる」これも選択のひとつという言葉は、障碍者の活動にとっては異様なことではないのだった。「就労」はむしろ「社会参加の形」という視点から拡張する形で語られる。私は引きこもり青年にとって就労は、社会との関わりの再構成なのだと思っているので、「社会参加の形」という考え方は自然に伝わってくる。だから自己実現の延長上の話として「就労」を考えるから、「働かない」「引きこもる」よりは「心身の状態に応じて働き」「他者に心開いてみる」ことを薦める。
そうなのだ「就労促進」という言葉もあるが、この語など「国民皆兵」と重なって見えたりする。しかし以前、労働行政畑の+さんに応答したように、「働くこと=受苦」とは思っていない。現代の労働は分業に侵されているが、「働くこと=自己実現」という側面もあるから、すべて「働くこと=必要苦」とは思っていない。「働かない」は「企業就労限定の枠内では『働かない』」だし、「消費文明に流されないために『引きこもる』」なら賛成の立場だ。勿論、反対の立場ではない。
引き止める◇君と再会を約束して、湘南新宿ラインに乗り込んだ。
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ここ数日、*君やご両親からぴたりと連絡がなくなっていた。こういうときは何かが起きていた。家に戻って、両親の夕食の補完をしてから、ありあわせのミカンを袋につめて再び茅ヶ崎駅に戻った。*君のアパートを訪ねてみた。すると*君がきょとんとした顔で出てきた。
取り越し苦労とわかり、お邪魔して、お茶を飲みつつ話をした。音沙汰無いと不安になる私の困った傾向は、親に諫めていたことなのにと、*君の後姿を見ながら自嘲した。*君は連休明けに携帯を直し、新機種を手に入れる。こちらから連絡できなかったから化け物(憶測)が出たのだ。これで一息つきつつ、彼と連休明けにハローワークに一緒に出かけることを約束した。
-----
夜間傾聴:1名。 レギュラー男性。
電話: 1名。 支援者
マイクロソフト助成金書式書き込み中。
生業、入試期間中の不登校・引きこもり青少年の憂鬱軽減巡回許可申請。
品川裕香さん・著「心からのごめんなさいへ」メモ。
以上