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☆村上春樹「パン屋再襲撃」読了

2008年04月19日 15時34分31秒 | 文学
パン屋再襲撃 (文春文庫)村上春樹の短編集「パン屋再襲撃」(文春文庫)をすべて読み終える。
「双子と沈んだ大陸」は当時の村上春樹の心境を素直に表したものなのだろうか。双子というのは「1973年のピンボール」に登場するのだが、そのころに比べると自分の書き方、考え方もずいぶんと変わってしまったな、という感慨が表れているのかな。「1973年のピンボール」の内容をよく覚えてないのでそんなことくらいしか感じなかった。
「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」は、……なんだろう? よくわからん。
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」は声の感じ方が題材なのか。

この短編集では、表題作の「パン屋再襲撃」と「ファミリー・アフェア」が面白かった。
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☆「失われた時を求めて」メモ40

2008年04月19日 02時51分54秒 | 文学
結局内田樹のブログのコメント欄は、みんなで好き勝手な連載を始めちゃったという状態なんだろうか。
わりと笑える状態だ。
書くことへの情熱ってすげえなあ。

プルースト「失われた時を求めて」7巻298ページまで。
・ゲルマント大公のところの夜会がおわる。
ゲルマント公爵はそのあと仮装舞踏会に行きたいのだが、オスモン氏が死んだことを知らされる。
「亡くなったって! まさか、大げさだ、大げさすぎるよ!」
と言って取り合わず仮装舞踏会に出席。すごいな。
・語り手はアルベルチーヌと電話。
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☆村上春樹「ファミリー・アフェア」

2008年04月17日 23時55分28秒 | 文学
村上春樹の「ファミリー・アフェア」(『パン屋再襲撃』所収)を読む。
最初あたりの会話文がおもしろかった。
母親の登場する村上春樹の作品ってほかにあるのかな。あまり見たことがないように思う。しかし話し方は妹も母親も、そしてその他の女の子たちもほとんど同じ。
「ねじまき鳥クロニクル」で妻の兄と仲が悪いという話がなかったかと思うのだが、それと同じようなモチーフなのかな。
「ねじまき鳥クロニクル」のときはなんだかよくわからず、理由もなく妻の兄を語り手が嫌っているように思えて、別に悪い人でもないのになんで嫌うんだろうと思ったように記憶するのだが、今回読んでいてその理由がわかった。
たぶん、村上春樹が言いたいのは、私たちがひとを嫌うときは別に悪い人でもない人を特に理由もなく嫌うものなんだ。それはどうしようもないものなんだ、ということなんじゃないだろうか。
嫌いな人に理由がある場合、そこが嫌いってはっきり言えるのだけれど、ほんとうはその感じというのはとくに何か理由があるわけではない。嫌いなのは大体においてなんとなく嫌いなものなのだ。
その感じを、とくに何かが解決するわけでもなく、上手に描いた短編だと思います。
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☆村上春樹「象の消滅」

2008年04月16日 22時27分42秒 | 文学
同じ文章を読んでいるはずなのに全く違う解釈をしている感想を読むことがある。
しかも限度を超えていることがある。
あんまりインターネットをしすぎて、文章を読むときも自分の求める単語を次から次へと探してつなぎ合わせて勝手に文章を解釈している人がいるのではないかと今日ふと仮説を立てる。
前後の文脈とか、句読点とか、改行とか、会話文とか、否定文とか、疑問文とか、まったく関係なく、単語だけを検索して文章を解釈しているこの状態を「検索眼」と名付けよう。
「ほにゃらら力」が大好きな齋藤孝なら「検索力」と呼ぶはずだ。
しかし、この状態って、読書というよりもアナグラムと呼ぶべきものじゃないか。
いつか、
「お前たちのやってるのは、読書じゃなくてアナグラムだ!」
と言ってみたいものだ。
しかしそう言ったとたんにアナグラムで解釈されて全く理解してもらえないかもしれない。勝手に解釈されるかもしれない。
言っててアホくさくなったのでやめる。

