国書のことを調べているうちに

2012-09-04 00:00:19 | 歴史
先日、日本からの国書を受け取らずに(といっても内容を見てから)、返すという粗暴な国があったが、国書についての受け取る受け取らないといったことが過去に何回か起きていて、その一つが聖徳太子が隋の皇帝に出した国書に対する返書を、小野妹子が日本に持ち帰る途中で失くしたという事件。そしてもう一つが元寇にまつわる元の国書に対して日本が取った措置、といわれる。

その元寇絡みの国書を調べているうちに、700年以上昔の事件が、まだ済んでいないことを知ることとなる。

そのまえに復習だが、元寇は2回の日本遠征と元・高麗連合軍の敗戦という結果に終わっている。1回目が1274年の文永の合戦。2回目が1281年の弘安の合戦。

元が日本に目をつけたのは1266年と言われる。時の皇帝はフビライ。彼は属国化した高麗に対し、日本に対し、属国化を求める国書を送るように命じる。そして元の代理人として高麗が国書を5、6回日本に届けるものの、日本(鎌倉幕府)は返書を出さないことにする。どうも元の要求を断る文書は作成していたものの、それを出すとすぐに戦争になるかもしれず、時間稼ぎの意味があったようだ。

結果、元・高麗連合国が日本攻撃をはじめるが失敗する。

そして翌1275年。元は、「高麗には任せていられない」として蒙古人、杜世忠を日本に派遣。幕府は彼ら5人の使節員がスパイ活動を行ったとして、鎌倉で斬首してしまう。

そうとも知らず、帰ってこない使節は別にしてフビライは、再度使節を日本に送るが、こちらは日本上陸後、すぐに大宰府で処刑されてしまう。その時、水夫たちが逃げ出し、使節の皆殺しを元に伝え、その結果、フビライの怒りが爆発し第二次日本攻略戦が始まる。

そして、問題は、杜世中以下5名の使節団。バサッと首を切られた後、鎌倉の常立寺に合葬されたそうだ。

そして、・・2005年。

朝青竜、白鵬他大勢のモンゴル出身力士が、この寺を訪れる。

さらに、2007年。

モンゴル国大統領、ナンバリーン・エンフバヤル氏が参拝を行う。

要するに、フビライはモンゴルでは英雄。日本では鬼の扱いだ。当然、国書の使者を切り捨てるなんて蛮行もいいところだ。腹の中では、700年間の恨みがあるのだろう。

そう思えば、秀吉の扱いも日本と中国(韓国)では正反対だろうし、ドイツだって「ヒトラー」のことを案外、悪く思ってないのかもしれない。