友ヶ島 戦争と平和(戦争編)

2017-11-15 00:00:05 | たび
江戸時代から友ヶ島は軍事上の要所だった。そもそも江戸幕府ができた時、徳川政権の中には、次に江戸を攻めるのは、「島津(薩摩)、伊達(仙台)、前田(加賀)」のどれかだろうと考えられていた。特に、薩摩藩が次の将軍になる運命だろうと予言のごとく思われていたらしい。そのために御三家による西からの陸のストッパーが尾張、海のストッパーが紀州で、北の守りが水戸ということになっていた。

また、幕末には外国船が大阪湾に入らないように紀州藩に対し、友ヶ島に砲台と要塞を作ることを命じた。

明治になって海軍の基地は、東が横須賀、西が呉と定まったが東京湾の入口の横須賀はともかくも、呉は外国軍の攻撃を受けにくい瀬戸内に基地を作ることになった。関門海峡を九州側から見下ろす手向山にある砲台群も外国船の瀬戸内侵入を防ぐ目的だった。

tomo11


そして明治政府も、ここに6か所の砲台を設置した。横須賀の猿島や横浜の岸根の高射砲の砲台ではなく、友ヶ島の砲台は打ち下ろしあるいは水平発射である。地対空ミサイルではなく地対地ミサイルのようなもの。

tomo12


桟橋に近い方からいうと第二砲台跡がある。整備されているようでいないような壊れ方をしている。この場所は、友ヶ島を抜けて大阪へ向かう軍艦を背後から襲うためのもの。さらに山中に第5砲台跡、かなり危険らしく近寄れない。

tomo15


丘の頂上付近には、最大施設である第三砲台跡がある。まず、地面を削り砲台が円形に確保されている。周りにあるのが砲弾の格納庫だ。そして小さなトンネルをくぐると同じような場所が現れるが途中のトンネルは真っ暗だ。フラッシュで撮影すると地面のぬかるみが見える。某元政務官のように背負ってくれる人がいないと靴は履き潰しになる。マリーニの靴しか持っていない人は、古い方から履いてきた方がいい。

tomo16


こうした円形広場とトンネルが4つ続く。残念であるが、これをもって敵艦船砲撃の実績はないが、当然ながら演習は何十回もやったのだろう。

しかし、パンフレットでは他の砲台と同等に書かれているが、形状からすると、第三砲台は高射砲だったと考えたくもなる。艦船を撃つのに窪んだ場所から撃つだろうか。ゴルフだってわざわざバンカーの中からティーショットを打つのは変だ。私は高射砲もおかれたのではないかとの仮説を立てたい。

tomo13


その他、妙な施設もいくつかあって、その一つが旧海軍聴音所。にわかには信じられないが、敵国の潜水艦などの秘密艦船が侵入しないように海面に近い建物から耳を凝らしていたそうだ。明治時代であっても漁船や商船など多くの船舶が行きかうのだから、耳を凝らす以上の方法があったのだろうと推測するが、この建物の中で気が付くのは壁から突き出ている二本の鉄材だけだ。(高射砲のあった岸根公園の壁にも同様の形状が残っていて気になる)

tomo14


島の東部には、もっとずっと危険な場所があるようだが、早々と終わる本土に戻る最終便に間に合うように、砂利の代わりに岩が撒かれたサバイバル近道を下る。靴は完全に壊れた。潜水艦で家まで帰りたい。

友ヶ島 戦争と平和(平和編)

2017-11-14 00:00:53 | たび
友ヶ島は和歌山市の沖にある大小四つの島からなるが、基本的には最も大きな沖ノ島のことを指す。いずれも現在は無人島である。ちょうど和歌山の加太港と淡路島の中間に横長に存在するため、淡路寄りの友ヶ島水道(紀淡海峡)は多くの船舶にとって大阪・神戸と太平洋をつなぐ重要航路になっている。

tomo01


そのため、特に外航船の大型船は、この友ヶ島沖で大阪湾パイロットが乗船し安全航海の指示を出している。西側の明石海峡でも瀬戸内パイロットと大阪湾パイロットの交代が行われる。つまり太平洋から岡山方面まで大型船が行こうとすると友ヶ島と明石で、のべ2人のパイロットを雇わないといけない。帰りも含めれば4人になる。といって瀬戸内海を西から行こうとすると備讃瀬戸という浅瀬があって岡山県にも行けない。

