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☆振り返ってみる

2008年04月12日 12時05分23秒 | 文学
知らなかったわけじゃないよ、知ってたもん。
光文社古典新訳文庫からプルーストの「消え去ったアルベルチーヌ」が発売されることくらい。うそじゃないよ。
しかしなあ、全七篇のうちの六篇目だけを(べつのエディションだとしても)独立して発売して誰が読むんだろうか。その他六編はどうすればいいんだろう。結局他の文庫で揃えて買うしかないんじゃないかなあ。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(全八巻)の六巻目にべつの版があったので新潮文庫から発売されます。タイトルは「消え去ったおりょう」。なんと、おりょうが逃げます。
とか言われてもなあ。(書いてて思ったが、ぜったい買ってしまうなあ。)
しかし「消え去ったアルベルチーヌ」は僕のいまのペースからいくとちょうどいいタイミングで発売される。
読むべきなんだろうか。
まずは立ち読みだな。

今回、内田樹のブログのコメント欄の騒動から2ちゃんねるを見たので、忘れないうちにいくつかその感想を。
・2ちゃんねるは誰が言っているのかわからないのだが、よく読んでいるとこの発言とこの発言は同一人物、この発言は似ているが別の人の発言、というのが分かってくる。(しかし、分かってくるとは言っても、確認のしようがないので勘違いかもしれない。)
誠実に語っている人と、そうじゃないひとも見えてくるように思う。
読解力というかリテラシーというか、を鍛えるのにいいようにも思うが、しかし「顔の見えない人を発言から判別する能力」ってあまり使えなさそうだなあ。
・「バカ」→「バカというやつがバカだ」→「バカというやつがバカだ、というやつがバカだ」というのは子供の頃よくやった喧嘩だが、これを超えている喧嘩って実はあまりないのかもしれないと思う。
「バカ」も「バカというやつがバカだ」も「バカというやつがバカだ、というやつがバカだ」も、バカでない人はいない、というか正確に言うと、バカな部分のない人はいないので、すべて外れてはいない罵倒だ。
しかし不毛だなあ。
この繰り返しを超えたものを喧嘩と呼ばずに弁証法と呼ぶのかもしれないなあ、と思った。
・思想家や哲学者を古いとか新しいとかで判断してるうちは結局何もわかりゃしないんだよね。まわらぬ舌でドゥールーズとか言ってりゃいいよ。(「まわらぬ舌で」は吉本隆明のマネです、たぶん。)
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