村上春樹の「象の消滅」(『パン屋再襲撃』所収)を読む。
台所じゃなくてキッチン、ネクタイを外さないと個人的な意見は出てこない、のあたりの台詞がおもしろかった。
便宜的に統一感のある世界に生きているが、大きさのバランスが変わって象が消滅したりもしている、とかいう話なんだろうか。
なんじゃこりゃ、という話だった。
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☆「失われた時を求めて」メモ39

2008年04月16日 00時45分58秒 | 文学
任天堂のWiiのゲームソフト「マリオカートWii」が気になる。
たぶん買うだろうなあ。

インターネットでいろいろ見てると、読みたい本が増えてきてこまる。
どれだけ読みたい本を減らして範囲を狭めるかが読書をする上で最も重要なことなんじゃないかと最近思う。
プルースト以外はできるだけ読まないのだ。(決意)
世間を狭めると言えば吉本隆明が(って最近吉本隆明の話が多すぎる。そんなに好きだったかなあ。)、なんで外国に行かないかという質問に答えて、めんどくさいってこともあるけど、井の中の蛙の方が実はいろいろ知れる、というようなことを言ってたなあ。

プルースト「失われた時を求めて」7巻226ページまで。
・シャルリュス男爵は実はシュルジ夫人の二人の息子(アルニュルフ、ヴィクチュルニヤン)に興味があるのに、シュルジ夫人に興味のあるふりをして近づく。
たいへん狡猾だ。
シャルリュスの趣味を知っている語り手にはそれがわかるが、サン=ルーにはわからない。
・サン=トゥーヴェルト夫人がシャルリュスに馬鹿にされる。
・明日からもっと読むぞ!(さらに決意)
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☆猫のゆりかご

2008年04月14日 23時25分02秒 | 文学
やっぱり結局さ、本とか読んで、思想家とか小説家に何を求めてるかっていうと、思想の厳密さや言葉の使い方のおしゃれさとか、ほんとはそんなことどーでもよくって、とってもつらくって泣いてる時に隣に立って肩でもたたいてくれそうな、そんな人を求めてるんだよね。
なんだか、太宰治か吉本隆明か加藤典洋の誰かが言いそう、または言ったようなことを今日は内田樹のブログを見て思ったのでした。

ヴォネガットの「猫のゆりかご」が読みたい。
今日も眠い日。
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☆ゆっくりと「パン屋再襲撃」

2008年04月14日 00時15分21秒 | 文学
今日は法事だったのだけれど、なんだか眠くて、坊さんがお経を読んでいる間もぼーっとしてたら、あっという間に終わっていた。いつもはもっともっと長く感じるのだけれど。
ありがたいことだ。

NHKの大河ドラマ「篤姫」も見たがぼーっとしていてあまり内容がよくわからなかった。西郷隆盛が出世していくのが描かれていたのだろう。

こんな状態だとプルーストは読めないので、村上春樹の短編集「パン屋再襲撃」を読んでいた。この短編集は未読。
表題作の、「パン屋再襲撃」だけを読んだ。短編一つ読むのにもかなり時間がかかった。
当時の村上春樹はいやみなくらい上手い。いまも上手なのだが、これほどまでのいやみはない。
ね、見てよ僕のこの手さばき、わかる? という雰囲気が伝わってくる。
哲学的なお話、概念、用語をこれほどおしゃれに巧みにさらっと扱える人はほかにいないんじゃないかなあ。
「我々は二人ともひどい貧乏で、○○○を買うことさえできなかった。」
この○○○にはどのような言葉が入りますか? という問題が出題されて「歯磨粉」と答えられる人はまずいない。
「マクドナルドはパン屋じゃない」の台詞のところで声を出して笑ってしまった。
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☆マイク・ニコルズ監督「クローサー」感想

2008年04月13日 01時30分56秒 | 映画
クローサーずいぶん前に録画していたマイク・ニコルズ監督の「クローサー」を見た。
しかし、字幕で見たのであまり意味がわからなかった。
吹き替えで見ればよかった。
借りてきてまで見る気はしないので、これっきりさようならの映画になってしまうだろう。
猥褻な映画であるということだけはわかる。
舞台劇っぽい。
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☆振り返ってみる

