ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

☆「失われた時を求めて」メモ64

2008年07月17日 22時46分50秒 | 文学
よしもとばななの「ひとかげ」がどういう本だか気になってハードカヴァーの本を立ち読みしていると、まえがきで、自分の初期のころのものだけが好きであるとずっと言い続ける人がいてそれでもいいのだが……、という話をしていた。
確かに、よしもとばななは「キッチン」が一番良くて、村上春樹は「ノルウェイの森」で、村上龍は「トパーズ」で、というようなことを言ってしまうことはあるのだが、作家に付き合うというのはそういうことじゃなくて、ダメなときも伴走する、自分の判断で相手を批判しない、ということなんじゃないかと思う。
出会ったときが一番良くて、あとはどちらもそこから離れるだけで、自分の位置から相手を批判してしまうというのは夫婦でも同じようなことはあるな。批判するとき、相手は(自分も)もう昔の位置にはいない。しかし相手が昔の位置にいないと言って批判する。
そんなこんなを考えました。

プルースト「失われた時を求めて」12巻148ページまで。
・「見出された時」に突入。
・ゴンクール兄弟の日記に登場するヴェルデュラン夫妻やその他の人々の描写を読む。
読みにくい日記だった。
三島由紀夫とか丸谷才一みたいな雰囲気かな。大物の雰囲気がきちんと出ていた。文飾過多な感じ。
最近は知らない作家の本を読むときに書き出しが句点(。)なしで長々と続いている文章だと、「純文学純文学」と言って(「くわばらくわばら」と言う感じで)避けてしまう。肩に力入れて頑張ってるようで付き合う自信がなくなる。保坂和志の本はそれが原因で読めない。
なんか立派な門構えのお屋敷って入りにくいのと似ている。どちらかというと勝手口から入りたい人間です。ごめんやす~。
この日記はプルーストが真似して書いているらしいが、もともとのゴンクール兄弟の本を読んだことはないので(読んでる日本人は何人くらいいるのだろう)、似ているのかどうかは分からない。
ゴンクール賞はよく聞くがゴンクール兄弟の作品は知らない。直木賞と直木三十五の関係みたいなものか。それとも純文学系だから平林たい子賞か。
・戦争の話。
第一次世界大戦当時のフランスのことって全く知らない。
コメント

☆「失われた時を求めて」メモ63 (「逃げ去る女」読了)

2008年07月15日 23時48分31秒 | 文学
意外な人が共通の趣味を持っていることを知って驚いた。
こんなに身近に小林秀雄ファンがいたなんて。
司馬遼太郎ファンや宮崎駿ファンや内田樹ファンであれば驚くことはないのだが、小林秀雄ってファンがいるんだな。
驚いたので、小林秀雄と坂口安吾の対談「伝統と反逆」、そして坂口安吾の「教祖の文学」を読む。
石田衣良の本は読んだことはないのだが、テレビのワイドショーでのコメントを聞く限り読む気にならない。そのようなことはよくあって、テレビでのほんの少しの発言でも、インタビューでの発言でも、その人のちょっとした発言でだいたい分かってしまうようなことはある。
少しの言葉であっても、まるっきりそのひと的でないものはその人物からは出てこないはずだと思っている。
この間テレビで、あるモノマネ芸人が「ナインティナインの岡村さんとなになにしたときの織田裕二」というモノマネをやっていて、なんで織田裕二だけ呼び捨てなんだ? と思ったのだが、そのあとその同じ芸人が先輩芸人には「さん」付け、後輩はきっちりと呼び捨てにしている姿を見て、ああそういうひとなのか、と思った。芸人同士の上下関係を絶対的だと思ってるんだなと。
程度はあるのだが、どちらにしても芸人同士の上下関係をテレビで露骨に見せられるのは好きではない。
なんの話だっけ。
ああ、ちょっとした発言でも分かるって話。
坂口安吾の、対談と短い評論を読んだのだが、やっぱり一貫してると思った。
安吾は型にはまることによる美しさをとことん否定する、というか信じられないひとだ。すべての装飾をとっぱらったところに本当の人間が存在すると思っている。
で、そういうふうに感じて坂口安吾の本はしばらく読まなくていいかなと思った。いま読みたいものではない。
代わりに「教祖の文学」を読んで、批判されているはずなのに、小林秀雄を読みたくなった。対談で安吾自身が語っているように本当に小林秀雄を誉めているのかもしれない。