tomo05


行き方は、和歌山市の加太(かだ)という駅で南海電車(運がいいと「おさかな電車」に乗れる)を降り、10分強わかりにくい道を歩いて加太港から船に乗る。クルマは加太港そばの駐車場に置いておくしかない。そもそも友ヶ島には舗装道路はナッシングである。

tomo0


存在は前から知っていたのだが、最近急に日本人観光客が目をつけたようで、大騒ぎになる前に突撃した。前もって書いておくと、大変タフな場所だ。上陸定年は55歳?。全島が登り坂と下り坂。靴は特に注意したい。フェラガモの靴を履いていくと、誰かにおんぶしてもらわないといけないが、平らな場所は船着き場と断崖の下にある海の上。大部分は森であり、写真にはとても写せないが大型のリスがいる。目の前を通り過ぎたサイズはネコか小型犬。

tomo02


そして現在はキャンプ地としても有名だが、さすがに阪和地区だけあって、ゴミの山になっている。海にもゴミが流れている。外国人観光客が殺到するまでになんとかしないと恥ずかしい限りだよね。

それで、この島には表の顔と裏の顔があるが、題して「戦争と平和」。本日は平和の方の話。

tomo03


まず、灯台がある。無人灯台。明治5年から光を放ち続けている。冒頭に書いたとおり和歌山と淡路の中央を航走すると、必ず島に乗り上げる。

tomo06


しかも砂浜ではなくゴツゴツした岩場である。日本の東西を走る中央構造線がすぐ南にあるが、本島を含めた島々には45度に傾いた岩場による地層があらわになっている。傾いただけでなく、縦ずれも起こしたわけだ。

tomo04


そして思いもしなかったのだが、東経140度線がこの島の西側を通っている。数か月前に明石に行った時に子午線の上に立ち、この南はニューギニアと承知したのだが、この島の西端が引っかかっていた。


平和の話を書こうと思っても全然平和的に書けないついででなんだが、友ヶ島から帰ってきて数日後、沖合で遊漁船から転落した釣り客を助けようと何時間も必死に手を握っていた老船長の方が亡くなられた。

テレ東のうた番組の公開収録を観に行った少しあと、司会の福田アナが、転倒して顔面損傷したり(その後、回復)。どうも悪運を振り切れない。

和歌山城再訪

2017-11-13 00:00:36 | The 城
20年近く前だが、取引先の外資系企業の方(年上)と和歌山県へ出張したことがある。目的地は和歌山市街ではないのだが、その方は南海和歌山市駅につくやいなや、タクシーに乗り、和歌山城に向かったわけだ。ずいぶん駅前にサラ金が多いなと思っているうちに吉宗公も住まわれていた和歌山城に到着。そして直ちにきつい石段を登り始め、天守閣に辿り着いたら即、入城券を買って城内の階段を上り始め、心臓が止まりかける。

これが、私の御城探訪のきっかけなのだが、それ以来、和歌山城には行っていなかった。要するに和歌山に行くのが億劫なのと本物の天守閣は空襲の犠牲になったため再建されたものであるからである。もちろん城は天守閣だけではなく石垣や庭園や水濠や城下町の配置など見るべきものは多いが、そういうものを味わうには逆に再興天守が邪魔になるときも多い。

といっても、オリジナルは城造りのスペシャリストの藤堂高虎であるし、その後、徳川将軍8代目から14代目までが紀州藩の流れである。

今回は、JR和歌山からの出発。不思議なことに市のHPでは、城まではタクシーで行くように強く勧められているが、少し調べるとバスが沢山走っている。普通のバスに5分ほど乗ると門の前に到着。

wakayamajo1


そしていつものように堂々と正面から登っていくと、石垣群が見えてくる。やはり藤堂高虎の初期の作品なので、石垣は改良型の野面積で小さめの石が単純に積み重なっている。よくある例だが戦災や合戦で城が焼けた場合、石垣が黒く変色しているのだが、やはり空襲で激しく燃えたことが窺われるように石垣の上部半分程度は表面が黒く汚れている。

