横浜市歌と森鷗外

2022-05-22 00:00:41 | 音楽(クラシック音楽他)
横浜市民になってかなり経つが、生まれは他の場所。そういう人は多いはずだ。自分の記憶の中では横浜市の人口は3倍ぐらいになったはずだが、東京都の人口は1.2倍くらいではないかな。

東京には「江戸っ子」という言葉があって、下町に三代住んだら江戸っ子の資格があるともいわれる。ただ、下町の定義が今一つ明確ではなく、上野は下町だが京橋のあたりは下町ではないような気もする。広義に考えれば下町条件をはずして西端が新宿位までだろうか。

横浜にも「浜っこ」という単語があるが定義がはっきりしない。横浜生まれと言い切ればいいが、こういう話を聞いたことがある。

「横浜市歌を歌えるかどうか」を「浜っこ」の踏み絵にすべきだ。

いまどき、小学校から市歌を覚えさせようとは、(国家主義のような)市民主義のような気がするが、どういうわけか人気がある。明治42年(1909年)に完成した市歌も、それほど盛り上がったわけでもないのだが、この市歌を大々的に盛り上げたのは、なぜか革新市長だった飛鳥田市長。昭和41年(1966年)専門委員会を立ち上げ様々なキャンペーンを張って市民の耳に押し込んだわけだ。そのあたりの理由はよくわからない。

当初は無理やりだったのかもしれないが、君が代のように「短くても歌いにくい」の逆で「少し長いが歌いやすい」ことと、歌詞が、横浜の自画自賛という心地よさが支持を受けたのだろう。(元々はト長調だったものを1966年に高音部を歌いやすいように変ホ長調版とヘ長調版の二種類に移調している)



歌詞の意味を短縮すると、
1. 日本は島国なので、世界中から船がやってくる。
2. 日本にはたくさんの港があるが、横浜港が最高だ。
3. 昔(開港以前)はボロ家しかなかったが、今は10万隻(百千隻)の大貿易港だ。
といったところで、横浜市民以外の国民からすれば、「たわけたことを言うな」と言いたいところだろう。

古くて恐縮だが2008年(平成20年)横浜市民の好きなご当地ソングというアンケートでは第4位だった(1位はブルーライトヨコハマ、2位は赤い靴、3位はヨコハマたそがれ、5位は港のヨーコヨコハマヨコスカ)。また、横浜ベイスターズの応援歌でもある。

ところで、ここからは森鷗外の登場である。

市歌の作詞作曲だが、作詞は森鷗外。作曲は南能衛(東京音楽大学助教授)。明治42年の段階で鷗外は47歳、南は27歳と年が離れていた。鷗外全集によれば、横浜市長の代理として三宅成城が鷗外に頼みに行ったのだが、突然の話ではなく東京音楽大学から事前に鷗外に依頼が行っていたようだ。

3月に打診があり5月に三宅が相談に行っている。そして6月6日に鷗外が音楽大学に行き、初めて曲を聴き、直ちに詞を付けたそうだ。即興詩人ということだ。

そして、手順は超速で進んでいく。なにしろ、市歌創作には理由があったのだ。市制50周年だった。式典は7月1日と押していた。


ところで、この明治42年は鷗外にとって、人生の転換点の年だった。元々、作家であり陸軍の軍医という二股人生をあゆんでいたのだが、この年に文芸誌「スバル」が創刊になると活発に創作を再開する。市歌を発表した7月には東京帝大の文学博士号を授与される。さらに7月号の「スバル」に掲載された「ヰタ・セクスアリス」が発禁処分を受け、勤務先の陸軍省からも処分を受ける。

明治43年には慶応大学に職を得、「三田文学」でも発禁処分を受ける等、抵抗する文学者に変貌していき、明治44年には陸軍省を退職する。

つまり明治42年の6~7月は鷗外にとって人生にとっての大転換点にあたるわけで、鷗外流の何回も推敲を重ねて完成させるという時間の余裕はなかったわけだ。即興詩人ではなく速攻詩人だったわけだ。

作詞報酬があったかどうかははっきりしない。市の記録には費用が記録されていて現在金額で100万円程度だろうか。ただし本人が受け取ったかどうかは不明。お礼に銀製の煙草盆が送られている。鷗外の気持ちの中に、既に近々陸軍を退職し作家一本でいく気持ちが固まっていたなら生活費の不安もあっただろうから受け取ったような気もする。さらに勘ぐれば、退職のために仕事を受けたとも思えないでもないが、そうなるとその後の鷗外の名作の数々は横浜市歌の仕事がなければ存在しなかったということになる。

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