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☆「失われた時を求めて」メモ62

2008年07月09日 00時33分32秒 | 文学
長い小説というのはいろいろあるけど、これまでの経験でいえば、一般的な文庫で三冊くらいで終わる本がまあ(僕の)限界の長さなんじゃないかと思う。
それ以上になるとどうしても退屈してきたり、いい加減に読んだり、途中でほかの本に興味が移ったりしてしまう。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」(新潮文庫三冊)は面白かったという印象だが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(文春文庫八冊)は確かに面白かったけど退屈なところもあったな、という印象。モンゴメリーの「赤毛のアン」シリーズも三冊くらいでやめちゃったように思う。橋本治の「窯変源氏物語」(中公文庫十四冊)も半分も読めずに挫折した。
あまりにも長い小説というのは体質に合っていないのだと思う。マラソンは子供のころから苦手だし、飽きっぽいし。
プルーストの「失われた時を求めて」の十三冊というのも長すぎるのだが、もう十一冊目まで来ているので是非とも終わりまで読みたい。だいぶ、失われた興味を求めて、という感じになってきてはいるのだが。
このあと、長い小説で読んでおかないといけないなあ、と思っているのは、
メルヴィルの「白鯨」
トルストイの「戦争と平和」
ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」
くらいか。「白鯨」は二度ほど挫折している。そんなに長いわけじゃないのに最後まで読めない。
トルストイには最近興味があるので読めるだろう。
しかし、岩波文庫と新潮文庫の間で迷っている。いまの気分は七割ほど岩波文庫。やっぱり新訳の方がいいのかなあ。
上記三作品を読み終わった暁には「ごちそうさまでした」と言って、もう二度と本を読まないこととしたい。(んなわけない)。
そういえばこのところのドストエフスキーブームで新潮文庫の「未成年」が復刊されたので購入した。大学のときに岩波文庫版は買っていたのだが読まないままに赤茶けてしまっている。今度は赤茶ける前に読みたい。

プルースト「失われた時を求めて」11巻406ページまで。
・語り手の書いたものが「ル・フィガロ」紙に載る。
・「デポルシュヴィル嬢」という名前は勘違いで本当の名前は「フォルシュヴィル嬢」だった。でもって彼女は幼なじみのジルベルト・スワンだった。
スワンが死んで、スワン夫人(オデット)が再婚している。
ジルベルトはユダヤ人の血が入っていることを隠している。
・アルベルチーヌの死が悲しくなくなっていく。
死んだのはアルベルチーヌではなくて、アルベルチーヌとともにいたときの自分だ、というところが、そうだよなあと思った。
・語り手はアンドレと肉体関係を持っている。アンドレはのちにオクターヴと結婚するらしい。
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