ただし、以前来た時はもっと急な坂だった感じがあったのだが錯覚だったのだろうか。天守閣内も階段がきつかった記憶があるが、特にそうは感じない。城を見過ぎたのかもしれない。それによって感動が薄れるというのは困ったものだが。

また藤堂高虎に築城を発注したのは秀吉の弟の豊臣秀長だが、完成した時には別の城に住むことになってしまい、新居は別人の館となり、その後、薩摩藩の海路での東上を防ぐために紀州徳川藩がストッパー役として入城。

wakayamajo2


最上層より眼下には一級河川の紀の川が見下ろせる。実は日本地図を見ると、徳島の吉野川と直線状でつながっているのだが、遠く西は熊本から大分を抜け四国を走り、東は茨城県までつながる中央構造線そのものであることがわかるだろう。一億年の歴史を持つ川なのだ。

wakayamajo3


城内には、徳川家の記念品はあまりなく、戦火に消えたのだろうと推測がつくが、城とはまったく関係ないが明治初期の郵便配達人が所持していた『郵便保護銃』なるピストルが目を惹いた。郵便物を襲撃する事件が多かったそうだが、明治の初めから為替制度は普及していたのだから札束を郵便で送る人は少なかったはずだし、何を運んだり奪ったりしていたのだろうか。

wakayamajo0


帰りは別の坂を下って降りると、そこはかなりの急坂で、20年近く前、急坂と感じたのはこの坂を上ったからに違いないと気付き、私を誘ったお城マニアの魂胆がやっとわかった。

出口の案内はタクシー乗り場に誘導するためのものなので、別の出口から城外に出て、バス停を探すと、城の反対側であって、一汗かくことになった。

この秋、見逃し厳禁のシャガール展

2017-11-12 00:00:01 | 美術館・博物館・工芸品
シャガールが好きな人と嫌いな人はどちらの方が多いのだろう。色彩や構図、物語性などに重きを置く人は好きだろうし、絵画のどこかにいつも幽霊が飛んでいて気持ち悪いとか、幽霊、空想の動物、不思議な顔の男女、月などのいつも登場するキャストが代わり映えしないと否定的な感覚の人も多いだろう。

chagall


一方、ピカソには及ばないものの数万点の作品を残した中には、「こんなものを作っていたのか」という作品もある。今回、東京ステーションギャラリーで開催中の「シャガール展」は、主に国内で集めた小品や彫刻を展示している。

ch
↑スマホの方は、画像を1タップを1回または2回!↑


まず、シャガールは数多くの自画像を描いている。といっても鏡に向かって自分の顔を描くのではなく、立った姿や歩く姿もある。そんな自画像があっていいのだろうか。

そして問題の彫刻。どうも石を削って立体造形を作るというのではなく、石の表面を絵を描くごとく削っているという感じだ。ともかくシャガールも色々と画風の転換にもがいていたのだろう。

阪田三𠮷記念室を訪れる

2017-11-11 00:00:13 | しょうぎ
堺市探索シリーズの最後は「阪田三𠮷記念室」。まず、阪田か坂田かという問題がある。本人が文字が書けないという問題があり真偽がよくわからないのだが、若い時の戸籍は「坂田」であり、後年の戸籍は「阪田」となっているそうだ。本人は「坂」の字は書けたそうだが、坂から阪に変わるということは本人の許可なくできることではないので、阪田の方が本筋だろう。関係がはっきりしないが、大阪だって大坂の時代があった。「坂」は「土にかえる」と読む不吉なコトバとされていた。また三𠮷の𠮷は吉ではないそうだ。

sakata0


そして記念室は、少し変わった場所にある。舳松(へのまつ)人権歴史館という被差別部落史を紹介する施設の一角におかれている。彼は堺市の南側にある舳松地区という被差別地区の長屋で少年期を送る。

