すぐに食べてはいけない藤戸饅頭

2014-09-05 00:00:35 | あじ
1184年、平家滅亡の直前に源氏による屋島攻略の先導として、藤戸海峡の浅瀬の秘密を若い漁民から聞き出した佐々木盛綱が、口封じのために一般市民である漁民を殺害したことを帳消しにしようと建立したのが藤戸寺であるが、この寺が供養しているのは、源平両軍の兵士と漁民1名ということになっている。封建制度の江戸時代に日本が決別した幕末の戦いの戦没者については、官軍だけが靖国神社に祀られている。官軍と言っても西郷は含まれない。西郷は含まれず、東条は含まれる。

一般市民については、薩摩藩邸焼き討ち事件で犠牲になった人たちの中には、巻き添えになった民間人の薩摩藩使用人が含まれている。


では、当時の日本でも盛綱の行為は「非道」だったのだろうか。そうなのだろう。何しろ源氏も平家も天皇家の末裔なのだ。逆に北条氏は非道の塊だった。次々に将軍を亡き者にし、幕府を乗っ取った。


で、話は饅頭のことに一転する。

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藤戸寺から数十メートルのところに、藤戸饅頭本舗がある。(ALWAYS 三丁目のロケ現場でもある)

もともとは、殺された漁民の法要が行われるときに、村人が供えた饅頭が起源といわれる藤戸饅頭である。すぐに食べてはいけなかったわけだ。寺に行く前に購入して、賽銭箱の前に置いて、賽銭を投入してから、食べ残しのお下がりをいただくべきものだ。

境内の茶店で出していたものを、饅頭小屋で売るようになり、万延元年(1860年)に今の場所に移った。饅頭一筋数百年である。

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で、饅頭のことだが、薄皮で餡を包んだごく一般的な饅頭である。シュウマイよりも皮は薄い。一応、材料を列記すると、小豆、砂糖、国産もち米、国産米こうじ、小麦粉である。米こうじというのが特徴かな。漁民の舌に合うのだろうか。

結局、頼朝の死後、すぐに盛綱は出家する。その後20年、源氏本流は滅亡し、饅頭本舗は生き続けた。