2008年04月12日 12時05分23秒 | 文学
知らなかったわけじゃないよ、知ってたもん。
光文社古典新訳文庫からプルーストの「消え去ったアルベルチーヌ」が発売されることくらい。うそじゃないよ。
しかしなあ、全七篇のうちの六篇目だけを(べつのエディションだとしても)独立して発売して誰が読むんだろうか。その他六編はどうすればいいんだろう。結局他の文庫で揃えて買うしかないんじゃないかなあ。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(全八巻)の六巻目にべつの版があったので新潮文庫から発売されます。タイトルは「消え去ったおりょう」。なんと、おりょうが逃げます。
とか言われてもなあ。(書いてて思ったが、ぜったい買ってしまうなあ。)
しかし「消え去ったアルベルチーヌ」は僕のいまのペースからいくとちょうどいいタイミングで発売される。
読むべきなんだろうか。
まずは立ち読みだな。

今回、内田樹のブログのコメント欄の騒動から2ちゃんねるを見たので、忘れないうちにいくつかその感想を。
・2ちゃんねるは誰が言っているのかわからないのだが、よく読んでいるとこの発言とこの発言は同一人物、この発言は似ているが別の人の発言、というのが分かってくる。(しかし、分かってくるとは言っても、確認のしようがないので勘違いかもしれない。)
誠実に語っている人と、そうじゃないひとも見えてくるように思う。
読解力というかリテラシーというか、を鍛えるのにいいようにも思うが、しかし「顔の見えない人を発言から判別する能力」ってあまり使えなさそうだなあ。
・「バカ」→「バカというやつがバカだ」→「バカというやつがバカだ、というやつがバカだ」というのは子供の頃よくやった喧嘩だが、これを超えている喧嘩って実はあまりないのかもしれないと思う。
「バカ」も「バカというやつがバカだ」も「バカというやつがバカだ、というやつがバカだ」も、バカでない人はいない、というか正確に言うと、バカな部分のない人はいないので、すべて外れてはいない罵倒だ。
しかし不毛だなあ。
この繰り返しを超えたものを喧嘩と呼ばずに弁証法と呼ぶのかもしれないなあ、と思った。
・思想家や哲学者を古いとか新しいとかで判断してるうちは結局何もわかりゃしないんだよね。まわらぬ舌でドゥールーズとか言ってりゃいいよ。(「まわらぬ舌で」は吉本隆明のマネです、たぶん。)
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☆外野でわーわー

2008年04月11日 18時35分00秒 | 文学
(すいません。以下の文章はここ最近の内田樹のブログを読んでいない人にはまったく意味のわからぬたわごとです。なんとなく閉鎖的な内輪の話になっていて、興味のないひとにはごめんなさい。しかし私はいつだってほとんど誰も興味のないことしか書いていないのです。)

内田樹は自分のことを「態度悪い、態度悪い」ってこれまでずっとよく言っていて、「どこが? どっちかというと上品なおじさんじゃん」と思っていたのだが、ほんとうに態度が悪い(笑)ことがわかった。
しかし、こんなことがあるとコメント欄を見るのがやめられなくなります。もう見るのをやめようと思っていたのに。
清原と同じで「いぢわる」だな。
しかし一人を除いて誰もこのことに気づかないなんて、なんてみんな耳が悪いんだ。それこそ「ヴォイス」が聞けてない。
それともコメントを書く人はほかの人のコメントは見てないってことかなあ。そうか、そうですか。そうかもしれませんなあ。(と、遠くを見る)

しかしなあ、声が似てる人もいるしなあ。しかしここまで似てる人っているかなあ。
いやいや僕はもともと耳が悪いから単なる勘違いだろう。

もうそろそろいいんじゃない? とも思うがこういうことは外野から言ったって意味がないことだろう。そもそも私は球場にもいない。テレビで見ているだけなのだから。
コメント欄を読まないクレバーな人に私はなりたい!
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