実は記念室には阪田の偉業からすると展示物は少ない。一方でビデオ類は細かく編集されていて、生い立ちから始まり十代の真剣師として大阪で名を上げたところで、関根金次郎との出会いに至るまでが将棋指しとしての第一章。その後、関根、木村といった好敵手と渡り合うのだが、裏には東京対大阪という対立軸と読売対毎日・朝日という新聞社の対立軸が複雑に作用し、阪田には裏目に出る。

sakata1


記念室のビデオ解説によれば阪田の関根戦での成績は、16勝15敗1分ということで、現実的にはほぼ同程度の実力だったと思われる。東京の棋界にいなかったことが彼の不運の根源だったのだろうと思われる。

sakata2


堺市出身の偉人、「千利休と与謝野晶子」を記念した「さかい利晶の杜」に加えられなかったことを見ると、まだ出自によって差別されたのではないかと、僅かに疑いたくなる。


さて、10月28日の出題作の解答。

1111K


1111kk


15手詰と明示してあるので、14手目まですらすらと進んだ後、次の一手を見つけやすかったのではないだろうか。

動く将棋盤はこちら


今週の問題。

1111m


いつ駒を取るかがカギ。

判ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見を記していただければ正誤判断します。

堺と言えば鉄砲

2017-11-10 00:00:07 | たび
堺に行って、仁徳天皇、千利休、与謝野晶子と渋いところを回ったが、「堺と言えば鉄砲」ではないだろうか。戦国時代の戦術に決定的な影響を与えたのがポルトガルから渡来した武器、鉄砲だったのだが、堺商人の介在したパワーが今川、武田、上杉と言う戦国時代中期の大名から、その後の織田以降の新興勢力への転換の原動力になった。

まず、種子島に漂流してきたポルトガル人だが、とんでもない人間たちで、正規の航海士だったにもかかわらず、船団から勝手に離脱して中国方面で大儲けしようとしたらしい。つまり盗船らしい。それが嵐で漂流して、種子島に着いた時は助けを求めることもできず、八方塞がりだったのだが、持っていた火縄銃二本を超高額(二千両=約1億円)で種子島時尭という島主に売ったわけだ。もっとも買った方は、さっそく改造して屋久島攻撃に使おうと考えていた。武器取引とはそういうものだ。

その二丁のうち一丁をバラバラにして、コピー商品を作り始めたわけだ。もう一丁は足利将軍に献上したというから、一丁を潰すだけで製品ができるとは、相当な技能だ。そして実際に屋久島の奪回にこの銃が使われたが、当初は暴発が多発したのだが、さらに改造が進められた。

teppou1


そしてしばらくは種子島が鉄砲生産の中心だったのだが、次に現れたのが橘屋又三郎という堺の商人(というよりも工匠と言うほうが正しい。金属の鋳造技術に長けていて、例えば紀伊の三井寺の鐘に名前が残っている)。又三郎は種子島に工匠として潜入し、一年強で技術を習得。颯のように堺に戻り、鉄砲工房を立ち上げる(風の又三郎だ)。これが堺の鉄砲つくりの始まりだ。そのあと、さらに堺の技術は国内数ヶ所で進化し、全国数ヶ所が鉄砲の名産地になった。

堺には「鉄砲館」という専門博物館があるのだが、休館日だったので堺市博物館の展示品をみると、中に巨大な銃があった。大砲と火縄銃の中間サイズだろうか。大坂の陣に間に合わせて徳川側からの発注だったようだ。

teppou2


こうして野火のごとく拡がった火縄銃は全国で50万丁になる。この数字は世界のどの国の数よりもはるかに大きいそうだ。英国軍全体の銃と一大名の保有丁数が同じぐらいだそうだ。価格は現在価格で20万円から100万円の間。一丁40万円として、50万丁では2000億円になる。

その上、実はその時代以降、東アジア一帯に火縄銃が広まっていくのだが、それらはほとんどが日本製であると考えられているようだ。江戸時代に入り、火縄銃の買換え需要は激減し、販売先を海外に求めたということなのだろう。

