ヤン・ヨーステンを見つける

2010-04-15 00:00:17 | 歴史
東京駅八重洲口の地下街の一角に、一見シェークスピアに似た胸像があった。



ヤン・ヨーステン像となっている。彼がこの地に住んでいたため、ヤヨスという地名が残り、いずれ八重洲(ヤエス)に転じた。江戸は、最初に町割りができて、町名が決まったのだから、江戸時代のかなり早い時期にあったできごとは町名に残るが、その後、地名が決まったあとのイベントは町名にならない。


越中島、浜松町、上野、駿河台など、他の地域の地名が付いた場所が多いが、それも徳川時代初期の大名屋敷などに関係するのだろう。

有楽町は、織田信長の弟である茶人、織田有楽斎の住居があったからとされていたが、最近になって、彼の家は京都にあったことがわかったそうだ。それなら、有楽町と関係ないのではないかと思うのだが、このあたりは解明されていないようだ。個人的見解としては、住んでなくとも家康は織田有楽斎のための屋敷を用意したのではないだろうか。

秀吉の文化人交流は単に千利休だけともいえるが、家康の周りにはさまざまな人物が集まっていた。その代表的なのが、ヤン・ヨーステンとか織田有楽斎。囲碁の本因坊算砂とか将棋の初代名人大橋宗桂も文化人とりまきの一人だ。


ところで、ヨーステン像だが、芸術としてみると、表現力がイマイチである。何となく、紙に平面的に書かれた肖像画を、立体的な彫刻にしたものだろう。平面的な二次元映像を3D映画にしたようなものだろう。なぜか日本には彫刻家が少ない。

話がバラバラになるが、この胸像だが、地下に設置されているというのもいただけない。彫像というのが死者を現世に引き戻す行為とするなら、地下一階とは中途半端である。

もっとも、結局、日本に見切りをつけてジャワ方面へ転進していった彼の最後は、南洋を航海中の沈没ということであるのだから、深い海の底に眠る彼の霊を安らかに弔うには、元の住所の地下数メートルというのは最適地と言えないわけでもない。

となれば、頭上の巨大建造物、すなわち東京ステーションは、ピラミッドや仁徳天皇陵に匹敵する巨大墳墓ということになるのかな。