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☆村上春樹の短編「緑色の獣」「沈黙」、ベルクソン

2008年04月02日 23時46分56秒 | 文学
昨日の続きで、村上春樹の短編「緑色の獣」「沈黙」(『レキシントンの幽霊』所収)を読んだ。
「緑色の獣」は悪意でひとを傷つけるときの感じ、なのだろうか。たいへん短い短編だった。
「沈黙」は高邁に生きていくとはどういうことかといったことがテーマだろう。世間の悪意にさらされることがあっても何か高い所を目指す感情があれば生きていける、かもしれない。でもまた今度同じようなことがあったときに同じように乗り越えることができるかどうかわからない。それは不安だ。
といったような話だったと思う。

しかし、このように読み終わってこういう話だったとまとめてしまうことが果たして意味があることなのか、正しいことなのかよくわからない。
たとえば志賀直哉の「城の崎にて」のあらすじをまとめたところでどこが名作なのかよくわからない。まとめてしまうと死を見つめる話、とかになってしまうのだが、そして間違ってはいないのだが、つまらない。
本を読むというのは読みながら経験することなんだ、ということを今更ながら気づく。
ベルクソンとプルーストの影響だ。
ベルクソンの「物質と記憶」は第1章がもうすぐ終わる。
これまで読んだベルクソンのなかで最もむずかしい。
イマージュってものがあるとして、とまず仮定から入るのだが、そのイマージュがどういうものだかはっきりしない。
生まれたばかりの赤ん坊は目が見えないという話を子供のころから不思議に思っていたのだが、彼らの目には何かしらは入ってきている。ただ彼らにとってそれが”何か”ではないだけなのだ、というようなことを考えながら読む。
赤ん坊の目に入る何かしら、彼らの触る何かしら、それをベルクソンはイマージュと呼んでいるのだろう。
(「何かしら」がはっきりしないので、このような言い方をすればどんなことを言おうが間違いではない。ベルクソンは言いにくいことしか語らない。)

プルーストは今日はなし。
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