今回は鉄砲館の休館日と言うことで、鉄砲鍛冶屋街にはいかなかったが、空襲で堺市内のほとんどが焼失したのにその地区だけは被災を免れたそうである。

与謝野晶子生誕の地へ

2017-11-09 00:00:19 | たび
実は千利休の生誕地のすぐそばに与謝野晶子の生誕地がある。利休の生家は魚問屋であったが晶子の実家は和菓子屋である(念のため、300年違うので)。利休は紀州街道の西側に生まれ、晶子は東側で生まれた。和菓子屋は駿河屋という老舗だった。

yosano


晶子は与謝野鉄幹と結婚して与謝野姓になるが、急性は鳳志よう(おおとりしょう)。月刊誌「明星」を通じて主宰者の鉄幹と知り合い、篭絡された。「明星」はロマン主義をもって中心思想としていて、北原白秋や石川啄木もグループに属していた。

また、晶子の思想は反戦主義でもあり有名な「君死にたまふことなかれ」が有名だ。また、鉄幹との間に12人の子供を産んでいる。少子化で汲々とする現代の日本なら、国民栄誉賞ものだろう。

堺市は地元の産んだ与謝野晶子と千利休を記念して、二人の生地の近くに「さかい利晶の杜」という記念館を建てている。一階が利休用で二階が晶子用だ。ついでに館長は与謝野馨氏である。

当日は晶子が選んだ新万葉集の特集をしていた。オリジナルの万葉集はかなり社会派的な歌が多いのだが、それにならって社会派和歌を収集しまとめている。本来、文芸の中に思想を入れ込むのは芸術でも思想でもない不完全なものになりやすいのだが、それが成功するというのは、かなりの量の秀歌が存在したのだろう。そういう時代でも負け戦に突っ込んでいった国なのだから、現代はもっと危険だ。

ところで、堺出身の有名人には、この二人以外にも将棋界の風雲児「坂田三吉(阪田三吉)」がいる。彼が記念館の仲間に入れてもらえなかった理由は、よく考えなければならないが、利休、晶子、三吉に共通するのは、権威に対する抵抗心なのだろうか。これもよく考えなければならないだろう。

千利休の生誕地へ

2017-11-08 00:00:02 | たび
半年ほど前だったか、京都の晴明神社の横にある利休の住まいを訪れた。晩年の利休の居宅らしく、御所の裏手であり、また当時の京の中心からは少し離れている。使っていた井戸も残っていた。

その地で利休は秀吉の癇癪にふれ切腹を命じられ、落とされた首は一条戻り橋に晒されたとされる。一条戻り橋の能書きには、死者が戻ってくる橋と書かれていて、いくつかの例が挙げられているのに利休については書かれない。都合の悪いことは書かないのが戦後日本の特徴だ。

rikyu2


ということで、終焉の地と対峙する堺市の生誕の地を訪れると、これが見事に整備されている。というのも数年前に、この隣の場所に「さかい利晶の杜」という堺市出身の二人の有名人を記念する建物が立った時に、あるお金持ちが、「それならば利休生誕の地も整備しよう」ということになった。一方、「利晶」の「晶」の方はスポンサーがつかなかった。ちなみに「晶」は仁徳天皇ではないから。

利休(田中家)は魚問屋の息子として生まれる。いわゆる海岸通りである紀州街道沿いである。地理的には紀州街道の西側、つまり街道と海岸の間に店があったのではないだろうか。裏口から魚介が運び込まれ、街道沿いの店頭で商いが行われたのだろう。

また、寂れていた堺が復興したのは日明貿易の拠点が博多、兵庫そして堺と定まったからである。細川家が中心に堺を整備した。

そして、現代の堺市の特徴として観光地には公設ガイドの方が複数いらして、仁徳天皇陵に続き、ここでも歩み寄ってくるので、解説を聞くと、敷地内にある井戸は、ポンプ式であって当時の物とは異なるが、井戸の屋形の材木は、利休由来のものであるとのこと。

rikyu1


実は、このガイドさんは、あまり利休に詳しくないようで、京都の利休庵のことは知らなったので、今一つ信頼性にかけるのだが、この屋形の古材は京都の大徳寺の三門(山門)の修繕廃材を使っているとのことである。三門の木材の表面仕上げとして人目に付かない裏側は手斧(ちょうな)仕上げで表側が鉋(かんな)仕上げということで、それらが混在して組み立てられている。