失われた時を求めて 11 第六篇 完訳版 (11) (集英社文庫 ヘリテージシリーズ)プルースト「失われた時を求めて」11巻読了。
・「逃げ去る女」を読み終わる。
あと二冊。「見出された時」だけだ。
・アルベルチーヌ復活?
アルベルチーヌから電報が届く。
もしかしてこれから読む人がいるかもしれないので詳しくは書かないが、すごく前から用意されたネタが披露された。
語り手のなかでアルベルチーヌは死んでいたのだが、電報によって生き返る。
あるひとが死んだとか生きているというのは、心のなかでというか記憶のなかでというか脳のなかで生きているとか死んでいるとかいうことであって、実際に死んでるとか生きてるとかいうのは別の次元のことだ。
・ジルベルトがサン=ルーと結婚。
そしてジルベルトは将来ゲルマント公爵夫人になる。
三島由紀夫の「豊饒の海」で、最後にヒロインがある寺の門跡(僧のこと。だって三島が門跡って呼んでるんだもの)になっているのだが、それを思い出した。
重要な役どころを別の登場人物が襲名している。
・サン=ルーもいつの間にかゲイになってる。
モレルの魅力にみんなやられてしまうのだ。
コメント

☆プラトン「メノン」感想

2008年07月14日 01時22分31秒 | 文学
不倫というのはそんなに悪いことなんだろうかと芸能人の不倫騒ぎがあるたびに思う。不倫というくらいだから悪いんだろうけれど、仕事を降板しなければならないほどのことなのかなあ。
テレビではとんでもなく悪いことのように言われるけれど、お茶の間では「みんなやってるよ」とか「そんなに悪いの?」というようなことが多い。
あ、ごめんなさい。私が不倫をしているような書き方になっていますね。相対的にそこまで悪いことだとは思いませんが、自分ではやってません。
相対的に、と言うのは、「人殺し」とか「盗っ人」とかそういうのに比べると悪くないんじゃないのかなあ、という程度の意味です。
よく、不倫の相手(特に女性)のことを「泥棒猫」と言いますが、これも「泥棒ってのは悪いことだけれど、お前のやったことはそれくらい悪いのだ。しかも人間じゃなく、猫だ!」という熱い思いが含まれているように思う。つまり逆にいえば、泥棒ほどは不倫は悪いことではない、ということだろう。

メノン (岩波文庫)と、いうようなことを考えながら読んだわけではないが、「徳は教えることができるか」ということが主なテーマであるプラトンの「メノン」(岩波文庫)を読んだ。
最終的に、徳は教えることはできず、神の恵みによってそなわるものだという話になる。
なんだか騙されたような結論だが、しかしもしかしたらそれが一番正しいのかもな。すべてに明快で科学的な答えを求めようとすることで徳は失われているのかもしれない。
と、意味不明瞭な感想でまとめておこう。

ソクラテスのことがだんだん好きになる。
コメント

☆すべてが駿になる(映画「ゲド戦記」感想)

2008年07月12日 12時53分11秒 | 映画
ふと触ると、頬の下あたり、エラの下あたりにヒゲの剃り残しがある。
この感覚懐かしい。
これだから電気カミソリは駄目なんだよ。思い出した。ここをいっつも剃り残しちゃうんだった。で、見つけると一日中触ってしまうのだった。
だから私は電気カミソリをやめたのだった。楽ではあるのだが。
週一回くらいは手動でじょりじょり剃ったほうがいいかもな。

この前、お酒の席で話していて森博嗣の話になり、「スカイ・クロラ」シリーズはあんまり好きじゃないけど「すべてがFになる」シリーズは面白いということを聞いた。どんな場所でもどんな些細な話でも本の話だけは決して忘れない。バスで後ろに座った人たちが話していても聞き耳を立ててしまう。
で、森博嗣の話は聞いたのだが、推理小説には興味がないので「スカイ・クロラ」の、特に映画に惹かれて予告編などを見てみた。
戦争、飛行機乗り、というところには魅力を感じないけど、大人にならない子供というセンチな設定には惹かれる。
大友克洋の「AKIRA」のアキラくんとか、松本零士の「銀河鉄道999」の”キカイのカラダ”とか、まあそういう設定って年取った少年には魅力的だ。
押井守というところももちろん気になる。
ものすごく好き、ではないが気になるひとだ。
あとはシャマランの映画「ハプニング」も気になる。
が、DVDでいいかなあ。

