千利休の生誕地へ

2017-11-08 00:00:02 | たび
半年ほど前だったか、京都の晴明神社の横にある利休の住まいを訪れた。晩年の利休の居宅らしく、御所の裏手であり、また当時の京の中心からは少し離れている。使っていた井戸も残っていた。

その地で利休は秀吉の癇癪にふれ切腹を命じられ、落とされた首は一条戻り橋に晒されたとされる。一条戻り橋の能書きには、死者が戻ってくる橋と書かれていて、いくつかの例が挙げられているのに利休については書かれない。都合の悪いことは書かないのが戦後日本の特徴だ。

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ということで、終焉の地と対峙する堺市の生誕の地を訪れると、これが見事に整備されている。というのも数年前に、この隣の場所に「さかい利晶の杜」という堺市出身の二人の有名人を記念する建物が立った時に、あるお金持ちが、「それならば利休生誕の地も整備しよう」ということになった。一方、「利晶」の「晶」の方はスポンサーがつかなかった。ちなみに「晶」は仁徳天皇ではないから。

利休(田中家)は魚問屋の息子として生まれる。いわゆる海岸通りである紀州街道沿いである。地理的には紀州街道の西側、つまり街道と海岸の間に店があったのではないだろうか。裏口から魚介が運び込まれ、街道沿いの店頭で商いが行われたのだろう。

また、寂れていた堺が復興したのは日明貿易の拠点が博多、兵庫そして堺と定まったからである。細川家が中心に堺を整備した。

そして、現代の堺市の特徴として観光地には公設ガイドの方が複数いらして、仁徳天皇陵に続き、ここでも歩み寄ってくるので、解説を聞くと、敷地内にある井戸は、ポンプ式であって当時の物とは異なるが、井戸の屋形の材木は、利休由来のものであるとのこと。

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実は、このガイドさんは、あまり利休に詳しくないようで、京都の利休庵のことは知らなったので、今一つ信頼性にかけるのだが、この屋形の古材は京都の大徳寺の三門(山門)の修繕廃材を使っているとのことである。三門の木材の表面仕上げとして人目に付かない裏側は手斧(ちょうな)仕上げで表側が鉋(かんな)仕上げということで、それらが混在して組み立てられている。

ここで、大徳寺三門の話だが、元からある三門の上に一部屋乗っけて座敷を作ったのが千利休で、そこに自らの像を置いたそうだ。これに腹を立てたのが秀吉。今回の衆院選挙でも、「人の股をくぐる気はない」と元首相が名言を残したが、秀吉も同じことを思ったらしく利休を切腹させた。その三門は重要文化財なので勝手に廃材を持ち出すわけにはいかないが平成の大修理の際に、おそらく強度不足で御用済みとなった廃材なのだろう。

そういう不吉な由来品を使っていいのか、悪いのか。まあ、故人の気持ちなどわからないから、単に観光地的観点で決まったのだろう。