ここで、大徳寺三門の話だが、元からある三門の上に一部屋乗っけて座敷を作ったのが千利休で、そこに自らの像を置いたそうだ。これに腹を立てたのが秀吉。今回の衆院選挙でも、「人の股をくぐる気はない」と元首相が名言を残したが、秀吉も同じことを思ったらしく利休を切腹させた。その三門は重要文化財なので勝手に廃材を持ち出すわけにはいかないが平成の大修理の際に、おそらく強度不足で御用済みとなった廃材なのだろう。

そういう不吉な由来品を使っていいのか、悪いのか。まあ、故人の気持ちなどわからないから、単に観光地的観点で決まったのだろう。

仁徳天皇陵とされている大仙陵古墳

2017-11-07 00:00:52 | たび
大阪府堺市方面に行った。まず、JR百舌鳥駅から近隣の大仙陵古墳へ。今のところ世界最大の墓地であり、異論はあるものの地元では仁徳天皇陵と決め込んでいる。

実際に、写真でよく見る前方後円墳を確かめようにも、地面をいかにうろついても、絶好の撮影ポイントはない。百舌鳥(もず)駅の陸橋の上がいいと書かれていたが、単に地面よりマシという程度だ。高層ビルの堺市役所の展望会が最も眺望が良いようだが、遠くから見るより近くを歩く方を選んだ。

nintoku


そして、もっとも古墳の核心に近づいた場所で墳墓を見上げると、その全長よりも高さの方が驚きだった。大きさは全長500m程度なので歩くのは問題ないが、高さは35mほど。そこに生えている木々は15mほどだそうだ。小山全体が迫ってくる迫力がある。江戸の最後(慶応時代)の頃に、朝廷が大掛かりな改修を行ったそうだ。

ガイドの方が近づいてきたので、詳しく話してみたのだが、堺の海岸に沿って横長に展開する前方後円墳(大阪の方が丸く和歌山の方が四角)は大阪の方から和歌山の方に船で航行した時に最大規模に見えることになり、日本の大王の権力を見せるためだったということだそうだ。実際の難波宮は堺より北にあり、一方、つまり中国との接点の港は堺の南にあった。当時、中国からの公船は瀬戸内海を抜け、おそらく淡路の北側の明石海峡から大阪湾に入り、難波宮の面前を通過し、大古墳を見てから日本の地を踏んだはず、とのこと。

巨大古墳時代は、日本の主権主張のための大道具だったと解釈されているようだ。

江戸末期から明治の初めに、手を入れられたままで、発掘品も稀少であるのだが、ちょうど東京の三の丸尚蔵館で発掘品の一つが公開されるようなので楽しみにしている。

古墳時代の歴史研究が霞がかかったように不透明であるのは巨大古墳の調査が拒まれていることがかなりの要素だが、天皇家のルーツを明らかにしたくないのかもしれないが、普通の国民は天皇家のルーツよりも原日本人のルーツそのものが知りたいのだから、次代の皇室には是非、おおらかな気持ちで対応してもらいたいものだ。

蕎麦屋のカツどん

2017-11-06 00:00:18 | あじ
京都に行った時に、「そういえば、前回はにしん蕎麦を食べたので、今回は鴨南蛮を食べよう」と、にしん蕎麦を頂いた店に入って、お茶を飲みながらメニューを見ると、鴨南蛮セット(ビール付き)が2000円となっていて、その隣に書かれていたカツどん(980円)に変更。

確か、蕎麦屋のカツどんは美味い、という古来からの言い伝えを思い出した。

そして登場。

katsudon


さすが京都のカツどんというべく、盛付が美しい。卵は半熟状態で、そもそもカツの姿が見えない。

肉は前歯かみ切り感覚で、肉の厚みも衣の厚みも控えめだ。卵が半熟状態なので、ぐじゃぐじゃ掻きまわさなくても時間が経つと自然に丼全体に味が浸み込んでいく。

次に京都に行った時に、やはり鴨南蛮ではなく、カツどんを頼んでしまいそうな予感がする。

江戸の琳派芸術(出光美術館)