来月発売の文庫では、
カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」(ハヤカワepi文庫)
よしもとばなな「ひとかげ」(幻冬舎文庫)
東野圭吾「容疑者Xの献身」(文春文庫)
が気になる。
「わたしを離さないで」はやっとこさ読める。
よしもとばななの本は「とかげ」のリメイクらしいけどどういう本なのだろう、「とかげ」ってどんな話だったか憶えていない。続編ではなくリメイクというのもよくわからない。市川崑か。そのうち「キッチン」のリメイクもするのだろうか。そのときは「キッチン」のリフォームと呼びたい。
東野圭吾の、このシリーズは最初の短編集は読んだけど二冊目は読まなかった。東野圭吾は最近の推理小説のなかでは例外的に読めるのだが(昔からの頑固な推理小説好きが偉そうに言っているように聞こえるがそうではなくて単に僕でも読めるってことです)、たぶん福山雅治のドラマが面白くなかったせいでそれに影響されてつまらなく感じた。

ゲド戦記録画していた宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」を見た。
公開時に悪い評判ばかりを聞いていてどのくらい酷いものかと期待していたのだが、そこまでひどくなかった。
確かに下手なのかもしれないが、おもしろい部分もあった。
音楽でも映画でも小説でも、ここは誰だれの影響だ、とか、ここはあれだな、とかいうことを感じることがあるとわりと嬉しい。
この映画は多くの部分が宮崎駿の引用で出来ていた。
これは、すごかった。
例を挙げると、「ベッド取っちゃって悪いね」(「魔女の宅急便」)の台詞とか、犬(この映画ではテルーという少女)が普段はあまりなつかないのにこの人にだけはなつくのを驚く(「ルパン三世 カリオストロの城」)場面とか、抱き合って本当の名前を口にする(「千と千尋の神隠し」)とか、まあ満載だった。
息子はすべて父の映画から学んだのだと(勝手に)思って(勝手に)感動した。
最後は「まんが日本昔ばなし」のようだった。市原悦子の声の山姥(やまんば)に主人公が襲われ、そして倒すシーンを何度見てきたことか(涙)。
コメント

☆プラトン「ゴルギアス」感想

2008年07月10日 22時54分56秒 | 文学
最近はコメント欄はほとんど読んでいなかったのだが、内田樹のブログのコメント欄(とトラックバック)が閉鎖されている。
うーむ。

ゴルギアス (岩波文庫)ソクラテスによるニーチェ批判とアランが言っていて興味を持った、プラトンの「ゴルギアス」(岩波文庫)を読んだ。
久しぶりにプラトンの本を読むと面白かった。
最初、ねちねちと責めて嫌なやつだなとソクラテスのことを思っていたのだが、読んでいると、いや、この人は本気なのだなと印象が変わり好感が持てた。
僕自身がそうできているとは全く思わないが、トルストイとかソクラテスとか真面目に真剣に考えている人に最近とても好感が持てる。
ただ生きるだけではなく、善く生きること、快楽のためでなく善きことのために生きること、それ以外に生きていく目的ってほんとはないんだなあ。
斜に構えていては読めない本というものがある。

読んでいるとソクラテスの話に「え、そうかあ?」って思うところはあって、ソクラテスの対話(対戦)相手カルリクレスに「もっとがんばれよ!」と思うこともあるにはあったのだが、しかしソクラテスのように考えて生きたひとがいたということがそれだけで素晴らしい。
コメント

☆「失われた時を求めて」メモ62

2008年07月09日 00時33分32秒 | 文学
長い小説というのはいろいろあるけど、これまでの経験でいえば、一般的な文庫で三冊くらいで終わる本がまあ(僕の)限界の長さなんじゃないかと思う。
それ以上になるとどうしても退屈してきたり、いい加減に読んだり、途中でほかの本に興味が移ったりしてしまう。
トルストイの「アンナ・カレーニナ」(新潮文庫三冊)は面白かったという印象だが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(文春文庫八冊)は確かに面白かったけど退屈なところもあったな、という印象。モンゴメリーの「赤毛のアン」シリーズも三冊くらいでやめちゃったように思う。橋本治の「窯変源氏物語」(中公文庫十四冊)も半分も読めずに挫折した。
あまりにも長い小説というのは体質に合っていないのだと思う。マラソンは子供のころから苦手だし、飽きっぽいし。
プルーストの「失われた時を求めて」の十三冊というのも長すぎるのだが、もう十一冊目まで来ているので是非とも終わりまで読みたい。だいぶ、失われた興味を求めて、という感じになってきてはいるのだが。
このあと、長い小説で読んでおかないといけないなあ、と思っているのは、
メルヴィルの「白鯨」
トルストイの「戦争と平和」
ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」
くらいか。「白鯨」は二度ほど挫折している。そんなに長いわけじゃないのに最後まで読めない。
トルストイには最近興味があるので読めるだろう。
しかし、岩波文庫と新潮文庫の間で迷っている。いまの気分は七割ほど岩波文庫。やっぱり新訳の方がいいのかなあ。
上記三作品を読み終わった暁には「ごちそうさまでした」と言って、もう二度と本を読まないこととしたい。(んなわけない)。
そういえばこのところのドストエフスキーブームで新潮文庫の「未成年」が復刊されたので購入した。大学のときに岩波文庫版は買っていたのだが読まないままに赤茶けてしまっている。今度は赤茶ける前に読みたい。

