“道灌以後”の戦国争乱

2019-07-28 00:00:45 | 歴史
横浜市歴史博物館で閉幕間近の『“道灌以後”の戦国争乱』を見に行く。一応、「おおた」を名乗っているので、不明なことが多い「太田氏」のことをチェックしてみたかった。



まず、太田氏の起源だが大きく二説あるようだ(本当は30近い太田氏があるともいわれる)。一説は清和源氏の子孫ということで、丹波の国の太田郷より苗字を決めたというもの。もう一説は横浜にある太田郷の豪族だったというもの。

もっとも先祖が天皇でも豪族でも関係ないのだが、太田氏は上杉家に仕えていた。太田道灌の本名は太田資長。当時の関東は、上杉、武田、今川の三家の力が拮抗してた。さらに千葉には里見、茨城には結城と血も涙もない残虐な新興勢力がいた。

道灌は主君である上杉家内の分裂をおさめるため奔走し、抵抗するものは厳しく処断していたとされている。その結果、伊勢原市で入浴中に暗殺される。

その後、ラフに言えば二つに血筋はわかれる。一つは岩付太田氏、もう一つは江戸太田氏。華々しいのは岩付太田氏で、あっちに付いたり、こっちに付いたり。特に北条氏に近づいたり離れたり。一方、江戸太田氏は意図していたわけではないだろうが、細く長く生き延びていた。結局、いくつかの小規模大名や旗本として明治を迎える。

いずれにしても、はっきりしないことが多い。末裔に入れてもらおうかな。