2017-11-05 00:00:29 | 美術館・博物館・工芸品
江戸の琳派の展覧会にギリギリに滑り込む(~11/5)。琳派が江戸というのもよくわかっていなかったのだが・・

そこに琳派の特徴があるわけだ。

rinpa


そして、本展は、基本的に「酒井抱一」と「鈴木其一」の二人展である。

琳派と言えば桃山時代から本阿弥光悦や江戸時代に入っても俵屋宗達が中心人物であり、江戸の中期には尾形光琳という天才があらわれるのだが、光琳と酒井抱一という時代と場所が離れた二人が結びついていく。

光琳が生前に酒井家に任めたことがあり、酒井家の屋敷にかなりの量の作品が残されていたという偶然があった。また抱一も強く光琳にあこがれ、模写をしたりして習作をなしていた。

さらに、抱一は詩心があり其角の弟子に連なっていたそうで、琳派のテクニックに江戸俳諧の侘びを注入したとされる。そして1815年、尾形光琳の没後百年展(百回忌)が行われ、それに合わせて多くの秀作を発表したそうだ。

光琳の華美を簡素化し、侘びを付け加えるといったら「簡素化し過ぎだ」と怒られそうだが。

その後に登場した鈴木其一はむしろ抱一よりも光琳に近いとされている。

光琳は、和紙の上に金を貼り、その上に描画を行っていたが、江戸琳派は絹の布の上に金を貼り描いているので、画質に滑らかさがあるというのも特徴と言われる。

龍馬のこと

2017-11-04 00:00:07 | しょうぎ
ドイツ麦芽100% ノンアルコール。
まさにビールを飲むが如し。
龍馬1865。
プリン体ゼロ。
添加物ゼロ。


ryuo


まあ坂本龍馬の名前を勝手に使ったのだろう。

坂本龍馬は薩長の間に入り、シナジー効果を最大にすべく二者+αで手を握った。民進党+希望の党の偽りの合流の時も坂本龍馬的な人物がいればよかったはずだ。たとえば・・・(思いつかないが)。


ところで、龍馬というのは将棋で言うと角が成った時の身分。表は「角行」裏が「龍馬」である。ちなみに「飛車」の裏は「龍王」である。

しかし、駒の呼び方は、「歩兵=ふ」「香車=きょう」・・・・ということになり、上の漢字を読めばいいことになっている。そうなると「飛成=龍王=りゅう」となるが、「角成=龍馬=うま」というのは唯一の例外になる。江戸時代の川柳などでは「うま」は桂馬のこと。そもそも坂本龍馬だって、将棋の駒に由来して付けたのだろうから、将棋界で便宜的に「うま」なんて俗称ではいけないのではないだろうか。「龍」と「馬」では格が違い過ぎる。

駒の裏側は心の裏側、裏社会、魔界をイメージして「飛=竜王」「角=魔王」「銀=邪鬼」「桂=人狼」「歩=妖犬」とか。畏れ多くて、うっかり成れないか。


さて、10月21日出題作の解答。

1104k


1104kk


動く将棋盤は、こちら


今週の出題。

1104m


手数は一桁である。いつものように即興問題。

わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と総手数とご意見を記していただければ、正誤判断します。

オーガニックワインとは?

2017-11-03 00:00:59 | あじ
地元の私鉄系百貨店の会員(TOKYU CARD)なので、時々セールのメールがくる。一ト月ほど前にきた「オーガニックワイン5本で5400円」を思わず注文したら、忘れた頃に届いた。EU各国のワインのパッケージだ。

wine0


それでふと思ったのは、オーガニックではないワインって何だろうということ。農薬とか化学肥料とか、そんなに使うことはないのではないか?いや、あるのかな?とか。

調べているうちに、どうもワイン生産の最終段階に何か添加することがあるらしい。

香料、調味料、着色料、色素安定剤、保存料などが使われることが一般的らしい。それを使わないワインを目指した運動がEUであって、それがオーガニックワイン憲章らしい。さらにオーガニックワインほどではなく、少しは使うというEU基準があるらしい。