プルースト「失われた時を求めて」11巻406ページまで。
・語り手の書いたものが「ル・フィガロ」紙に載る。
・「デポルシュヴィル嬢」という名前は勘違いで本当の名前は「フォルシュヴィル嬢」だった。でもって彼女は幼なじみのジルベルト・スワンだった。
スワンが死んで、スワン夫人(オデット)が再婚している。
ジルベルトはユダヤ人の血が入っていることを隠している。
・アルベルチーヌの死が悲しくなくなっていく。
死んだのはアルベルチーヌではなくて、アルベルチーヌとともにいたときの自分だ、というところが、そうだよなあと思った。
・語り手はアンドレと肉体関係を持っている。アンドレはのちにオクターヴと結婚するらしい。
コメント

☆電気カミソリ購入 (メモ61)

2008年07月07日 01時10分10秒 | 文学
男の子にとって初めてのヒゲ剃りは、女の子にとっての初めてのブラジャーのようなものだ(知らないけど)。
そこにはさまざまな思い出がある、のかもしれない。僕は本以外の物に対する執着があまりないのでヒゲ剃りの思い出もあまりない。
何かの映画を見に行ったときに、トム・ハンクスが自分の余命が短いことが分かって息子のためにビデオを撮影するという映画の予告をしていて、そこでトム・ハンクスがヒゲの剃り方をレクチャーしていた。顎から首ではなくて首から顎に、下から上に向かって剃るんだって教えてた。
そのときに「ふーん、そうなんだ。下から上か。流れに逆らって剃るんだな。」とものすごく納得したのを憶えているので、僕は当時カミソリでヒゲを剃っていなかったのだろう。
この映画のタイトルをいま調べようと思ったら、トム・ハンクス出演ではなく、マイケル・キートン出演の「マイ・ライフ」であることが分かる。記憶って曖昧なものだ。絶対にトム・ハンクスだと思ってた。まあ似たような雰囲気ではあるけど。
で、この映画(1993年制作)のあと、たぶん使っていた電気カミソリが壊れたかなにかでアナログ、というかアコースティックというか、電動じゃない手動のカミソリを使うようになった。
しかし毎朝のことが面倒になりとうとう新しい電気カミソリを購入。
ついでに体重計と、取っ手の部分が壊れていたドライヤーも購入した。
体重計は体脂肪とかいろいろなことがわかる。あんまり何でもかんでも数字で理解しようとする傾向はいかがなものかと最近よく思う。

プルースト「失われた時を求めて」11巻324ページまで。
・アルベルチーヌの思い出話が続く。
ちょっとくどい。
アルベルチーヌが好みそうな女性に、語り手も惹かれる。
・新たな女性(デポルシュヴィル嬢)に惹かれる。
・あともう少しなので頑張って読まなければならない。
コメント

☆トルストイに恋して

2008年07月06日 01時12分08秒 | 文学
両親が遊びに来たので「Wiiスポーツ」でテニスとかボーリングをする。
お年寄りでも楽しめるゲーム機であることを実感。

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)トルストイの「光あるうち光の中を歩め」(新潮文庫)を読んだ。
トルストイは熱狂的なキリスト教徒というイメージなのだけれど、きちんとキリスト教を批判する人物に納得できるキリスト教批判を言わせている。このへんで、弱い敵を登場させて甘いことを言わせてコテンパンにやっつけられるようなことをやっていると、出来レースで駄目だなと思うのだが(そういうことってよくあるのだが)、そんなことがなく、すごい。
読みやすく、おもしろかった。
真摯であるということは何よりも素敵なことだとトルストイを読むと思う。
福音書に最近少し興味がある。いつか読んでみるつもり。
トルストイと言えば、この間書店で「戦争と平和」は岩波文庫と新潮文庫のどっちが良いのだろうかと最初だけ読み比べてみたのだが、値段も安いし新潮文庫でいいかなと思った。新潮文庫だと四冊で読めるし(岩波文庫だと六冊)。

