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☆ベルクソン「物質と記憶」感想

2008年04月25日 18時51分59秒 | 文学
物質と記憶 (ちくま学芸文庫)ベルクソンの「物質と記憶」(ちくま学芸文庫)を読んだ。
「時間と自由」と「道徳と宗教の二源泉」(どちらも岩波文庫)を読んだときはとってもおもしろかったのだが、その二作品の間に書かれた「物質と記憶」はちょっと難しかった。もしかしたら訳文に原因があるのかもしれない。ある訳語を書いてその直後に括弧書きでフランス語の単語を載せる書き方がいくつかあったが、そういうのを見るとこの本は大学院生向けなのかな、と感じてしまう。できるだけ横文字を使わないで訳して欲しいなあ、というのが希望です。なんとなく言い訳しているように見えてしまう。もっと自信を持ってどんと行け、そして、どんと来い、と思ってしまう。
横文字といえば、「テレビ」を「TV」と表記するのも好きではない。どう読んだらいいのかわからない。ティーヴィーか?
しかし「ティーシャツ」と「Tシャツ」はどっちがいいか迷う。「T字路」を「ティー字路」と書いたらどんな道かわからなくなるし。
まあいいんですが。
もともとが難しいのかもしれないが(たぶんそうなのだろう)、「物質と記憶」は難しかった。
パソコンがそれまでの家電製品(テレビとか炬燵とか)と明らかに違うと思われるのは、ものすごく手間がかかることと壊れやすいことだろう。そしてハードウェアとソフトウェアというものを意識させる。
たとえばテレビであれば、細かい仕組みはいまだに良くわからないが、アンテナから電波を受け取って画面に表示させるというように入力と出力だけが問題で、その媒体であるテレビを意識しなかった。
パソコンは、どういうソフトウェアが入っているかということ、そのソフトウェアの更新が行われるということ、など、媒体を意識させる。
ベルクソンが言っているのは、私たちが外から受け取る何らかの刺激(光とか色とか痛みとか音とか)は、純粋にそのままでは何にもならず、そこにそれまでの記憶を重ねることによってその純粋な刺激は何かになるのだ、というようなことなのだろう。純粋な知覚としてだけ考えれば、色の濃淡でしかない周りの景色を、石があったり山があったり空があったりと広がりのある世界として見るのはそれまでの記憶があるから。
そのようなことは理解できました。
ベルクソンの言ってることが何の役に立つのか、というようなことは人それぞれだと思うが、僕にはふたつくらい役に立つかなと思えることがある。
ひとつは、質と量の話で、あるものと別のあるものがあるときに、どっちがいいかという競争になるのだけれど、そうではなくそれは質が違うのだというのはよく考えておきたいことだ。競争になるのはそういう見方をしているだけだということ。
もうひとつは、ソフトウェアは更新されるということ。昨日の私と今日の私は違うということ。
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