ということで保存料がないため、長く寝かせることができないから、1本千円と安いのだろうか。よくわからない。

wine1


さっそく5本の赤ワインをワイン用冷蔵庫に入れる。この5本はコルク栓ではないのでこの冷蔵庫の中では居心地が悪いかもしれない。全36本入る冷蔵庫だが5本入れても23本にしかならない。さらにこのブログを書いているときには、既にこの5本以外にもどんどん減ってしまい、14本になってしまった。満タンにしておかないと電気代がもったいないということになる。

ところで、この5本の味だが、1本は味が離れているが4本の味は大きな差がないように思えた。ということは一般的にはワインの味がそれぞれかなり異なるのは、様々な物質の添加で本来の味を変質させているのかもしれない。

金相場はインドで動く?

2017-11-02 00:00:35 | 投資
大手貴金属取引会社からの小冊子を読んで、意外だったことが多かった。

まず、経済の話から。経済成長率で2017年はインド(7.2%)がはじめて中国(6.5%)を追い越したそうだ。さらに中国は高齢化に向かう一方、インドは内需の伸びが旺盛だそうだ。

しかも、国民の多くが「金が好き」ということだそうだ。金の需要は一番が中国で二番がインドだそうだが、中国は国内で生産と需要がミートしているが、インドではほぼ輸入。

indigold1


金の価値は変わらないということでインドでは常に装飾品として身につける人が多い。さらに、季節性がある。まず婚礼の時で、5月と11月が結婚シーズンということで需要が多い。

次に、モンスーンとの関係。一般に台風が来ない方がいいと思われがちだが、そうではなく、台風が来ない方が農業収入が伸びないのだ。

異常気候で台風やハリケーンで東アジアや北米が痛めつけられている一方、恩恵を受けている国もあるわけだ。

indigold2


ところで、経済成長を掲げるモディ政権は、インドの輸入品目で原油に次ぐ二位の「金」について課税強化をしているそうだが、国民の嗜好を税金で阻止しようというのは「禁酒法」の時代の米国マフィアの伸長の例もあり、やめた方がいいだろうか。

東寺 雨中のライトアップ夜間特別公開

2017-11-01 00:00:39 | たび
東寺は五重塔で有名だ。新幹線からよく見える場所にある。京都駅から南西に1キロほどの場所にあり、京都の街の南西(右下)側にある。

桓武天皇が京都に遷都した時に、南側の京都の入口に羅城門を作り、さらに門の東西に東寺と西寺が建てられた。つまり、京都の西側にある東寺のさらに西側に南北の中心線があった。羅城門は現在はこども用の公園になっているし、西寺は戦国時代あたりに消滅したそうだ。なぜ、西寺が消滅し東寺が残ったのかは定説がないようだ。

中心線上にあった京都御所は、室町時代に東側に移動したので、町全体が東側に展開することになり、東寺は京都の西側に残されてしまった。

ところで、東寺は空海が活動の拠点にしていたこと、秘仏が多数眠っていることが有名で、さらに国宝や重文が多数存在する。それらは長い間、秘仏として講堂や金堂の中にあり公開されなかったのであるが、最近になって公開されることになった。

特に春と秋には、五重塔とともに秘仏の夜間公開が始まっている。秋のライトアップの初日に東寺を夜間訪問したのだが、実は台風の接近を目前として、天候は大荒れ。雨がやんだり降ったり猛烈に降ってきたり、これを東門の前で開門時間を待つ間30分間も傘を差し震えた。

toji1


そして、開門時間と同時に拝観料を支払って五重塔に向かって走ろうとしても、ぬかるみや水たまりもあり簡単じゃない。



まずは、五重塔のライトアップ。離れていると神秘的で、近づくと細部まで見えてきて壮麗な雰囲気になる。拝観者はその立派さに驚くばかりだ。また離れてもよい。

toji3


次に秘仏。撮影禁止なので、画像はないが、薬師如来像には圧倒された。特に左目はどの角度に立っても拝観者が自分を見られていると感じるようになっている。そういう話は聞いていたが、そんな話は非科学的と思っていた。

さらに大日如来像はじめ数多くの仏像が東寺に集まっているわけだ。