堺と言えば鉄砲

2017-11-10 00:00:07 | たび
堺に行って、仁徳天皇、千利休、与謝野晶子と渋いところを回ったが、「堺と言えば鉄砲」ではないだろうか。戦国時代の戦術に決定的な影響を与えたのがポルトガルから渡来した武器、鉄砲だったのだが、堺商人の介在したパワーが今川、武田、上杉と言う戦国時代中期の大名から、その後の織田以降の新興勢力への転換の原動力になった。

まず、種子島に漂流してきたポルトガル人だが、とんでもない人間たちで、正規の航海士だったにもかかわらず、船団から勝手に離脱して中国方面で大儲けしようとしたらしい。つまり盗船らしい。それが嵐で漂流して、種子島に着いた時は助けを求めることもできず、八方塞がりだったのだが、持っていた火縄銃二本を超高額(二千両=約1億円)で種子島時尭という島主に売ったわけだ。もっとも買った方は、さっそく改造して屋久島攻撃に使おうと考えていた。武器取引とはそういうものだ。

その二丁のうち一丁をバラバラにして、コピー商品を作り始めたわけだ。もう一丁は足利将軍に献上したというから、一丁を潰すだけで製品ができるとは、相当な技能だ。そして実際に屋久島の奪回にこの銃が使われたが、当初は暴発が多発したのだが、さらに改造が進められた。

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そしてしばらくは種子島が鉄砲生産の中心だったのだが、次に現れたのが橘屋又三郎という堺の商人(というよりも工匠と言うほうが正しい。金属の鋳造技術に長けていて、例えば紀伊の三井寺の鐘に名前が残っている)。又三郎は種子島に工匠として潜入し、一年強で技術を習得。颯のように堺に戻り、鉄砲工房を立ち上げる(風の又三郎だ)。これが堺の鉄砲つくりの始まりだ。そのあと、さらに堺の技術は国内数ヶ所で進化し、全国数ヶ所が鉄砲の名産地になった。

堺には「鉄砲館」という専門博物館があるのだが、休館日だったので堺市博物館の展示品をみると、中に巨大な銃があった。大砲と火縄銃の中間サイズだろうか。大坂の陣に間に合わせて徳川側からの発注だったようだ。

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こうして野火のごとく拡がった火縄銃は全国で50万丁になる。この数字は世界のどの国の数よりもはるかに大きいそうだ。英国軍全体の銃と一大名の保有丁数が同じぐらいだそうだ。価格は現在価格で20万円から100万円の間。一丁40万円として、50万丁では2000億円になる。

その上、実はその時代以降、東アジア一帯に火縄銃が広まっていくのだが、それらはほとんどが日本製であると考えられているようだ。江戸時代に入り、火縄銃の買換え需要は激減し、販売先を海外に求めたということなのだろう。

今回は鉄砲館の休館日と言うことで、鉄砲鍛冶屋街にはいかなかったが、空襲で堺市内のほとんどが焼失したのにその地区だけは被災を免れたそうである。