阪田三𠮷記念室を訪れる

2017-11-11 00:00:13 | しょうぎ
堺市探索シリーズの最後は「阪田三𠮷記念室」。まず、阪田か坂田かという問題がある。本人が文字が書けないという問題があり真偽がよくわからないのだが、若い時の戸籍は「坂田」であり、後年の戸籍は「阪田」となっているそうだ。本人は「坂」の字は書けたそうだが、坂から阪に変わるということは本人の許可なくできることではないので、阪田の方が本筋だろう。関係がはっきりしないが、大阪だって大坂の時代があった。「坂」は「土にかえる」と読む不吉なコトバとされていた。また三𠮷の𠮷は吉ではないそうだ。

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そして記念室は、少し変わった場所にある。舳松(へのまつ)人権歴史館という被差別部落史を紹介する施設の一角におかれている。彼は堺市の南側にある舳松地区という被差別地区の長屋で少年期を送る。

実は記念室には阪田の偉業からすると展示物は少ない。一方でビデオ類は細かく編集されていて、生い立ちから始まり十代の真剣師として大阪で名を上げたところで、関根金次郎との出会いに至るまでが将棋指しとしての第一章。その後、関根、木村といった好敵手と渡り合うのだが、裏には東京対大阪という対立軸と読売対毎日・朝日という新聞社の対立軸が複雑に作用し、阪田には裏目に出る。

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記念室のビデオ解説によれば阪田の関根戦での成績は、16勝15敗1分ということで、現実的にはほぼ同程度の実力だったと思われる。東京の棋界にいなかったことが彼の不運の根源だったのだろうと思われる。

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堺市出身の偉人、「千利休と与謝野晶子」を記念した「さかい利晶の杜」に加えられなかったことを見ると、まだ出自によって差別されたのではないかと、僅かに疑いたくなる。


さて、10月28日の出題作の解答。

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15手詰と明示してあるので、14手目まですらすらと進んだ後、次の一手を見つけやすかったのではないだろうか。

動く将棋盤はこちら


今週の問題。

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いつ駒を取るかがカギ。

判ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見を記していただければ正誤判断します。