西郷の洞窟、そして城山

2011-01-12 00:00:05 | 歴史
西郷隆盛について、鹿児島で考えようとしても、とても冷静にはなれないのだろう。市内の至る所に西郷の銅像はあり、また彼を批判することは、とても許されない雰囲気だ。



思えば、鹿児島市から海を望めば、巨大な火山である桜島が噴火を続けている。そして振り返って山側を望めば、そこにあるのは城山という丘と呼ぶには険しい小山である。西南戦争は、西郷がこの山に立て籠もり、数十倍の政府軍に包囲された後、洞窟から現れた西郷が、市街地へ向かう坂を一気に駆け下り、ほぼ自滅という形で終結した。1877年9月24日。戊辰戦争が土方歳三の函館での戦死をもって終結してから8年4か月が過ぎていた。1853年のペリー来寇に始まる世界史上有数のスペクタクルは、24年で終了した。

近くに西南戦争の西郷側の戦死者を祀る共同墓地もある。

いわば、毎日が西郷の呪術にかかっているようなものである。

ということで、歴史をもっと冷酷に見るためには、城山から桜島方面を望んだ方がいいかもしれない。尊王攘夷を唱えていた薩摩藩がひき起こした事件が生麦事件。これに対して英国が薩摩藩を海上から攻撃。陸上の大砲は1キロしか砲弾が届かなかったが、イギリス軍の艦砲射撃は3~4キロ届き、市街地の多くは火の海になる。



その結果、薩摩は開国派に鞍替えし、英国への補償金支払いは幕府に任せ、その後、急速に英国に近づいていく。

この桜島との間に広く英国の軍艦が並んで、一斉に撃ち始めたのだろう。

歴史の悪戯なのか、あるいは運命なのかは知らないが、たまたま生麦事件の被害者が英国ではなく米国だったりフランスだったりした場合、その後の展開は大きく変わっていたのかも知れない。