ベッカムに恋してグリンダ・チャーダ監督(知らない)の「ベッカムに恋して」を録画していたので見た。
イギリス社会のなかで暮らすインド人の女の子の話だった。
インド人の両親の言うように暮らしていくのもありなんじゃないかなと最近は思ってしまう。アメリカに渡って女子サッカーの選手になるのって大変じゃないかなあ。
個人の力をひとりで精一杯発揮することが最もいいことだというふうには最近思えなくなっちゃったな。
「マッチポイント」のジョナサン・リース・マイヤーズが女子サッカーチームの監督役で出ていた。かっこいい。
キーラ・ナイトレイは昔から思うのだが、顔を見るだけで不快になる。まあそういう役なのかもしれないが、あんまり傍に寄りたくないひとだなと思ってしまう。
おもしろい映画だった。

「光あるうち光の中を歩め」も「ベッカムに恋して」も考え方の対立を描くのだが、ふたつの意見があってそのどちらもそれぞれの論理のなかでは正しい場合(だいたいいつもそうなのだが)、結局はそのときの気分でどっちが自分に合ってるかで決めるしかないものなんだろうなあ。
理屈で考えても解決できる問題ではない。
コメント

☆チャールズ・ラム/メアリー・ラム「シェイクスピア物語」上巻

2008年07月02日 23時01分23秒 | 文学
シェイクスピア物語 上(岩波文庫)チャールズ・ラム/メアリー・ラム作「シェイクスピア物語」(岩波文庫)の上巻を読んだ。
おもしろくってすぐ読めた。
これまで思ったことなかったけど、シェイクスピアの話って日本昔話とかおとぎ話みたいなところがある。いいひとは幸せになり悪いやつは不幸になる。いいひとが不幸になることもあるが、悪いやつが幸せになることはない。たぶんなかった。
きちんと教訓が含まれている。
これまで本当にあらすじが追えていなかったことがわかる。

最後に読んだ「マクベス」では、三人の魔女の予言によってマクベスとその妻が王を殺して自分が王になる。この話は運命とか魔女の予言ってあるのだな、それには逆らえないのだな、と昔から思っていたのだが、あらためて読んでみると、自己暗示が一度始まるとそこから逃れることは難しいという話なのだな、と思った。
アランはどこかで、占いをされるとそれに囚われてしまうので、そういう機会からはできるだけお逃げなさいと言っていた。
「マクベス」と言えば、黒澤明の「蜘蛛巣城」の原作らしいので、「蜘蛛巣城」を見るときはもう一度読み返そう。
コメント

☆「失われた時を求めて」メモ60

2008年07月01日 01時10分11秒 | 文学
映画「恋におちたシェイクスピア」を見たときに、シェイクスピアの生きていた時代に彼の芝居に出演する俳優は全員男性だったということを知った。
シェイクスピアの芝居では女性が男性の扮装をして旅に出たり人を騙したりということがよくあるみたいだけど、実際の彼の時代の舞台では男性の役者の扮した女性が男性の格好をするという、「裏の裏は表」みたいなことをやっていたということになる。
「シェイクスピア物語」(岩波文庫)はなかなか面白いが、てにをはの間違いが二箇所あった。あまり気付くことがないので珍しい。

プルースト「失われた時を求めて」11巻192ページまで。
・サン=ルーがひとと話しているのを立ち聞きしてしまう。
語り手と話しているときはひとの良い優しいお兄さんといった印象だったが、案外意地の悪いところもあって驚く。別に語り手の悪口を言っていたわけではないが。
学校でおとなしい子が家族と一緒にいるときの様子をたまたま見たときに案外活き活きした様子だったり、会社では物腰の柔らかい人が奥さんにはものすごく暴君だったり、ということは恐らくよくあることだろう。
・アルベルチーヌが落馬して死ぬ。
死んでから生前彼女が語り手に送った手紙が届く。
逃げた女は戻って来ようとしていたことが分かる。
・何を見てもアルベルチーヌを思い出す。
コメント