同じ文章を読んでいるはずなのに全く違う解釈をしている感想を読むことがある。
しかも限度を超えていることがある。
あんまりインターネットをしすぎて、文章を読むときも自分の求める単語を次から次へと探してつなぎ合わせて勝手に文章を解釈している人がいるのではないかと今日ふと仮説を立てる。
前後の文脈とか、句読点とか、改行とか、会話文とか、否定文とか、疑問文とか、まったく関係なく、単語だけを検索して文章を解釈しているこの状態を「検索眼」と名付けよう。
「ほにゃらら力」が大好きな齋藤孝なら「検索力」と呼ぶはずだ。
しかし、この状態って、読書というよりもアナグラムと呼ぶべきものじゃないか。
いつか、
「お前たちのやってるのは、読書じゃなくてアナグラムだ!」
と言ってみたいものだ。
しかしそう言ったとたんにアナグラムで解釈されて全く理解してもらえないかもしれない。勝手に解釈されるかもしれない。
言っててアホくさくなったのでやめる。
村上春樹の「象の消滅」(『パン屋再襲撃』所収)を読む。
台所じゃなくてキッチン、ネクタイを外さないと個人的な意見は出てこない、のあたりの台詞がおもしろかった。
便宜的に統一感のある世界に生きているが、大きさのバランスが変わって象が消滅したりもしている、とかいう話なんだろうか。
なんじゃこりゃ、という話だった。
しかも限度を超えていることがある。
あんまりインターネットをしすぎて、文章を読むときも自分の求める単語を次から次へと探してつなぎ合わせて勝手に文章を解釈している人がいるのではないかと今日ふと仮説を立てる。
前後の文脈とか、句読点とか、改行とか、会話文とか、否定文とか、疑問文とか、まったく関係なく、単語だけを検索して文章を解釈しているこの状態を「検索眼」と名付けよう。
「ほにゃらら力」が大好きな齋藤孝なら「検索力」と呼ぶはずだ。
しかし、この状態って、読書というよりもアナグラムと呼ぶべきものじゃないか。
いつか、
「お前たちのやってるのは、読書じゃなくてアナグラムだ!」
と言ってみたいものだ。
しかしそう言ったとたんにアナグラムで解釈されて全く理解してもらえないかもしれない。勝手に解釈されるかもしれない。
言っててアホくさくなったのでやめる。
村上春樹の「象の消滅」(『パン屋再襲撃』所収)を読む。
台所じゃなくてキッチン、ネクタイを外さないと個人的な意見は出てこない、のあたりの台詞がおもしろかった。
便宜的に統一感のある世界に生きているが、大きさのバランスが変わって象が消滅したりもしている、とかいう話なんだろうか。
なんじゃこりゃ、という話だった。