絆(きずな)と紐(ひも)の差

2011-01-05 00:00:45 | 市民A
最近、「きずな(絆)」という言葉が、薄く広く流行っているような気がする。

例は列挙しないが、御皇室に始まり、各種政党、文化人、マスコミ関係者など。

人々の絆、社会の絆、家族の絆、日米両国の絆、・・・

もちろん現代社会にコミュニティとしての絆が失われつつある状況が、逆にこの言葉を浮き上がらせているのだろうが、ツイッター、SNS、ブログのような新しいネットワークがそれに変わっていくものかどうか、私にはよくわからない。

ところで、この絆という言葉の語源は、馬や犬をつないでおくための綱だったそうで、主従家系というか奴隷を逃がさないためのロープというか、かなり今の意味とは異なっていたそうだ。日米の絆とか日本が言うと、奴隷関係を好んでいるような意味になる(案外、翻訳するときにそうなっているかもしれないが)。だから「きずな」と書くよりも「きづな」の方がいいのかもしれない。


ところで、新年早々、宴会ということになったのだが、一次会→二次会→三次会(赤坂某所)で、ついにオジサン数名のグループの話題で登場したのが、例の三角関係(というか二重らせん構造というか・・)。

大桃美代子・麻木久仁子・山路徹関係。

どうも、苗字関係で辻褄が合わないというか理解不能の点もあるのだが、酔っ払いオジサンたちの出した結論は、「ジゴロ」。「治五郎君」ともいうが、古典的日本語でいえば、「ヒモ」。

では、なぜ普通のモテ男はヒモになり切れないかと言う話になり、やはり世間的な「資産」とか「稼ぎ」とか「未来の展望」とか「世間体」とか「家柄」とか「人生観」とか、そういうものが邪魔をするのだろう、ということに落ち着く。要するに、人間と動物の差なのだろう。

もっとも、列挙してみた「資産」から「人生観」までにしても、どうせ最後は骨壷に持ち込めるものは何一つないわけで(あるとすれば骨壷のグレードだけ)、それなら世間の掟に縛られる人間の男よりも、動物のオスになってしまえば気楽なものなのかもしれない、ともいえる。

そして、現代日本のジゴロ列伝を探してみると、すぐに思いついたのが、ワインレッド男である「玉置浩二」とか。

彼の場合は、「疲れた女の宿り木」とか言われているのだが、まあ似たようなものかな。どちらかと言うと女性のペット型か。そうすると、古典的意味での絆というコトバがぴったりだ。

ただ、玉置某と山路某とが決定的に異なる点が、「安定的稼ぎ」といったところだろうか。今夜もどこかのカラオケで、高音自慢のモテ男が「♪今以上それ以上愛されるのなら」とか、「♪あの消えそうに燃えそうなワインレッドの」とか聞くに堪えない無駄なチャレンジをすればするだけ、作曲家の銀行口座にチャリンといくばくかのコインが振り込まれるわけだ。

もちろん、ワインレッドの作詞家である井上陽水氏の口座にもチャリンなのだが、彼は若い時の行動からは予想もつかない健全パパになってしまった。もう一度こころもようを変えて一働きしてもらえないものだろうか。

他にも探せば、ジゴロ男はあちこちにいそうなので、各自研究されてみたらいかがなものだろうか。坂本竜馬もそうだろう。