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☆個人的な文体の話

2008年04月22日 22時06分12秒 | 文学
たまに、「あの本を読んだときどう思ったんだっけ?」とか「この人について何か書いたことがあったっけ?」と思ったときに、このブログの過去のものから検索して読んでみることがあるのだが、やはり書き方の癖みたいなものが見られる。読みやすく書こう、ということくらいしか心掛けていないのだけれど。
自分のことで、あまり気づいてなかったのだが。
自分の体臭はよくわからないというようなものだろうか。
気にして読んでみて気づいたのは「……だなあ。」が多いということ。これは少しべたついた感じがするので「……だな。」に変えたほうがいいかと考えている。
それと、これは別に(僕には)悪い感じはしないのだが、なんだかわからんがフェミニンな文体だな、と思った。マッチョではない。(文体をフェミニンかマッチョかで分けるのは加藤典洋の「言語表現法講義」)

夏である。蝉が鳴いている。

というような司馬遼太郎の書きそうな文章がほとんどない。たまに見つけると引用だったりする。
もっと司馬遼太郎や北方謙三や志賀直哉(も、かな?)などのマッチョ文体を読んでもう少しマッチョにすべきではないかと思うのである。
文体って何のことだかずっとわからなかったのだが、こういうものなんだろうな。
敬体(です・ます)と常体(だ・である)の違いとかのことかなあ、とぼんやり思っていたのだが、そんなものではなくて、書き手の癖全体。吉本隆明の言うところの”体液”。液体であるのですぐに混ざったり染まったりする。
どうしようもなくこれまで読んできたものに影響されていることが(自分には)よくわかる。
(そういえば、括弧書きの多用というのも癖のひとつだな。)

なにゆえこのようなことを考えたかというと、少しずつヴォネガットの「猫のゆりかご」を読んでいるのだが、文体の影響ってあるな、と改めて考えたから。
僕の読んできた本からすると、当然ヴォネガットに行きつきそうなものなんだけど、これまでほとんど読んでいない。
村上春樹が影響を受けていると聞いてずっと前に一度読もうとしたことがあるはずだが、あまり記憶にない。確か「ジェイルバード」と「ガラパゴスの箱舟」を読んだんじゃなかったかと思うのだが、細切れで眠くなってわけわからん、というような印象しかなかった。
だいたい、ヴォネガットの影響が濃いといわれる、村上春樹の初期の長編っておもしろいと思ってないんだよね。高橋源一郎も面白いと思わないし。
村上春樹の長編小説で言えば、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以降のものはおもしろいと思ってて、「羊をめぐる冒険」はまあ面白いところもある、でも結局は「ノルウェイの森」がいちばん面白い、というのがここ何年も変わらない評価です。
岩井俊二の映画では「Love Letter」じゃなくて「スワロウテイル」が好きだという人をどうも信頼できないと思ってしまうように、村上春樹の小説では初期の長編がもっとも良かったとか聞くと「えー! 嘘ついてない? 格好つけてない?」と思ってしまう。初期が良かったは、大江健三郎には許されるけど村上春樹には許されない評価だ、とも思ってしまう。
わりと偏狭なところがあります。
いまヴォネガットを読んでいてわりとおもしろいと思い始めていて、評価が変わるかもしれないので(たぶん変わらないけど)、ここではっきりといまの私の評価を書いておきます。
こういう好き嫌いははっきりと書き残しておかないと、ホリエモンのことはもともと嫌いだった、と言い始めてしまうようなもので、世間の評価が変わったときにそれに合わせて自分の評価を変えてそれを信じてしまうようなことがあるのできちんとしておきます。変わって悪いことはないけれど、変わったことは意識したほうがいいと思うので。
しかしまあ一生懸命言ってるけど、僕にしか意味のない話です。
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