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☆「失われた時を求めて」メモ63 (「逃げ去る女」読了)

2008年07月15日 23時48分31秒 | 文学
意外な人が共通の趣味を持っていることを知って驚いた。
こんなに身近に小林秀雄ファンがいたなんて。
司馬遼太郎ファンや宮崎駿ファンや内田樹ファンであれば驚くことはないのだが、小林秀雄ってファンがいるんだな。
驚いたので、小林秀雄と坂口安吾の対談「伝統と反逆」、そして坂口安吾の「教祖の文学」を読む。
石田衣良の本は読んだことはないのだが、テレビのワイドショーでのコメントを聞く限り読む気にならない。そのようなことはよくあって、テレビでのほんの少しの発言でも、インタビューでの発言でも、その人のちょっとした発言でだいたい分かってしまうようなことはある。
少しの言葉であっても、まるっきりそのひと的でないものはその人物からは出てこないはずだと思っている。
この間テレビで、あるモノマネ芸人が「ナインティナインの岡村さんとなになにしたときの織田裕二」というモノマネをやっていて、なんで織田裕二だけ呼び捨てなんだ? と思ったのだが、そのあとその同じ芸人が先輩芸人には「さん」付け、後輩はきっちりと呼び捨てにしている姿を見て、ああそういうひとなのか、と思った。芸人同士の上下関係を絶対的だと思ってるんだなと。
程度はあるのだが、どちらにしても芸人同士の上下関係をテレビで露骨に見せられるのは好きではない。
なんの話だっけ。
ああ、ちょっとした発言でも分かるって話。
坂口安吾の、対談と短い評論を読んだのだが、やっぱり一貫してると思った。
安吾は型にはまることによる美しさをとことん否定する、というか信じられないひとだ。すべての装飾をとっぱらったところに本当の人間が存在すると思っている。
で、そういうふうに感じて坂口安吾の本はしばらく読まなくていいかなと思った。いま読みたいものではない。
代わりに「教祖の文学」を読んで、批判されているはずなのに、小林秀雄を読みたくなった。対談で安吾自身が語っているように本当に小林秀雄を誉めているのかもしれない。

失われた時を求めて 11 第六篇 完訳版 (11) (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」11巻読了。
・「逃げ去る女」を読み終わる。
あと二冊。「見出された時」だけだ。
・アルベルチーヌ復活?
アルベルチーヌから電報が届く。
もしかしてこれから読む人がいるかもしれないので詳しくは書かないが、すごく前から用意されたネタが披露された。
語り手のなかでアルベルチーヌは死んでいたのだが、電報によって生き返る。
あるひとが死んだとか生きているというのは、心のなかでというか記憶のなかでというか脳のなかで生きているとか死んでいるとかいうことであって、実際に死んでるとか生きてるとかいうのは別の次元のことだ。
・ジルベルトがサン=ルーと結婚。
そしてジルベルトは将来ゲルマント公爵夫人になる。
三島由紀夫の「豊饒の海」で、最後にヒロインがある寺の門跡(僧のこと。だって三島が門跡って呼んでるんだもの)になっているのだが、それを思い出した。
重要な役どころを別の登場人物が襲名している。
・サン=ルーもいつの間にかゲイになってる。
モレルの魅力にみんなやられてしまうのだ。
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